ビルの壁面に直接描かれた看板。
今では、市中ではあまり見かけなくなった。
余談だが、台風が来ても沖縄では看板が飛ぶ事はない。
街路樹が薙ぎ倒されても看板は飛ばない。
暴風圏の真っ只中でも会社が休みということはない。
昭和40年代(1970年ごろ)沖縄の建物にはこうした看板が方々でみられた。
当時、風が強いからだろう、くらいにしか思ってなかった。
復帰後、本土との経済力の差がひどかった時代で、看板なんかに金をかけられないからだと勝手に決め込んでいた。
どうもそれだけではない。
戦後、沖縄を占領した米軍はあちこちに基地をつくった。
住宅地だったところ、田畑だったところなどところ構わず基地にしたという。
東洋一と呼ばれる嘉手納基地も戦前は沖縄最大の穀倉地帯だったと聞いた。
終戦直後の世界では、まだまだ戦争から脱却した平和な空気はなかったろう。
日本軍も命がけで戦ったなら、米軍も命がけで戦ったであろうし、自自国の利益を最優先したことは想像に難くない。戦争そのものが自国の利益を守る或いは拡大する事が目的であるからだ。
そんな時代を過ごした人々の感覚を平和にどっぷりつかっている現代の我々の感覚をそのまま当てはめるわけにはいかない。
また、当時は既に東西冷戦が始まっていた。アメリカには日本にはない危機感があった。
ある日、突然、
「〇月〇日基地建設の為、土地を接取する」という米軍からの通達が来る。
収穫前の芋畑であっても、ブルドーザーは踏み潰して行く。背中に乳飲み子を背負った若い母親がブルドーザーの前に身体を投げ出して止めようとするが、容赦はなかったという。この場面は、20年近く前、琉球新報だったか沖縄タイムスだったか
、終戦後の沖縄を連載していた「瀬長亀次郎」の記録で読んだ。
想像するに、住宅地を追われた住民は雨露を凌げればよかったのだ。
だから、家々の作りはモルタルで生地そのままであった。タイルなどの化粧をした建物は珍しかった。看板も壁や軒先に直接描いた。20年前の沖縄の風景である。
全土を焦土と化した沖縄、地上戦が展開された沖縄。
このような風景を見るたびに、平和のありがたさを実感できる。
この戦争の犠牲の上にあるこの平和。
戦争で死んでいった多くの兵や市民の犠牲があったからこそのこの平和。
その死を無駄にしてはならない。
「だっからよう~。なっくるなるさ」
陽気な沖縄に「幸あれ」と祈る!
今では、市中ではあまり見かけなくなった。
余談だが、台風が来ても沖縄では看板が飛ぶ事はない。
街路樹が薙ぎ倒されても看板は飛ばない。
暴風圏の真っ只中でも会社が休みということはない。
昭和40年代(1970年ごろ)沖縄の建物にはこうした看板が方々でみられた。
当時、風が強いからだろう、くらいにしか思ってなかった。
復帰後、本土との経済力の差がひどかった時代で、看板なんかに金をかけられないからだと勝手に決め込んでいた。
どうもそれだけではない。
戦後、沖縄を占領した米軍はあちこちに基地をつくった。
住宅地だったところ、田畑だったところなどところ構わず基地にしたという。
東洋一と呼ばれる嘉手納基地も戦前は沖縄最大の穀倉地帯だったと聞いた。
終戦直後の世界では、まだまだ戦争から脱却した平和な空気はなかったろう。
日本軍も命がけで戦ったなら、米軍も命がけで戦ったであろうし、自自国の利益を最優先したことは想像に難くない。戦争そのものが自国の利益を守る或いは拡大する事が目的であるからだ。
そんな時代を過ごした人々の感覚を平和にどっぷりつかっている現代の我々の感覚をそのまま当てはめるわけにはいかない。
また、当時は既に東西冷戦が始まっていた。アメリカには日本にはない危機感があった。
ある日、突然、
「〇月〇日基地建設の為、土地を接取する」という米軍からの通達が来る。
収穫前の芋畑であっても、ブルドーザーは踏み潰して行く。背中に乳飲み子を背負った若い母親がブルドーザーの前に身体を投げ出して止めようとするが、容赦はなかったという。この場面は、20年近く前、琉球新報だったか沖縄タイムスだったか
、終戦後の沖縄を連載していた「瀬長亀次郎」の記録で読んだ。
想像するに、住宅地を追われた住民は雨露を凌げればよかったのだ。
だから、家々の作りはモルタルで生地そのままであった。タイルなどの化粧をした建物は珍しかった。看板も壁や軒先に直接描いた。20年前の沖縄の風景である。
全土を焦土と化した沖縄、地上戦が展開された沖縄。
このような風景を見るたびに、平和のありがたさを実感できる。
この戦争の犠牲の上にあるこの平和。
戦争で死んでいった多くの兵や市民の犠牲があったからこそのこの平和。
その死を無駄にしてはならない。
「だっからよう~。なっくるなるさ」
陽気な沖縄に「幸あれ」と祈る!