今年の元日の初日の出は見ることはできなかった。
昨夜の予報では雨か曇りだったから、半ばあきらめて布団に入った。
この数年、「紅白歌合戦」は登場する歌手も歌も馴染みがあるものが極端に少なくなったので観ることはなかった。
しかし、今回は平成最後の紅白歌合戦だと一部始終観た。
「ゆく年くる年」を観ながら、神棚と仏壇に手を合わせた。
深夜1時をまわっていたろう。
目覚めたときは7時半過ぎだった。
カーテンを開けるとどんよりしていた。
「この分だと初日の出は無理だったな」と半ば安堵した。
10時過ぎに空が明るくなった。時折、青空も見えるようになった。
ベランダに出てみると暖かな南風が吹いていた。
三社詣りするには時間が足りない。
今日の初詣だけでもやっておきたい。
近くに神社はないか、ネットで調べた。近くにはない。
と、そこで気になる記事が目に止まった。
「三社詣りは、特に西日本で今でも盛んに行われている」というものだった。
特に、九州。それも福岡で・・・。
初耳だった。全国的にに行われている普遍的なものだと信じていた。
時計は既に正午をまわっていた。
それなら初詣、「波上宮」なら間に合う。
身支度を整え、バス停に向かった。
この時分には、温度も上がり、風もなく、心地よい春日和となっていた。
ゆっくり街の正月風景でもたのしみながら散策気分で歩いてみようと思った。
58号線まで出て、那覇ゆきのバスに乗った。
正月でもバスは5分と待つことはなかった。
30分ほどできょうの歩きの起点に考えていた農林中金前に着いた。
バスを降りて、久茂地交差点を右に回る。
近年、開通した那覇空港への海中道路へと繋がる「商業高校通り」である。
商業高校通りには観光ポイントの「福州園」「松山公園」がある。
那覇商業高校。
NHK朝ドラの「ちゅらさん」の主役をを演じた「国仲涼子」の出身校でもある。
海に向かって歩く。那覇商業高校の隣り合わせに松山公園。「ちゅらさん」が撮影された公園でもある。
右が松山公園。左が福州園。
松山公園。
福州園入口。
300mほど進むと「若狭大通り」との交差点に出た。
この交差点を直進すると海中トンネルに入る。
那覇空港への最短ルートで、数年前に開通した。
途中で見つけた並木に絡ませた蘭「デンファレ」
すっかり根付いていた。
この交差点の一角に、那覇中央郵便局跡地がある。
整地された場所を見て、改めて広大さに驚いた。
ここからは目当ての「波上宮」は近い。
交差点を左に折れ、若さ大通りに入る。
大通りから裏通りに入ると静かな住宅街である。
時が止まったような、開発の手が入っていない静かな住宅地である。
参道に出て右に折れた。
参道の歩道に長い行列が目に飛び込んできた。参列者の列!
大きな神社ではないので、「参拝までには2時間はかかるな」と覚悟せねばならなかった。
30分ほどで大鳥居をくぐり抜けることができた。
これから一段一段と石段を上る。
漸く、参拝を済ませ、新しい御札や破魔矢を手にしたときは、列に加わって2時間ほど経っていた。
カメラは手に持ってはいたが、写真を撮る状況ではなかった。
石段の端に並ぶ屋台を横目に下った。
数年前までは屋台のたい焼きや太鼓焼きを買って食べたものだ。
一番のたのしみだったが、いつの間にか興味も失せていた。
帰りは58号線へと真っ直ぐに延びる参道を歩いてみることにした。
沿道はクロキの並木になっていた。延々と58号線まで続いているのには驚いた。
琉球料理の料亭として老舗「うらしま」に出くわして、これまた驚いた。
いつも58号線からばかり入っていたから、まさかその先に波上宮があるとは想像だにしてなかった。
58号線に出ると右手はモノレール旭橋駅だった。
那覇バスセンターと隣接している。左がバスセンター。
旭橋駅をくぐってバスセンターに出た。
バスを待つ間、見るとはなしに周囲を見回していて、ふと気がついた。
どこにも正月の雰囲気がない。
日の丸の旗も、門松も、しめ縄も見なかった。見なかったというより気付かなかった。
それほど数が少なくなっているのかもしれない。
本土では、昭和の頃は各戸とも日の丸を掲げ、小さくても、貧素でも玄関にはしめ縄が飾られていた。
貧しい家庭でも、ミニチュアの門松を玄関の両柱に飾っていた。
道行く車という車は車の鼻先にしめ縄をくくりつけていたし、タクシーやバスなどは日の丸の小旗をあしらっていたものだ。
30年前、沖縄に来た頃は沖縄は旧正月を祝っていた。
本土の正月風景とは違っていた。
段々と本土並みに日の丸や門松やしめ縄を新正月に飾られるようになった。
車もしめ縄をつけるようになっていた。
きょうは1台もそうした車を見かけなかった。
スーパーの売り場にも小さなしめ縄はない。
本土なら心地良い春の気温だろう午後のバス停で考え込んでしまった。
クリスマスではバカ騒ぎし、クリスマス・イブでは街中がキンキラキンに飾り付け不夜城のように輝く。
誰もがクリスマスを祝う。
クリスマスとはキリスト教徒の聖なる日であろう。馬鹿騒ぎして祝うものなのかと不思議に感じたものだった。
ハロウインに至っては話にならない。何のための祭など知る由もない。
そろそろ、バレンタインデー。街中の店でチョコレートで溢れるだろう。
日本の祭事は姿を消してゆくのになぜだ。
いつの間に、日本人は日本という故郷を忘れたのだろうか。
10数年ほど前、テレビで見たドキュメンタリーの番組で、アナウンサーがひとりの若者に訊ねた。
「今、日本が戦争に巻き込まれ、戦う羽目になったらあなたはどうしますか」
若者は応えた。
「自分たちを守ってくれないような国ならどこかに逃げ出します」
脳天を叩かれたような衝撃を受けた。
今でも、あの衝撃的な場面を忘れることはできない。
それからというものと、安全保障とか、外交とか、平和と民主主義とかを視点を変えてで考えるようになった。
バスが来た。
取り留めのない思考から開放された。
一番好きな席は運転手の横の最前列である。
バスの前輪の上にある席だから揺れは直接に体にくる。
だが、この席が好きだ。何時間座っていても飽きない。
きょうはこの席に座れた。
正月の道路は空いていた。
バスが国際通りに入ると流石に観光客で賑わっていた。
通りをゆく人々の服装や顔立ちからして中国系と思われる人々が多かった。
波上宮でも前後左右には中国語が目立った。
バス停で降り、いつもの公園では子供たちの元気な声がしていた。
半袖半ズボンの夏姿だ。
本土なら春先の気候だ。走りまわっているには寒くは感じないだろう。
この自由で平和な生活を守るのは、今の大人たちだ。
「戦争が起きたら日本を逃げる」と云った若者も、今は父親になっているだろう。
今、質問したら同じように答えるだろうか。
「俺がやらなきゃ誰がやる」
そうした日本古来の日本男児の意気は捨ててほしくはないな、と思った。
人気ブログに参加しています。
昨夜の予報では雨か曇りだったから、半ばあきらめて布団に入った。
この数年、「紅白歌合戦」は登場する歌手も歌も馴染みがあるものが極端に少なくなったので観ることはなかった。
しかし、今回は平成最後の紅白歌合戦だと一部始終観た。
「ゆく年くる年」を観ながら、神棚と仏壇に手を合わせた。
深夜1時をまわっていたろう。
目覚めたときは7時半過ぎだった。
カーテンを開けるとどんよりしていた。
「この分だと初日の出は無理だったな」と半ば安堵した。
10時過ぎに空が明るくなった。時折、青空も見えるようになった。
ベランダに出てみると暖かな南風が吹いていた。
三社詣りするには時間が足りない。
今日の初詣だけでもやっておきたい。
近くに神社はないか、ネットで調べた。近くにはない。
と、そこで気になる記事が目に止まった。
「三社詣りは、特に西日本で今でも盛んに行われている」というものだった。
特に、九州。それも福岡で・・・。
初耳だった。全国的にに行われている普遍的なものだと信じていた。
時計は既に正午をまわっていた。
それなら初詣、「波上宮」なら間に合う。
身支度を整え、バス停に向かった。
この時分には、温度も上がり、風もなく、心地よい春日和となっていた。
ゆっくり街の正月風景でもたのしみながら散策気分で歩いてみようと思った。
58号線まで出て、那覇ゆきのバスに乗った。
正月でもバスは5分と待つことはなかった。
30分ほどできょうの歩きの起点に考えていた農林中金前に着いた。
バスを降りて、久茂地交差点を右に回る。
近年、開通した那覇空港への海中道路へと繋がる「商業高校通り」である。
商業高校通りには観光ポイントの「福州園」「松山公園」がある。
那覇商業高校。
NHK朝ドラの「ちゅらさん」の主役をを演じた「国仲涼子」の出身校でもある。
海に向かって歩く。那覇商業高校の隣り合わせに松山公園。「ちゅらさん」が撮影された公園でもある。
右が松山公園。左が福州園。
松山公園。
福州園入口。
300mほど進むと「若狭大通り」との交差点に出た。
この交差点を直進すると海中トンネルに入る。
那覇空港への最短ルートで、数年前に開通した。
途中で見つけた並木に絡ませた蘭「デンファレ」
すっかり根付いていた。
この交差点の一角に、那覇中央郵便局跡地がある。
整地された場所を見て、改めて広大さに驚いた。
ここからは目当ての「波上宮」は近い。
交差点を左に折れ、若さ大通りに入る。
大通りから裏通りに入ると静かな住宅街である。
時が止まったような、開発の手が入っていない静かな住宅地である。
参道に出て右に折れた。
参道の歩道に長い行列が目に飛び込んできた。参列者の列!
大きな神社ではないので、「参拝までには2時間はかかるな」と覚悟せねばならなかった。
30分ほどで大鳥居をくぐり抜けることができた。
これから一段一段と石段を上る。
漸く、参拝を済ませ、新しい御札や破魔矢を手にしたときは、列に加わって2時間ほど経っていた。
カメラは手に持ってはいたが、写真を撮る状況ではなかった。
石段の端に並ぶ屋台を横目に下った。
数年前までは屋台のたい焼きや太鼓焼きを買って食べたものだ。
一番のたのしみだったが、いつの間にか興味も失せていた。
帰りは58号線へと真っ直ぐに延びる参道を歩いてみることにした。
沿道はクロキの並木になっていた。延々と58号線まで続いているのには驚いた。
琉球料理の料亭として老舗「うらしま」に出くわして、これまた驚いた。
いつも58号線からばかり入っていたから、まさかその先に波上宮があるとは想像だにしてなかった。
58号線に出ると右手はモノレール旭橋駅だった。
那覇バスセンターと隣接している。左がバスセンター。
旭橋駅をくぐってバスセンターに出た。
バスを待つ間、見るとはなしに周囲を見回していて、ふと気がついた。
どこにも正月の雰囲気がない。
日の丸の旗も、門松も、しめ縄も見なかった。見なかったというより気付かなかった。
それほど数が少なくなっているのかもしれない。
本土では、昭和の頃は各戸とも日の丸を掲げ、小さくても、貧素でも玄関にはしめ縄が飾られていた。
貧しい家庭でも、ミニチュアの門松を玄関の両柱に飾っていた。
道行く車という車は車の鼻先にしめ縄をくくりつけていたし、タクシーやバスなどは日の丸の小旗をあしらっていたものだ。
30年前、沖縄に来た頃は沖縄は旧正月を祝っていた。
本土の正月風景とは違っていた。
段々と本土並みに日の丸や門松やしめ縄を新正月に飾られるようになった。
車もしめ縄をつけるようになっていた。
きょうは1台もそうした車を見かけなかった。
スーパーの売り場にも小さなしめ縄はない。
本土なら心地良い春の気温だろう午後のバス停で考え込んでしまった。
クリスマスではバカ騒ぎし、クリスマス・イブでは街中がキンキラキンに飾り付け不夜城のように輝く。
誰もがクリスマスを祝う。
クリスマスとはキリスト教徒の聖なる日であろう。馬鹿騒ぎして祝うものなのかと不思議に感じたものだった。
ハロウインに至っては話にならない。何のための祭など知る由もない。
そろそろ、バレンタインデー。街中の店でチョコレートで溢れるだろう。
日本の祭事は姿を消してゆくのになぜだ。
いつの間に、日本人は日本という故郷を忘れたのだろうか。
10数年ほど前、テレビで見たドキュメンタリーの番組で、アナウンサーがひとりの若者に訊ねた。
「今、日本が戦争に巻き込まれ、戦う羽目になったらあなたはどうしますか」
若者は応えた。
「自分たちを守ってくれないような国ならどこかに逃げ出します」
脳天を叩かれたような衝撃を受けた。
今でも、あの衝撃的な場面を忘れることはできない。
それからというものと、安全保障とか、外交とか、平和と民主主義とかを視点を変えてで考えるようになった。
バスが来た。
取り留めのない思考から開放された。
一番好きな席は運転手の横の最前列である。
バスの前輪の上にある席だから揺れは直接に体にくる。
だが、この席が好きだ。何時間座っていても飽きない。
きょうはこの席に座れた。
正月の道路は空いていた。
バスが国際通りに入ると流石に観光客で賑わっていた。
通りをゆく人々の服装や顔立ちからして中国系と思われる人々が多かった。
波上宮でも前後左右には中国語が目立った。
バス停で降り、いつもの公園では子供たちの元気な声がしていた。
半袖半ズボンの夏姿だ。
本土なら春先の気候だ。走りまわっているには寒くは感じないだろう。
この自由で平和な生活を守るのは、今の大人たちだ。
「戦争が起きたら日本を逃げる」と云った若者も、今は父親になっているだろう。
今、質問したら同じように答えるだろうか。
「俺がやらなきゃ誰がやる」
そうした日本古来の日本男児の意気は捨ててほしくはないな、と思った。
波上宮の周辺地図
人気ブログに参加しています。