浦添市屋富祖にひっそりとたたずむ戦没者の碑。
「芳魂之碑」と刻まれた裏にあった。
建立は復帰前の昭和39年11月とある。
左奥にみえる鳥居が素朴で胸を打つ。
「芳魂之碑」と刻まれた裏にあった。
建立は復帰前の昭和39年11月とある。
左奥にみえる鳥居が素朴で胸を打つ。
昨日、気象庁は沖縄の梅雨明けを宣言した。
梅雨明けといっても、太平洋高気圧が張り出して来ないため、今日も灰色の雲が駆けるように南の空から北へ流れていく。
いよいよ、6月23日は「慰霊の日」である。
「黎明の塔」も「摩文仁の丘」の各県慰霊の塔も、そして「平和の礎」も「平和祈念資料館」も広い平和祈念公園の中にある。
「平和の礎」の奥には摩文仁の断崖絶壁がある。
この絶壁からみる太平洋の海原は広く素晴らしい。
沖縄戦当時、この美しい海原は米軍の艦船で真っ黒になったという。
左には「平和祈念資料館」がある。
疲れてはいるだろうが、勇気を出してここまではいってみよう。
説明はここでは省きたい。とにかく足を運ぶことだけを伝えたい。
海軍壕からひめゆりの塔、平和祈念公園。
平和祈念公園から数分、後戻りしたところに「健児の塔」がある。
最近は、この塔による観光も少なくなった。
「健児の塔」は、終戦真近い1945年3月31日に、13歳~19歳の学徒により編成された「鉄血勤皇隊」の自決した地である。
1800名ほどの隊員の内、890名が戦死あるいは自決した。
海軍中将太田実の最後の電報に、
【沖縄本島が敵に攻略され始めて、陸海軍は防衛戦に専念せざるを得なく、県民に関してはほとんど顧みるにことができなかった。しかし、本職が知る範囲に於いては、県民は青壮年(せいそうねん=おおよそ16歳から50歳くらい)の全部が防衛のための召集に応募し、残された老幼婦女子は相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産の全部を失い、わずかに身を以って軍の作戦に差し支えない場所の小防空壕に避難、尚(なお)、砲爆撃下‥‥(判別不能)風雨に曝(さら)さらされながら乏しい生活に甘んじている。】
と書かれている。
まさに、沖縄県民は日本の捨石となって戦った。
6月23日は「平和の礎」で、毎年、慰霊の祭典が行われる。
近年、総理大臣が参列するようになり、テレビで全国放映されるようになった。
今年も菅首相が参列される。
普天間の問題が日本中を議論の渦に巻き込んでいる。
われわれは、先人が命を捨てて果敢に戦ったそのことを無駄にしてはならないと思う。
特攻隊のことを戦時内閣がやったとかこと、沖縄戦は日本軍がまさに敵であったとか、マスコミなどで喧しくいわれている。
そうした歴史の検証も大切だろう。
しかし、死んでいった兵士や若者や学徒たち、送り出した親や兄弟、子供たち。
われわれはこうした人たちのことをどれだけ知り、思いやり、感謝しているだろうか。
歴史論や政治論はほとんどが形式論である。
前線で戦い、戦場で散って逝った軍民のこころに少しでも触れ、悼み、心から感謝しなければならないだろう。
そうした思いを込めて、敢えて、ここに書き留めた。
健児の塔については下記に詳しく説明されている。
http://www.city.naha.okinawa.jp/heiwa/gaid/online/kenji.htm
左上のメモリーを上下して位置を確認してください。拡大・縮小されます。
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中心は「平和の礎」。
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