あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の戦跡・ひめゆりの塔

2008年07月29日 09時13分35秒 | Weblog
6月2日のブログで触たが、写真はリバートレッキングの一枚である。友人がトレッキングとカヤックをやっている。「井黒」という名のナイチヤーであるが、商売・事業というより趣味で楽しんでいる感じである。国内の大手航空会社に務めていたが、故あって渡米。20数年後、帰国。沖縄の地に根を下ろし、この事業を始めた。本人から聞いた話ではないが、夫人がウチナンチューであるところから察するに、夫人との大ロマンがあったに相違ない。
彼の語りがいい。人柄そのものだ。最初の出会いでフアンになった。今も、炎天下でせっせと励んでいることだろう。
前のブログでも紹介したが、再度、アドレスを記載しておこう。
         http://www.ikiwaku.com/program/2.html
         mail; info@ikiwaku.com

 ひめゆりの塔は南部の町糸滿市にある。海軍壕から車で30分余り。周辺はみやげ物店が並び、観光スポット化している。壕の入り口に立つとそんな周囲の雰囲気を霧散させてしまう。戦場の真っ只中で、じめじめした壕に潜み、恐怖におののきながら死んでいった乙女たちを思いやるにやるせない憤りを感じる。「戦争」という美名?に隠れた公認された殺人。その無意味と無残さを全身で感じる事でしょう。隣接して資料館がある。正式には「平和祈念ひめゆり資料館」である。この資料館は、是非、観て欲しい。館内では目頭にハンカチを当てる人々。感動でも、感激でもなければ同情でもない、無念さと憤りの涙だ。
 このひめゆりの塔の傍に、ひっそりと訪れる人もまばらな慰霊塔がある。失念して思い出せないが、付近で尋ねればすぐ判る。歩いて2,3分のところ。若い魂に冥福を祈って欲しい。

 ひめゆりの塔から車で3,4分のところに「琉球ガラス村」がある。
その先、20分程度に平和祈念公園がある。


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沖縄の戦跡・海軍壕公園から那覇市内を望む

2008年07月25日 17時51分44秒 | Weblog
10年振りに海軍壕を訪ねた。
何度目かのことだが、その度に印象が変わる。
今回は、いくつもの部屋に分かれた地中深い壕の小部屋を覗き、説明を読んでいくと初めて来たような新鮮な印象であった。
「戦跡」と文字の上をすべり、戦跡にたたずんでもその状況を想像することは難しい。「旅行・観光」という日常生活から解放された状況では、特にじっくりと観、聴き、想いを馳せることは更に難しい。事前に組んだスケジュールは思いっきり綿密に組まれているから、スケジュールの消化に気がいってしまう。

 近年、海軍壕周辺は公園として整備され、小高い丘の上からは写真のように那覇市内が眼下に広がる。こうして見ると、那覇の町は他県の様相と全く違う。
この日は友人の展示会に出席し、会場で一緒になった女性と連れ立って、お土産の弁当を持参し、大きなガジュマルの樹の下で遅い昼食をとった。沖縄の木陰の風は心地良い。まさに、涼風である。
 周辺は自動販売機があるだけだから、ホテルか市内にたくさん見かける弁当屋、又は手軽にコンビニでピクニック気分で食事をし、その後、ゆっくりと海軍壕を見学されると良いでしょう。
 日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部があり、太田実司令官が自決に当たり、海軍次官に宛てた「訣別の電文」は読む人の胸を揺るがす事でしょう。
 この「海軍壕」、「ひめゆりの塔」とその資料館、平和祈念公園の「平和の礎」と「平和祈念資料館」は時間をたっぷりとって観て欲しい。

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さようなら 沖縄を愛した男

2008年07月16日 11時25分23秒 | Weblog
 昨日15日夕刻、同じ郷里福岡県生まれの友人が他界した。
独身で、遠地に一人来ている為、見送る親族は姉とその娘の二人だけというさびしい旅立ちでした。
 3年前、初期肝臓癌が見つかりましたが、初期だったので簡単な摘出手術で終わったようです。しかし、その後持病の糖尿が悪化、1年ほど前から透析治療を週3回受けねばならなくなり、好きな泡盛も飲まなくなっていました。病状が悪化したのは今年4月、癌の再発でした。糖尿の為、摘出手術ができず、体力の消耗で透析治療もままならず、次第に食欲も減退。10日ほど前から透析に耐えるほどの体力もなくなっていました。この暑さも災いしたのでしょう、昨夕、容態が急変し、ひとりで旅立ちました。
 口数の少ない男で、沖縄が大好きで、「死んだら骨は海に流してくれ」と云っていました。彼が生きている間はわれわれ友人が間断なく見舞い、何かと面倒を見てきました。しかし、死んでしまえば彼の親族の意思を尊重せざるを得ないことを痛感しました。死んだということを病院からの通報で知り、急遽、友人3人と駆けつけましたが、葬儀の準備など親族の意向で進められていました。
彼の好きな泡盛などを供え、ささやかながら親しかった者だけで通夜をやろうと考えていたけれど、切り出すこともできず空しく退去しました。
「そうなんだ。ここからはもう彼の意向など関係ないんだ」そう言い聞かせて、彼の眠る病室で「さよなら」と告げました。「早すぎるじゃないか」そうも云った友がいました。
 生前、彼の沖縄に対する批評の言辞は痛烈でした。他県の人々から非難されるのが堪えられなかったのです。決して、他県の人間に向かっては言いませんでした。沖縄県人に向かってのみ声高に熱弁をふるっていました。その彼が沖縄に住みついて10年余りで幕を閉じたのです。
 今も、こうしてブログを書いていますが、葬儀がどうなったのか、11時を過ぎようとしていますが、親族からは何の連絡もありません。
「骨の灰の少しでももらって、あいつの好きな沖縄の海に流してやりたい」
そう思ってきたけれどあきらめないといけないのでしょう。

 デイゴの花も少なく、短かった梅雨のことしの沖縄。
何十年も前のアロハを着て「かりゆしウエアだ」といってはばからなかった奴。
少し出っ歯で、大好きだったピーナツを泡盛グラスにポロポロこぼしていたあいつ。口下手で、カラオケといえば「昴」と「無錫旅情」が定番だった。

 そちらの世界がどんなところかしらいけれど、お前らしく生きればいいよ。

                                  合掌。