- 所 在 地 蒲生郡日野町鳥居平
- 築城時期 16世紀中期
- 標 高 224メートル
- 主な遺構 曲輪、土塁、堀切
- 経緯度 35° 2' 13.85" N 136° 15' 38.23" E
滋賀県の南東部、蒲生郡に位置する日野町は戦国時代の
英傑「蒲生氏郷」の生まれ故郷として知られている。中
世末期、現在の日野町の南部過半を領していたと考えら
れる蒲生氏は、守護六角氏の重臣として勢力を拡大する。
その頃、町の北東部にあたる東桜谷地域は「奥津保」と
呼ばれ、小倉氏が領していた。小倉氏は愛知郡小椋荘を
本拠としていたとされるが、永ぶL八年(1511)の
『永源寺文書」が右京亮・兵庫助・右京進の三家に分立
していることを記されている。中世後期には数家に分裂
していた(推定)。伝承ではその内の一家が佐久良に移
り城を築いたとされる。
この両者は、応仁の乱以降に、姻戚関係にあり、京から
永源寺に逃れて来た五山の僧を保護し、傑出した武将で
あったと言われる小倉実澄は、蒲生貞秀とは夫人が姉妹
の間柄で、両者とも同じ細川方として京をはじめ各地を
転戦しており、良好な関係を保つていたとされる。さら
に、実澄の孫に当たる実光に子がなく、蒲生家から養子
(蒲生定秀三男実隆)を迎え、ともに守護六角氏の家臣
として行動していたが、永禄七年(1564)、それま
で度々延暦寺領山上郷の年貢を押領した小竹右京太夫(
伝山上城主・東近江市)に対して、六角氏より小倉実際
に追討命令が出され3月16日に和南山(東近江)で行
なわれた合戦において、当主実際が討死するという事態
が起きる。3月23日に小倉右京太夫が六角氏{佐々木
氏)に縁のある永源寺の塔頭を焼討ちし、5月1日に佐
久良において、六角方の寺倉吉六の家臣である園城式部
丞が小倉右京太夫と合戦(永禄7年5月3日付 寺倉吉
六宛 六角義弼感状)、5月23日に小倉右京太夫が永
源寺の塔頭を再び焼討ちしている事が記録に残る。この
結末は明らかでないが、後世の軍記物は、蒲生定秀が小
倉の拠点を焼き討ちしたことにより小倉氏が敗れる形で
決着したと記している。いずれにせよ、これらを契機に
小倉氏は衰退し奥津保一帯は事実上、蒲生氏が領するこ
とになったとされている。
鳥居平城は奥津保の丘陵上に築かれた城郭の1つ。この
城の東約七百メートルの丘陵上にあった四ツ谷城(遺構
消滅・伸明寺文書にある実隆によって築かれた「奥師城」
か?)。ごの支城として築かれたといわれる。享保年間
に刊行された『淡海温故録附巻 古城之図』の「蒲生郡
奥津保四ツ谷古城全国」には削平地が四ヵ所描かれ「砦」
とのみ記されているという。城主については、前述の蒲
生家家臣寺倉氏や、小倉実隆を養子に迎えたことで家臣
が分裂した際の一派、『蒲生郡志』が「東桜谷村大字鳥
居平の山上に在り-吉倉氏の城と云う-」と記すように
蒲生家家臣吉倉氏といった名が伝承としてのみ残るが、
その規模は現在確認されているだけでも約六百メートル
×百三十メートルにおよび、南東側に伸びる可能性があ
り一家臣の居城とは考えられない規模である。
遺構は、標高220~230メートルほどの東西に伸
びる低丘陵尾根上に十数箇所の曲輪が残存している。直
下を前川が流れる曲輪北面は、比高約40メートルの切
り立った崖となり、鳥居平の集落がある南面は20メー
トル程度で緩やかな斜面となっている。曲輪の平面プラ
ンは一辺約40~80メートルの規模で旧地形に影響さ
れ、不整形のものが多く、周説明板が設置された曲輪に
残る土塁囲に土塁を設けるものであり、石積み等か使用
された痕跡はない。主要な曲輪と曲輪の間は一部を除き、
比高差5~10メートル前後の堀切あるいは堀切状の地
形を設けており独立性が高いものから構成されている。
さらに、城域は大きく.3つのブロックに別れている。
1つは西部の丘陵先端から三ヵ所の大型の曲輪が連なる
ブロック、続いて北部と東部に小区画曲輪群、南部に帯
曲輪を伴う標高て223.8メートルに位置する主郭と推
定される曲輪のあるY字状のブロック、さらにその南東
部に位置する大区画ブロックである。この内、南東部の
ブロックに関して、後世の撹乱があることを除いても他
のブロックと比較すると異質で、区画が大型になってい
るにも関わらず、曲輪間の堀切や土塁の規模は高さや幅
が約三メートルと小型化し、両斜面沿いの土塁もほとん
ど見られない。方形区画を強く意識していることと、西
側のニブロックとは機能的、時期的な差があると考えら
れる。機能的には居住性は高いが、城郭として積極的な
防御意識は明らかに低い事から、どちらかといえば駐屯
地的な要素が強いと思われるという。
現遺構の使用時期および使用者を検討してみると、立地
条件や、この規模の城郭を必要とする軍事力を有しまた
管理出来る者の候補をあげるとするならは、小倉氏や蒲
生氏の家臣レベルではなく、奥津保、さらには永源寺方
面への侵攻時に、蒲生氏が拠点城郭として使用したと考
えられると、振角卓哉は解説する(『近江の山城 ベス
ト50を歩く』より)。
【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.「近江の山城ベスト50を歩く」中井均、サンライズ
出版
2.「近江の山城・平城 位置図」、同上
3.賤ケ岳合戦・黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文
書発見、2013.5.10、毎日新聞
4.「賤ヶ岳の戦い」、Wikipedia
5.「姉川の戦い」、Wikipedia
6.「姉川-奇襲、戦い小規模-説」2009.7.9 朝日新聞
7.「姉川の合戦再見実行委員会」
8.「横山城-滋賀県-~城と古戦場~」
9.「近江 鳥居平城/近江の城郭」
-------------------------------------------------