鳥居平城

2013年09月01日 | 滋賀百城

 

 

 

 

  • 所 在 地  蒲生郡日野町鳥居平
  • 築城時期 16世紀中期
  • 標   高 224メートル
  • 主な遺構 曲輪、土塁、堀切
  • 経緯度 35° 2' 13.85" N  136° 15' 38.23" E

滋賀県の南東部、蒲生郡に位置する日野町は戦国時代の
英傑「蒲生氏郷」の生まれ故郷として知られている。中
世末
期、現在の日野町の南部過半を領していたと考えら
れる蒲
生氏は、守護六角氏の重臣として勢力を拡大する。
その頃、町の北東部にあたる東桜谷地域は「奥津保」と
呼ばれ、小倉氏が領していた。小倉氏は愛知郡小椋荘を
本拠としていたとされるが、永ぶL八年(1511)の
『永源寺文書」が右京亮・兵庫助・右京進の三家に分立
していることを記されている。中世後期には数家に分裂
していた(推定)。伝承ではその内の一家が佐久良に移
り城を築いたとされる。

この両者は、応仁の乱以降に、姻戚関係にあり、京から
永源
寺に逃れて来た五山の僧を保護し、傑出した武将で
あったと
言われる小倉実澄は、蒲生貞秀とは夫人が姉妹
の間柄で、
両者とも同じ細川方として京をはじめ各地を
転戦しており、良
好な関係を保つていたとされる。さら
に、実澄の孫
に当たる実光に子がなく、蒲生家から養子
(蒲生定秀三男
実隆)を迎え、ともに守護六角氏の家臣
として行動して
いたが、永禄七年(1564)、それま
で度々延暦
寺領山上郷の年貢を押領した小竹右京太夫(
伝山上城主・東
近江市)に対して、六角氏より小倉実際
に追討命令が出され
3月16日に和南山(東近江)で行
なわれた合戦において、当
主実際が討死するという事態
が起きる。3月23日に小倉右
京太夫が六角氏{佐々木
氏)に縁のある永源寺の塔頭を焼討ちし、5月1日に佐
久良において、六角方の寺倉吉六の家臣である園城式部
丞が小倉右京太夫と合戦(永禄7年5月3日付 寺倉吉
六宛 六角義弼感状)、5月23日に小倉右京太夫が永
源寺の塔頭を再び焼討ちしている事が記録に残る。この
結末は明らかでないが、後世の軍記物は、蒲生定秀が小
倉の拠点を焼き討ちしたことにより小倉氏が敗れる形で
決着したと記している。いずれにせよ、これらを契機に
小倉氏は衰退し奥津保一帯は事実上、蒲生氏が領するこ
とになったとされている。



鳥居平城は奥津保の丘陵上に築かれた城郭の1つ。この
城の東約七百
メートルの丘陵上にあった四ツ谷城(遺構
消滅・伸明寺文書にある
実隆によって築かれた「奥師城」
か?)。ごの支城として築かれたといわれる。享
保年間
に刊行された『淡海温故録附巻 古城之図』の「蒲生郡
奥津保四ツ谷古城全国」には削平地が四ヵ所描
かれ「砦」
とのみ記されているという。城主については、前述の蒲
生家家臣寺倉氏や、小倉実隆を養子に迎えたこと
で家臣
が分裂した際の一派、『蒲生郡志』が「東桜谷村大字鳥
居平の山上に在り-吉倉氏の城と云う-」と記す
ように
蒲生家家臣吉倉氏といった名が伝承としてのみ残るが、
その規模は現在確認されているだけ
でも約六百メートル
×百三十メートルにおよび、南東側に伸びる可能性があ
り一家臣
の居城とは考えられない規模である。
 遺構は、標高220~230メートルほどの東西に伸
びる低丘陵尾根上に十数箇所の曲輪が残存している。

下を前川が流れる曲輪北面は、比高約40メートルの切
り立った崖となり、鳥居平の集落がある南
面は20メー
トル程度で緩やかな斜面となっている。曲輪の平面プラ
ンは一辺約40~80メートルの規
模で旧地形に影響さ
れ、不整形のものが多く、周説明板が設置された曲輪に
残る土塁
囲に土塁を設けるものであり、石積み等か使用
された痕跡はない。主要な曲輪と
曲輪の間は一部を除き、
比高差5~10メートル前後の堀切あるいは堀切状の地

形を設けており独立性が高いものから構成されている。

 

さらに、城域は大きく.3つのブロックに別れている。
1つは西部の丘
陵先端から三ヵ所の大型の曲輪が連なる
ブロック、続いて北部と東部に小区画曲輪群、南部に帯
曲輪を伴う
標高て223.8メートルに位置する主郭と推
定される曲輪のあるY字状のブロック、さらにその南東
部に位置す
る大区画ブロックである。この内、南東部の
ブロックに関して、後世の撹乱があることを除いても他
のブロ
ックと比較すると異質で、区画が大型になってい
るにも関わらず、曲輪間の堀切や土塁の規模は高さや幅
が約三
メートルと小型化し、両斜面沿いの土塁もほとん
ど見られない。方形区画を強く意識していることと、西
のニブロックとは機能的、時期的な差があると考えら
れる。機能的には居住性は高いが、城郭として積極的な
御意識は明らかに低い事から、どちらかといえば駐屯
地的な要素が強いと思われるという。

 
現遺構の使用時期および使用者を検討してみると、立地
条件や、この規模の城郭を必要とする軍事力を有し
また
管理出来る者の候補をあげるとするならは、小倉氏や蒲
生氏の家臣レベルではなく、奥津保、さらには永
源寺方
面への侵攻時に、蒲生氏が拠点城郭として使用したと考
えられると、振角卓哉は解説する(『近江の山城 ベス
ト50を歩く』より)。
 
 

  

 

【脚注及びリンク】
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1.「近江の山城ベスト50を歩く」中井均、サンライズ
 出版

2.「近江の山城・平城 位置図、同上
3.賤ケ岳合戦・黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文
 書発見、2013.5.10、毎日新聞
4.「賤ヶ岳の戦い」、Wikipedia
5.「姉川の戦い」、
Wikipedia
6.「姉川-奇襲、戦い小規模-説」2009.7.9 朝日新聞
7.「姉川の合戦再見実行委員会
8.「
横山城-滋賀県-~城と古戦場~
9.「近江 鳥居平城/近江の城郭

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