高島市勝野には、「城山」と呼び親しまれている山塊
がある。この山塊は比良山地の北限で琵琶湖に近接する
位置にある,JR近江高島駅の西側に、一際そそり立つ
山塊が、「城山」こと打下城跡である。
打下城跡へは勝野にある日吉神社の南手谷に向かって
左手口から登り始める。途中、ガリバー堰堤を右手に見
ながら登山道を約30分登る。そこで、左手樹木の間の
急斜面を曲がりながら進む。細い道(道しるべがある)
を屈曲しながら約20分這い上がると山の稜線に辿り着
く。稜線の手前に石柱らしき遺構があり、その片に門状
の建物が設置されていたのかもしれない。
この稜線を右に行けば、平安時代前期の創建と伝えら
れる山岳寺院の長法寺跡に行く。また、左に約10分ほ
ど進むと目指す打下城跡に着く。打下城の中主郭前には
大きな堀切が造られ、土橋状遺構が残されている。土橋
の先は中主郭の土塁が行く手を塞ぐ。
打下城の城郭構成は概要図に示したように、大別する
と2ブロックに分けることかできる、先はどの稜線づた
いに来ると、中主郭の四手にあたりノ西南方向から廻り
こむと、30メートル×25メートルの中主郭の南から
東に進むことができ、北東に張り出す石積の櫓台にあた
る、虎口の通路より内側の平坦部へと入る。曲輪は南半
分は低土塁を巡らせ、北半分の一部には石積が確認でき
る。曲輪内の北には板石を方形に組んだ遺構が残る。炉
跡ではないかと考えられる。
続いて、北に延びる尾根を下って行くと、九ヵ所ほど
の小曲輪が連結している,この小曲輪の先端の土橋を渡
ると、54メートル×32メートルの規模を有する北主
郭に入ることができる。平面影は不整平行四辺形をして
おり地山の規制からこの様な形をしていると考えられ
る。曲輪内は北から南に対して緩斜面となっているが、
東西には堀り込まれた遺構が見られる。
また、北東の土塁の内側と東端の外側には石積の残欠
が見られることから、本来は石積であったものであろう。
本北主郭の北東辺土塁下に七条と、虎口の南東下方に
も七条ほどの畝状竪堀群が見受けられる。高島市内の城
郭遺構としては、同種の遺構は清水山城(新旭町)にも
あり、貴重な山城遺構である。
本山城は、東方に琵琶湖が望め、かつ北方には安曇川
と鴨川によって形成された高島平野が広がり、直下を通
過する北国海道(西近江路)を容易に見渡すことができ
る。また、湖トぶ父通の監視もたやすく、まさに要害の
地を呈する。
築城者については、土豪林員清(輿次左衛門)が永禄
年間(1558~69)に築城したと伝えられ、『信長
公記』には、元亀四年(1573)、信長が林員清の所
(打下)を陣所として高島郡を攻撃したと記されている。
この所(打下)が打下城跡とされる。打下城は大溝古
城とも呼ばれ、天正六年(1578)、信長の甥にあた
る織田信澄の天溝城築城に先駆ける山城として位置づけ
られる。登城はかなりきつい。
出典:
【エピソード】
【脚注及びリンク】
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1. 長法寺跡と城山(打下城跡)トレッキング 、2013.12.01
2. こころに残る滋賀の風景、滋賀県
3. 日本古城殿の会
4. 打下の林員清と 浅井・朝倉討伐、びわ湖源流 ドットコム
5. 元亀争乱-織田信長最大の危機
6. 打下古墳の発見
7.滋賀県高島市の古墳
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