【佐和山城郭都市考 2】
● 彦根の巡礼街道
巡礼とは、わが国の場合、四国のお遍路がある。日常の
生活を一時的に離れ、宗教の聖地・聖域に参詣して、聖
なるものにより近づこうとする宗教行動、またはそれを
実行する人をさす。巡礼は世界の多くの宗教で重要な宗
教儀礼となっていいる。特にその宗教の信者圏が、特定の地
域、文化領域を越えて遠方に広がっている宗教においては、
巡礼はとりわけ重要なものとされている、
巡礼に出る場合には、伝統的には参拝講、これを現代風に
いいますと団体パック旅行のように集団を組んで聖地に参る
型と、個人の発意により、各自が個人として巡礼に出る場合
とがある。
聖地はほとんどの場合は、遠方の辺鄙な場所にあるため、と
くに交通が貧弱な時代には、個人的に参拝することは、極め
て困難だった(熊野詣で)。また巡礼は多くの日数となり費用
を必要とする、これらの理由で集団型巡礼は世界の巡礼で
盛んである。
巡礼者は、また文化や情報の伝播者でもある。ところで
花山法皇の選定によるとしています西国三十二番の杜所
があった金亀山彦根寺の観音堂は、かって彦根山に存在
していたが、奈良時代の初期に、その山麓から西へ直線
に近い道路が造成。これは、時の彦根の領主であり、藤
原房前により築造される。
幅員は平均四メートル(約二間)。彦根山の麓から西へ
直線の道路で、南青柳橋の北端から東側の対岸に道路が
あった。開出今町の善教寺付近から甘呂町の南中学校の
北付近と日夏町に旧道が残っている。彦根心の南端の愛
知川に架橋している。八幡橋の付近で、現在の朝鮮人街
道となる。これが彦根寺の参道であった巡礼往還の道を
形成する。
この街道の由来について「扶桑(ふそう)略記」の「彦根寺験記
」に、『摂津国水田郡に沙門徳満いう人が二十歳のときに両眼
を失明する。大和の長谷寺に「願かけ」をすると、「お前の願い
は、私の力にはおよばないが、近江国犬上郡の彦根山西寺
の観音霊場に行って一生懸命に祈願すれば、三日のうちに
必ずおしるしがある」というお告げにより、徳満がお告げに従
って、彦根山西寺にお参りすると、三日目に両眼が開いたと
の伝承による。この話が諸国に広がり、多くの人々が彦根山
へと足を向け、西の方から巡礼姿で出かけたため、その道を
巡礼街道と呼ぶようになる。
藤原房前(天武天皇九年~天平九年(六八.~七三七)
)は、聖武天皇に什え、人望は高く、権力は大きく、領
地彦根においては、大堀町から東沼波の首利川(芹川)
付近にかけて、往時の偉裂を偲び、巡礼街道の築造を見
ることにより、房前の努力に思いを馳せることができる
でる。
慶長八年(一八○三)の彦根城築城以後は、この地の古
い事物が消滅してしまう。ところで、彦根市内の巡礼街
道の延長約10キロは、現在の池州橋から直線で彦根城
内濠の人手橋の西付近を本丸に続く彦根山し長尾山とも
に山頂部には台地はなく頂上近くの西側山腹に彦根寺の
伽藍が存在していた。
Friedrich Hoelderlin (1770-1843)
序説 ヘルダリーンと現代(2)
● 巨人ゲーテの背後に
ツェラーンを招き入れ聴えるかぎりの肉声の自作朗読を
彼に強いたもうひとりの稀行な、その時点で.200年
前に出生した詩人こそ本書の主人公のヘルダリーンであ
る。我々の詩人は、ヨハンー・ヴォルフガング・フォン
・ゲーテ(1749~1805)より11年、フリード
リヒ・フォン・シラー(1759~1805)より11
年遅く生まれただけだから同時代人であることは間違い
ないが、二人があまりに抜きんでてしまったために、7
3歳の長命を保ったにもかかわらず、二人の背後にひっ
そりと隠れるような形でしか世には知られなかった。結
局は両者との半弓の詩人資質の差賢に帰するにしても、
詩の表しようや、ほぼ20代半ばで精神の病に沈む運命
となったことなど基本的に二人とは異なる要因が考えら
れる。
ヘルダリーンの全てを否定し去ったわけではないが、そ
れぞれの機会を的確に捉えてはその生の明暗を縦横に具
体表現できるゲーテは、ヘルダリーンの中期の、主題に
あまりに真剣に対峙する長めの詩に触れただけで主観性
と表現量の過刺を批判し、過酷なまでの断じ方をした。
一方、シラーは同郷(シヴァーベン)出身ということも
あり、ヘルダリーン作品に内在する思想表現の多さによ
る詩全体のさをしたものの、日常に適合しそうもない、
一途に理想を希求するこの青年の秀でた待人性を見抜き、
その開花のために道筋がつくよう助言した。彼の重なる
助言は、大学講師への道も断たれたヘルダリーンが独立
して文芸・思想誌の編集と発行を計画しし、シラーに寄
稿と助言を求めたとき、計画は断念しその余力を創作に
向けるべきとの、実際に雑誌を出し多くの沁労を経験し
た立場からこそ言えた忠言にも通じるものである。その
シラーも、自身の多忙と健康上の理由からヘルダリーン
から去った。深い畏敬の念から一言を発するにも神経を
使いつつ、それでも数年毎に連絡を企てたシラー、返事
が次第に途絶えがちになりながらも郷里の後輩の本質を
誰よりも見取っていたはずのシラーとの絆もこうして断
たれた。
● 副牧師就任を拒否
徹底したキリスト教(新教)管理教育の全過程、つまり幼年時
のラテン語学校に始まり初等、高等各1年の僧院学校を経て
このコースでは頂点の テュービングン大学神学校を修rした
ヘルグリーンには、まず副牧師を始めとする勤務のあと
牧師職としては最も安定した生活が約束されていた。キ
リスト教は彼が生を7けたヴュルテンベルク公国ひいて
はドイツ全体(神聖ローマ帝国)が認知した国教である
から、公国のように宗教改革以降新教であれ、最も安定
した保証された世界財界であることは間違いない。しか
もこの地方の最高の養成コースを経たとなれば、彼の人
生は完璧に保証されていたはずなのだ。
しかし彼は、コース修了後に付与されたこの条件付きの
保証を拒否する。何故か? この何故に応えようとした
小さな試みが本書の内容であり、生涯を作品の一部と共
に追跡しながら、その般も服要な基盤の示す詩人世界を
かいま見ることになるであろう。
ヘルダリーンは同時に、17世紀末に始まり.18世紀
前前半を中心に南ドイツのシュヴァーベン地方でも浸透
した敬虔ド義の洗礼を無意識のうちに受けていた。プロ
テスタント教会内部の自己改革にに基づく心情と実践の
趣旨も当然ながら、自然に分け入り根元の伸縮性に直接
触れる一面を開示する敬虔主義思想を、ヘルダリーンは
この財に生まれおちたときから宿命的に根深く持ち蒔わ
せていたとしか言いようがない。多分ここに早くもも、
教条主義や権威に凝りかたまる排他性の強いキリスト教
と一線を画していく詩人姿勢が打ち出されてくるのは自
明の必然だった。何よりもその一切の源泉としての自然
の恵みを全身に隅なく呼吸してしまったことが、ひとり
の少年を境を越えた無限の拡がりへと誘った。少年のこ
の拡がりへの越境は、古典語の学びと相侯って始まった
古代ギリシアーヘラス世界に直接通じる道をおし開き、
シュヴァーベンの全自然がそのまま河流や大空を通して
ホメロスやピングロスの描く僥雄らが生きるエーゲ海や
神々の川住するオリンポスともなっていったのである。
公国国教を管轄し管理する役所は、国直轄の宗教局だっ
た。ヘルダリーンはシュティフト修終了時にその国家試
験に合格したにもかかわらず、義務の副牧師就任を拒絶
したわけだから、以後は宗教局の厳しい監択トに置かれ
る。詩人白目久という最も過酷な道に自身を晒していく
以上は深刻な生活問題が避けられないが、当時このよう
な場合のほとんど唯.の方法が資産家の子弟の家庭教師
になることだった。
同い年で同じ道を進んだ人に、高名な哲学者ヘーゲルが
いる。しかし彼は、ヘルダリーンから思想形成で強い影
響を受けたあと念願の入学教授になり、ベルリン大学総
長にまで昇りつめていった。ヘーゲルにもそれはどの影
響を与えた人為と自然との分離を克服する独自の合一思
想、それも単なる合一ではなく巨大な過程としての悲劇
性を小説、劇、そして讃歌でこそ歌い深めた我々の詩人
は、この家庭教師のみ繰り返す。繰り返すということは
ドイツや隣国の各地に散らばる金持ちの雇い主の許へそ
のつど赴くことだから、息子の人並みの安定した生活だ
けを望んでいた生地ラウフェンに近いニュルティングン
のけの家が彼の唯.の出発地であり、同時に出戻り先に
なる。そのいく度かの繰り返しの梁てに、やがて狂気を
引き受けるに至るのだ。
発病後も、ヘルダリーンはテュービングンで生きつづけ
た。シラーも、長生きのゲーテも死に同じ頃けが死んだ
あと15年も生きた彼も、以後の押韻詩 眺望(208
頁参照)と共に倒れていく。
小磯 仁 著『ヘルダーリン』 清水書院
【エピソード】
16年度新年会(案)
日時 2月6日(土)か2月13日(土)のどちらかで
開宴18:00~20:00まで
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 寿司懐石(6千円+飲み放題酒代1・2千円)
送迎 幹事が責任もって手配します。
幹事敬白
【脚注及びリンク】
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- 中山道 高宮宿場町|彦根市
- 中山道 高宮宿 彦根観光協会
- 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿
- 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
- 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
- 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
- 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
- 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
中山道 2004.4.9 - 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
つり・高宮布 - 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
- 中山道高宮宿 馬場憲山宿
- 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
- 新高宮町史 自費出版デジタル
- 彦根巡礼街道
- 朝鮮人街道 Wikipedia
- 彦根市の概況 - 学芸出版社
- 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
島一 サンライズ印刷出版部 2002.9.20 - 中島一元彦根市長 Wikipedia
- ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体
コンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭 内閣
府経済社会総合研究所 - ボーデン湖 Wikopedia
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- 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07 - いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
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頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06 - 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳 - 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
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式日本語 - 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会編 サンライズ出版
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『絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』詩文楽 - リンダウ - Wikipedia
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- 八幡神社 滋賀県彦根市田附町488
- 三ツ屋城 近江国(彦根)
- 「清涼寺・七不思議 」/『日本伝承大鑑』
- 曹洞宗 清涼寺(せいりょうじ)
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- 中国の城郭都市 : 殷周から明清まで 愛宕元著
- 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
- 万里の長城 世界史の窓
- 中国厦門の城郭都市研究における外邦図の利用
山近久美子(防衛大学校)2005.08.25 - ヨーロッパ100名城 Wikipedia
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- 第一章 鎌倉・南北時代の石部近江守護佐々木氏
の成立 - 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
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- 佐和山城跡の公式パンフレット 彦根観光協会
- 彦根藩並近郷往古聞書
- 彦根古図部分(滋賀大学経済学部附属資料館所蔵)
- 井伊家年譜
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- 丹羽長秀 Wikipedia
- 『新修彦根市史』の紹介 | 彦根市
- 彦根古図略図 彦根市
- 金亀山彦根寺の観音堂 ―近江西国第14番 金亀山
北野寺とも - 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
浩司 サンライズ出版 - 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
大手門は必見 | 城めぐりチャンネル - 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
- 滋賀県彦根市 専宗寺 JAPAN-GEOGRAPHIC.TV
- 彦根御山絵図 彦根三根往古絵図など古絵図デジタル
・アーカイブ化に、彦根市立図書館 2012.05.27
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