今日、ふの話。
あ、いや恐怖の話です。
恐怖に向き合い克服するという話。
ここ数年冬の時期に一人で夜の山を歩くことがよくあります。(選手らと行くことも)
夜の山?一人で?怖くないの⁉といわれることもしばしば。
夜の山には怪我、野生動物との遭遇、この世のものではない何かの恐怖←これが一番怖いか?
があると思います。
私が最初に夜の山に一人向かった時、猛烈に恐怖を感じていた事は事実です。
登山口は人里離れた山の中腹、すぐ脇にはお寺が妖しくたたずんでいます。
車でそこに行くのが恐怖だし、車のエンジンを消して暗闇に踏み出すことなどもう・・・。
聞いたことのない動物の声。
恐怖心から生み出されるありもしない人影。
緊張は最高潮に達しましたが、私は何故か通過しなくてもよいお寺の庭に足を運びました。
恐怖する自分に打ち勝つためにです。
で、庭の四方にそびえ立つ杉の木の先に星空を見上げたところで思いついたのです。
「もはやお化けとか見たら俺ラッキー?」
そもそも周囲では、私自体が宇宙人説ある意味あんた一番怖ぇーよ。という声も・・・。
と、いうわけで夜の山に登ってみたら、空気はおいしいし、星は奇麗だし、街明かりは輝いているし、気持ちは落ち着くし、ポジティブな考えが浮かぶし、良いことだらけ。
何度か行くたびに恐怖は薄らいでゆき、そこは今では「怖い場所」ではなく、自分を浄化する「やさしい場所」となりました。
つまり恐怖を克服したんですね。
↑見てください。大阪の夜山ではムササビ様にご挨拶できるチャンスだってあります
ただ、上記の話よりずっと恐怖を感じる場面を過去多く経験していた事も紹介します。
それは大切なレースのスタートラインに向かうあの時間帯です。
そこでは色々な恐怖が沸き上がります。
自分の努力が無駄になる恐怖
誰かに負けることへの恐怖
怪我をする恐怖
期待を裏切ってしまうかもしれない恐怖
誰かの努力を無駄にしてしまう恐怖
なによりも、苦しみや重圧に耐えられず、自分が弱い人間である事を証明してしまう恐怖
矛盾にも思えますが'誰にも負けない’と自負する取り組みを続けるほどにその恐怖は膨れ上がってゆきます。
もはや、それだけを求め続けてきた人生においてはアイデンティティーを否定されかねない状況というわけです。
周囲からみたら「何もそこまで」と思うような事かもしれません。
ただ、恐怖の存在を受け入れることで、集中力が最大限に高められることも経験的に理解していました。
逆説的に言えばトレーニングを含む膨大な作業はその恐怖を徹底的に自分に植え付け、目的達成に向けた逃げ場をなくすものであった。
とも考えています。
ただ、恐怖はコントロールできなければマイナスの要素が大きいことは言うまでもありません。
事前に徹底的に恐怖を想定し、意識や目を向けることでそれを克服し、肝心な場面で自分を律する試みが必要です。
もしそこまでして結果が望みに届かなければ納得もできますし、次のチャレンジへの協力も得られるはず。
人は、大切な事を成し遂げようとするときにも大きな恐怖を感じます。
恐怖を避けていたら成し遂げることもできません。
大切な目標を見つけることができたなら、次は恐怖に向き合うステップです。
皆様もいかがでしょう。
恐怖への突撃訓練。
以上、恐怖の勧めでした。
※恐怖の中へ突撃するかどうかは、自分の人生の価値観に相談してみてください、やみくもにしては危険です。
夜山でお化けが出たら、ソーシャルディスタンス度外視のにらめっこに挑む所存です。
…無理だ…怖すぎる。
そもそもお化けとの間に社会性は存在するのか?
山中で視線を感じ見上げればオリオン氏にバリバリ見張られていたという。やはり私は宇宙人...
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます