靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

「スリープオーバー」という習慣

2011-11-21 02:11:13 | 出来事や雑感や (子育て)
こんなツララのぶら下がる倉庫のような建物、


ローラースケートリンク。


次女のクラスメートの誕生日会。長男長女も参加させてもらう。

次女はそのまま誕生日の友人宅に宿泊。日本では少なくとも私の子ども時代は友人間で宿泊、というのはあまり聞いたことがなかったけれど、こちらの「スリープオーバー」とか「パジャマパーティー」とか呼ばれる習慣、こういった誕生日などの特別な日以外でも友人間で宿泊し合うということをする家庭も多い。スケートやボーリングや映画などのイベントの後、夜を通して普段とはまた違った時を友人達と共有する。友人達との繋がりがぐっと強くなったような気分になる。

アメリカ全土に見られるこの「スリープオーバー」、いつ頃からこんなに行き渡るようになったのだろう、と思ってちょっと調べてみたけれど、よく分からなかった。周りに聞いてみると昔は今ほど行き渡った習慣ではなかったらしい。

こちらは子供だけで出歩くという機会もかなり限られていて、友人と遊ぶのにも事前に親同士がセットアップ、というような状況。それに核家族少子化が進み、普段学校以外一人でいることも多い子ども達をなるべく孤立させず他者ともっと密な関係を築かせてあげよう、という親たちの配慮もスリープオーバーがこれだけ広まった一つの原因なのかもしれない。「社会性が育つ」そう一人の親が言っていたのを思い出す。

一方、「夜皆で羽目をはずす」というような雰囲気をあまりよく思わない家庭もある。ティーンネイジャーになるとスリープオーバーに関する様々な問題も聞かれ、小さな頃からそういった癖をつけない方がいいという親もいる。

「いい面」「気をつける面」を考慮しつつ、家の場合は、誕生日などの特別な機会そして家族ぐるみでよく知った家庭に誘われたときのみ、と今のところ決めている。ほどほど程度にたまに楽しむ、というスタンスで。

親戚の家や修学旅行や、夜他の子ども達と一緒に過ごした楽しさ、私自身の内にも強く残っている。友人達とそんな思い出を築いてくれたら、と願いつつ。

「ずらす」、食べられたパンプキン

2011-11-19 01:11:16 | 子育てノート
何でも自分でしたい2歳児次男。時間がないからと周りから途中で手を貸されたり、したくてもまだまだ難しかったり、思うようにいかず手足をバタバタさせて泣き叫ぶこともしょっちゅう。

昨日も帰宅したガレージの車の中。自分ではずしたいシートベルト、なかなかうまくいかず。横から見かねた姉の一人がはずしたとたん、のけぞって泣き叫びカーシートから転げ落ち助けようとする手を振り払いまたよじ上ってシートの中でワンワンと。抱っこしようと手を差し伸べようが、お姉ちゃんは助けてあげようと思ったんだよと諭そうがワンワン。

荷物を降ろしたり整理したりとしばらくしたあと、相変わらず泣き叫んでいる次男に顔を近づけ目を大きくして少しささやくような声で言ってみる。

「ろい(名前)、お庭のパンプキン、ムースが食べちゃったかな」

ピタリと泣き止み、大きな目をして私の顔をじっと見る。ちょっと疲れた表情、何でこんなことになっちゃうんだろうって僕だってもうたまらなくって、という声が聞こえるよう。

コクリと頷きながらやっと腕の中におさまった次男を抱っこし前庭へ。雪の上にたくさんのひずめの跡。ほんの少しだけオレンジ色の皮が真っ白な雪の中に埋もれている。

「むしゃむしゃ食べちゃったんだね。今度ムースに美味しかったか聞いてみようか。今頃お腹いっぱいになって山の中で気持ちよく寝てるのかな」涙をためた目でうんうんと頷きながら、「むしゃむしゃ」「聞いてみるの」「ねんね」と相づちを入れる次男。

家に入るとすっかりご機嫌になって遊び始める。しばらくして膝の上にのってきた次男。
「ろい、えんえん泣いてたね」
「うん、えーんえーんて、自分でできるのおって」
照れ笑いしながら答えると、お気に入りの車の玩具を手にまた走っていく。


子どもが癇癪起こしたり取り乱しているとき、真正面から向き合いこちらもヒートアップして互いに火に油を注ぎ合い、ということを何度何度も繰り返してきた。そして徐々に少しずつまずは「ずらす」のがいいのだと学んでいった。今でもまだまだメラメラとしたやり取りにはまり込むこともあるけれど。

「ずらす」のは「ムースに食べられたパンプキン」だったり「ひんやりとした夕闇の空気」だったり「キラキラ光るつらら」だったり「遠くに聞こえる犬の遠吠え」だったり。五感への働きかけに、はっと「ずれる」瞬間。

まずは落ち着きゆったりとした気持ちになる、それから「はまっていた状態を客観的に見る」。もう少し大きな子とは「どうしたらそうならないようにできるか」「どうしたら改善していけるか」などと話し合ったり。

長い間かけて気づいたことのひとつ。

手塚治虫さんの言葉

2011-11-19 01:10:45 | 引用
手塚治虫さんの漫画を読んで育った。実家に手塚さんの作品ほとんど全部あったのじゃないかと思う。物心ついたときから周りに溢れいて、何度も何度も読んだ。小さな子にはかなり際どいエッチなシーンや、歴史や宇宙の壮大なシーンにドキドキしながら。(笑)

子ども時代のことを思い出していたら、以前読んだこんな手塚治虫さんの言葉を思い出した。

“ダメな子”とか“わるい子“なんて子どもは、ひとりだっていないのです。もし、そんなレッテルのついた子どもがいるとしたら、それはもう、その子たちをそんなふうに見ることしかできない大人達の精神が貧しいのだ、ときっぱり言うことができると思います。

『ガラスの地球を救え』光文社文庫より

子どもに返る

2011-11-19 01:10:37 | 子育てノート
一昨日三女のプレスクールで親ミーティングがあった。先生と親たちが集まり交流を深める会。

歌で始まる。久しぶりに歌った。子どものことから自身の幼稚園保育園時代の話。あんなことがあってこんなことがあって、皆が子ども時代を振り返って話す。

私は保育園で育った。祖母が経営していた保育園の二階に住んでいたので、本当に文字通り保育園で育ったのだった。0歳から6歳までの保育園、3つの校舎の内の「ベビー組」校舎の二階で大きくなった。祖母、親戚、母、皆その保育園や隣接する学童保育で働いていた。物心ついた頃からたくさんの子ども達大人達に囲まれた日常。家の中に家族以外の人がいるのが自然だった。

普段見慣れた友人の子ども時代の話を聞くうち、今の目の前の姿に小さな彼女達の姿が重なっていく。子ども時代を思い出し友人達と話を共有することで、いつしか子ども達と同じ高さで同じ視点から周りを見ているような気分になってくる。子どもに返っていくような感覚。

昔ウォルドルフのワークショップで大人同士手を繋いで輪になりスキップなどしながらくるくると回ったりしたことがある。「親ももっと遊ぶといいんですよ」そう講師の女性が言っていた。

あの毎日がワクワクとした感覚、その時その時の一瞬に全てがあって。そんな子どもの姿を内に抱いていけたら。


ミーティング後のプレイルームで。

砂で遊ぶ次男と次女。

ゴールに向かって

2011-11-17 01:41:49 | 思うに
この先一年くらいを目処に、形にしていきたいものがあり、何とかかんとか日々少しずつでも進んでいこうとしているのだけれど、あまりにもそのゴールが遥か遠くに見えて途方にくれることがある。

「だめだめ、全然だめ、あなたにそんなことできるわけないじゃない」そんな自身の内に聞き慣れた声が大きくなる。砂浜でうつむいてカニと戯れていたくなる。(笑)

ゴールへ至る道を整理し、できそうなゴールに細分し目の前に置いていく。それらのゴールを一つ一つクリアし積み重ね。内に様々聞こえる声には「はいそうですか、叱咤激励ありがとう」と答えつつ、身体で確実な一歩一歩を踏み出していく。

皆さんの歩いていく道、応援してます。

拡大鏡な子どもたち

2011-11-17 01:41:45 | 子育てノート
子どもを見ていると、自身の状態が鏡のように分かることがある。

この子落ち着きないな、と思い振り返ると、自身が落ち着きない状態が続いていたり。

それが、子どもによっては私自身にある少しの芽でさえも、倍以上の形となって表れたりする。だから普通の鏡というより、拡大鏡を通した自分を見ているようと言った方が合っているかもしれない。

話していたり何かに共に取り組んでいる途中に、下の子達がギャーギャーといい始めたり、あちらこちらで緊急事態が起こってそちらにかかりきりになったり、会話も一緒にしていたこともぶちりと切れたまま次のことへ、そんなことがよくあるのだけれど、拡大鏡へは如実に表れる。そわそわそわそわと注意散漫度拡大。しゃれになってないどんな状況でも、内はゆったりとその子の目をしっかりと見て接するよう心がけることで、随分と変わると感じている。

あと私の内の「不安の芽」が何倍にもなって映し出される子もいる。まずは自分が「安心していること」、するとその子も落ち着いてくる。

拡大鏡に囲まれ、鍛えられる日々です。

リスペクトフルに接すると

2011-11-17 01:40:20 | 子育てノート
最近よく感じるのは、リスペクトフルに接すると、子ども達もリスペクトフルに接してくれる場合が多いということ。

「こんな言い方尊敬する誰々さんには決してしないでしょ」と思うような言い方、少し距離置いて見直し、「尊敬する誰々さん」に話すときのことを思い出しながら向き合ってみる。

「尊敬する誰々さん」なんてはるか遠くに吹き飛ばされていく瞬間も多々あるのだけれど(笑)、 心に留めつつ。

そんなことを思っていたら今まで何度が目にしたことのあるこの詩を思い出した。



けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもはみじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子にはならない

誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ

認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる

見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ

親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ

守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ

和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世はいいところだと思えるようになる


「子供が育つ魔法の言葉」(ドロシー・ロー・ノルト、レイチャル・ハリス共著、石井千春訳、PHP研究所)より



あれ、尊敬という言葉なかった。(笑) 「尊敬をもって接すると、他へも尊敬をもって接するようになる」、こんな風に付け加えていくのもありだろう。

人工着色料

2011-11-17 01:39:47 | 出来事や雑感や (その他)
知り合いのADDと診断された息子さん、医者に人工着色料のRed 40、Yellow5を排除してみてくださいと言われたという。息子さんの大好きなお菓子をみると、ほとんどこのRed 40、 Yellow5が入っていたとのこと。排除したところ劇的に症状が改善した!と。

このRed 40、Yellow5、こちらでメジャーなお菓子の「材料ingredient」のところをみると入っていないものを見つけるのが難しいほど。お菓子だけでなく、ポテト製品肉製品やピクルスやあの「タイラノール」(こちらでは風邪や痛みとくるとまずはこの薬。フレイバーによっては入ってないものも)なんかにも入っていたり。

ヨーロッパのいくつかの国ではここ何年かの間に禁止され始めている。英国と米国で売られている同じお菓子でも(SkittlesやM&M や他にも多く)、英国では自然の着色料が使われているのに対して、こちらではRed 40、Yellow5が使われ続けているらしい。マクドナルドのストロベリーサンディーも英国では本当のストロベリーからの着色、こちらではRed 40。

これほど周りに溢れている人工着色料食品、こちらでのアクションを見守りつつ、神経質にはならずともなるべく生活から排除していけたらと思っている。

参照:Food Color (Wikipedia)
   CSPI Urges FDA to Ban Artificial Food Dyes Linked to Behavior Problems(Center for science in Public Interest)   
  Food Dye and ADHD (Web MD)

ざくろ

2011-11-17 01:38:25 | 出来事や雑感や (その他)
子ども達、ざくろが好きで。多分「どのフルーツが好き?」と聞くと皆うっとりとした顔をして「ざくろ!」と答えるのだと思う。

最近ざくろがあちらこちらの店でみられるように。ざくろシーズン到来。買って家に持ち帰ったときのテンションのあがり方、すごいです。

真っ赤な汁がじゅるっと、


手も口の周りも真っ赤にして、


ほぐしてカップに入れてから一気に食べたり。


ああ、家にざくろならないかなあ、種を湿ったコットンで発芽させようと試みる。(笑)


子供時代近所にざくろといちじくがなっていたなあ。。毎年とって食べた日々を懐かしく思い出しつつ。

矛盾のダイナミズムに

2011-11-15 02:29:17 | 今週の整理
.努力し磨き続け変え続けていく ものと

.何の努力も必要でなく磨いたり変えたりしなくとも もう既に完璧なものと

この互いに矛盾する2つのダイナミズムに呼吸する


2は、「内の無限」、「内の温もり」、「あちら側」、「真我」、「神性(divinity)」、「神」、「魂」、「それ」、「グランド・デザイン」、「エネルギー」、「ろろんぱ」、「クッチキ」、「かざんす」、「そんなものはない」・・・、なんと呼ぼうが、それらの「名前」を超えて内の中心に。

1の究極の目的は、2に少しでも近づくこと、2を少しでも体現していくこと。

1に属するものを2としたり、1の流れに2を忘れてしまったり、2を他者と共有することにより外に「2とは似て非なるもの」を作り出してしまったり、その外に作り出してしまった「2とは似て非なる偶像」が正しいか間違っているかを証明するのに忙しかったり。


形になったものは1に属する。

そしてどんな形あるものにも2の萌芽が。


2にありつつ、1に励む。

世界観宇宙観整理。

コーチの言葉

2011-11-15 02:28:41 | レゴリーグ
レゴリーグのコーチ、何度か州大会で優勝したチームに属していた現在高校生なのだけれど、こんなことを言っていた。

「チームの中には必ずずっと真剣に取り組み続けている子と、周りでフラフラと遊びまわってる子がいる。でもこういう遊びまわってる子がそれまで皆が全く気がつかなかった点を指摘したり、ものすごく面白いアイデアを出したりするんだよね。」

チームワークの難しさも感じたりする今日この頃、何だか少し力が抜けた。