上3人の算数の学び方を見ていると私が子ども時代に日本で学んだやり方と随分違うと感じる。一つの項目についての説明の後計算ドリルなどの練習問題の繰り返しを通しその項目をしっかりマスターしてから次の項目へ、と私が慣れ親しんだやり方でなく、あれこれの項目を少しずつかじっては計算ドリルなどの練習問題もほんの少しだけで次から次へと飛ぶといった様子。
上の子達が使っている「Everyday Mathmatics」というカリキュラム、アンカレッジ・スクール・ディストリクトの多くの学校で用いられている。現在全米で3百万人以上の生徒がこの算数数学カリキュラムで学んでいるという。シカゴ大学の研究に基づき1998年に初版、2007年に第3版が出されたこの「Everyday Mathematics」、初版が出されて以来全米中で議論を呼び、カリフォルニア州やテキサス州は用いることを拒否(テキサス州は162の他のカリキュラムは承認する中この「Everyday Mathematics」だけ排除)。周りに聞いてもネットを見ても批判が目に付く。「どんな項目に取り組んでいるのか子ども自身も親も捉えにくい」「項目の完全習得(mastery)に達しない」「ドリルがないので概念が定着しない」などなど。米国の親世代が受けた「伝統的」数学カリキュラムとも随分と異なるよう。
Naional Council of Teachers of Mathematicsによると、米国の数学は「方式を丸暗記して計算をこなす」から「概念のより深い理解」を重視するようにと変わってきているらしい。「計算機やコンピューターが正確な計算をはじきだしてくれるようになった現在、学校の数学はますます時代遅れで退屈な計算に注意を払い続けるよりも、概念を理解マスターし技術をどう問題解決に用いていけるのかということを学べるよう目指していくべきだ」と。(Rote Learning, Wikipedia) 「Everyday Mathematics」カリキュラムも、この流れを表しているものだと思われる。
「Everyday Mathematics」についてはどうもカリキュラム自体に問題、というよりも「使いこなせているか」に問題があるらしいとも聞く。「計算ドリル」的な部分は、繰り返しの「ゲーム」を通して磨かれていくらしく、そのゲームが教室では省かれていたり宿題として出されても「机に向かって計算ドリル」のようには把握されにくいとか。あとらせん状に項目を少しずつかじっていくので、一回目の導入で分からなくても二回目に目にしたときに理解している場合もあり、長い目で見ないとカリキュラムの成果は捉え難い、それにも関わらず学年や先生によって年によって使ったり使わなかったりする学校もある、などなど。実際「Everyday Mathematics」の効果は全米のテスト結果などから証明されているらしく(Everyday Mathmatics, Wikipedia)、反対派も多いけれど推進派も多い。
「計算」を重視しない風潮、その上カリキュラムを「使いこなせていない」がゆえなのか、この計算ドリルの少なさ、「概念の理解」といったって実際にもたもた計算していたら次の段階の思考に移るのももたもたとなるだろうに(計算は機械にまかせられるからということなのだろうけれど)、と子ども達をみていて思ったりする。少しのドリルですぐに概念が頭に入る子もいるだろうけれど、繰り返しドリルを通して身体にしみこませていく必要のある子もいるように思う。
日本では「公文」だとか「百マス計算」だとか、まだまだ小さな頃からまずは「計算」に重きを置く傾向があるように思う。今は「公文」への批判だとかよく聞かれるし変わってきたのかもしれないけれど。実は!私自身子ども時代「公文」に通っていた。「公文」の批判には「子どもを電卓にしてしまう」などというのもあるらしいけれど、自身を振り返りとてもよく分かる。私はそれほど性能のいい電卓ではなかったけれど、(笑)「どうしてこうなるか」なんてすっ飛ばし「丸暗記」、とにかく機械的にいかに速く正確に計算できるかに集中したまさしく電卓状態だったかもしれない。 確かに計算「だけ」はどんどん先の学年のものまでこなしていたけれど、中学生くらいから大きくつまづいた。数学については単に反射のように機械的にこなすだけで、「考える」という癖がついていなかった様に思う。「公文」は「計算能力を磨く」ための一つの優れたメソッドではあるけれど、それ「だけ」では不十分なのだろう。「計算が得意」というのは「算数数学が得意」とはイコールにはならない特に高度な数学になるほど、そう痛感した。
では「計算」と「概念の深い理解」とどちらが重要なのかというと、「どちらも重要」なのだろうと思う。「より深い概念の理解」には「計算」も不可欠、それを機械だけに頼るのでなくやはり自身で解いていけるしっかりとした能力をつけておくのは、より深い概念理解へと至る力ともなるのだろう。「計算だけ」でもなく「概念の理解だけ」でもなく、両者のバランスをうまくとっていけたら。
長くなってしまうのだけれど、最近「エノピ(E.nopi)」という学習カリキュラムアンカレッジ支部のディレクターをしている女性と話す機会が何度かあった。「エノピ」は韓国の「公文」のようなもの。1976年からあり、同年代のその韓国女性も子ども時代お世話になったという。「エノピ」の数学は「公文」にはない「批判的思考(Critical Thinking)」とセットになっている。計算ドリルだけでなく「図形やパズルなどを用い数学的センスを磨いていく」という。
そのディレクターの方と「Everyday Mathematics」の話にもなる。彼女自身の子どもさんの学校でも「Everyday Mathematics」が用いられ、他にもこちらの子ども達と何人も接してきて、「こちらの子の計算能力のあまりの低さに驚く」と言っていた。「『エノピ』でなくても、何か補足的に計算土台を強くしていく必要があると思いますよ」と。計算ドリルで育ったアジアン人同士、私がこれでいいのだろうかと感じていた感覚をうまく目の前で形にしてくれたような。
それで、その場でサインして「子ども入れます!」ということにはならなかったのだけれど(笑)、家で少しずつでも計算ドリル(百マス計算)などをしつつ、長い目で見た「Everyday Mathematics」の成果も見守っていきたい。「計算」と「より深い概念の理解」、計算に至る概念を理解し、より深い概念の理解に至るために計算能力も磨き、互いに補い促進し合いながら数学のセンスを身に着けていけたら、そう思っている。
上の子達が使っている「Everyday Mathmatics」というカリキュラム、アンカレッジ・スクール・ディストリクトの多くの学校で用いられている。現在全米で3百万人以上の生徒がこの算数数学カリキュラムで学んでいるという。シカゴ大学の研究に基づき1998年に初版、2007年に第3版が出されたこの「Everyday Mathematics」、初版が出されて以来全米中で議論を呼び、カリフォルニア州やテキサス州は用いることを拒否(テキサス州は162の他のカリキュラムは承認する中この「Everyday Mathematics」だけ排除)。周りに聞いてもネットを見ても批判が目に付く。「どんな項目に取り組んでいるのか子ども自身も親も捉えにくい」「項目の完全習得(mastery)に達しない」「ドリルがないので概念が定着しない」などなど。米国の親世代が受けた「伝統的」数学カリキュラムとも随分と異なるよう。
Naional Council of Teachers of Mathematicsによると、米国の数学は「方式を丸暗記して計算をこなす」から「概念のより深い理解」を重視するようにと変わってきているらしい。「計算機やコンピューターが正確な計算をはじきだしてくれるようになった現在、学校の数学はますます時代遅れで退屈な計算に注意を払い続けるよりも、概念を理解マスターし技術をどう問題解決に用いていけるのかということを学べるよう目指していくべきだ」と。(Rote Learning, Wikipedia) 「Everyday Mathematics」カリキュラムも、この流れを表しているものだと思われる。
「Everyday Mathematics」についてはどうもカリキュラム自体に問題、というよりも「使いこなせているか」に問題があるらしいとも聞く。「計算ドリル」的な部分は、繰り返しの「ゲーム」を通して磨かれていくらしく、そのゲームが教室では省かれていたり宿題として出されても「机に向かって計算ドリル」のようには把握されにくいとか。あとらせん状に項目を少しずつかじっていくので、一回目の導入で分からなくても二回目に目にしたときに理解している場合もあり、長い目で見ないとカリキュラムの成果は捉え難い、それにも関わらず学年や先生によって年によって使ったり使わなかったりする学校もある、などなど。実際「Everyday Mathematics」の効果は全米のテスト結果などから証明されているらしく(Everyday Mathmatics, Wikipedia)、反対派も多いけれど推進派も多い。
「計算」を重視しない風潮、その上カリキュラムを「使いこなせていない」がゆえなのか、この計算ドリルの少なさ、「概念の理解」といったって実際にもたもた計算していたら次の段階の思考に移るのももたもたとなるだろうに(計算は機械にまかせられるからということなのだろうけれど)、と子ども達をみていて思ったりする。少しのドリルですぐに概念が頭に入る子もいるだろうけれど、繰り返しドリルを通して身体にしみこませていく必要のある子もいるように思う。
日本では「公文」だとか「百マス計算」だとか、まだまだ小さな頃からまずは「計算」に重きを置く傾向があるように思う。今は「公文」への批判だとかよく聞かれるし変わってきたのかもしれないけれど。実は!私自身子ども時代「公文」に通っていた。「公文」の批判には「子どもを電卓にしてしまう」などというのもあるらしいけれど、自身を振り返りとてもよく分かる。私はそれほど性能のいい電卓ではなかったけれど、(笑)「どうしてこうなるか」なんてすっ飛ばし「丸暗記」、とにかく機械的にいかに速く正確に計算できるかに集中したまさしく電卓状態だったかもしれない。 確かに計算「だけ」はどんどん先の学年のものまでこなしていたけれど、中学生くらいから大きくつまづいた。数学については単に反射のように機械的にこなすだけで、「考える」という癖がついていなかった様に思う。「公文」は「計算能力を磨く」ための一つの優れたメソッドではあるけれど、それ「だけ」では不十分なのだろう。「計算が得意」というのは「算数数学が得意」とはイコールにはならない特に高度な数学になるほど、そう痛感した。
では「計算」と「概念の深い理解」とどちらが重要なのかというと、「どちらも重要」なのだろうと思う。「より深い概念の理解」には「計算」も不可欠、それを機械だけに頼るのでなくやはり自身で解いていけるしっかりとした能力をつけておくのは、より深い概念理解へと至る力ともなるのだろう。「計算だけ」でもなく「概念の理解だけ」でもなく、両者のバランスをうまくとっていけたら。
長くなってしまうのだけれど、最近「エノピ(E.nopi)」という学習カリキュラムアンカレッジ支部のディレクターをしている女性と話す機会が何度かあった。「エノピ」は韓国の「公文」のようなもの。1976年からあり、同年代のその韓国女性も子ども時代お世話になったという。「エノピ」の数学は「公文」にはない「批判的思考(Critical Thinking)」とセットになっている。計算ドリルだけでなく「図形やパズルなどを用い数学的センスを磨いていく」という。
そのディレクターの方と「Everyday Mathematics」の話にもなる。彼女自身の子どもさんの学校でも「Everyday Mathematics」が用いられ、他にもこちらの子ども達と何人も接してきて、「こちらの子の計算能力のあまりの低さに驚く」と言っていた。「『エノピ』でなくても、何か補足的に計算土台を強くしていく必要があると思いますよ」と。計算ドリルで育ったアジアン人同士、私がこれでいいのだろうかと感じていた感覚をうまく目の前で形にしてくれたような。
それで、その場でサインして「子ども入れます!」ということにはならなかったのだけれど(笑)、家で少しずつでも計算ドリル(百マス計算)などをしつつ、長い目で見た「Everyday Mathematics」の成果も見守っていきたい。「計算」と「より深い概念の理解」、計算に至る概念を理解し、より深い概念の理解に至るために計算能力も磨き、互いに補い促進し合いながら数学のセンスを身に着けていけたら、そう思っている。