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靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

あの心理博士の言葉、ゆっくりね

2013-11-17 08:07:00 | 子育てノート
長女が五歳の時IQテストを受けた心理学博士は、リタイヤ間近の男性だった。

テストの結果を聞き終え、帰り際、息子さん夫婦とお孫さん達の写真を見せてくれた。息子さんの奥さんは日本人なのだと嬉しそうに。

息子さんは、高校を出たものの、これといって何をしたいのか分からず、しばらく働きながら旅を続け、パートタイムの仕事を続けながらコミュニティーカレッジ(誰でもすぐに入れる大学)に何年も席を置き(その時学生結婚)、二十代も終わり頃、マイノリティーの言語に興味を持ち、それから猛勉強を始めたという。そして学部大学院と進み、もうすぐ博士号を修得するのだと。暖かい家族に囲まれ、ネイティブ・アメリカン居住区でのフィールドワークに大学講師にと、毎日生き生きしていると。

「急いで焦って、芽を潰しちゃいけない。ゆっくりとね、いくんですよ。」

最後に握手すると、私の目を見つめ、そうおっしゃった。



こんなことをしていては間に合わないんじゃないか、子ども達を前にそう思う度、この心理学者の言葉を思い出す。そして思う。

一体、何に間に合わないのだろう?

でもでも現実的には・・・、そんな自身の内の声も、年とともに、大声からささやき声へ。

いつか蚊の鳴くような声になって、消えるかな。(笑)



その時その時の精一杯で進んでいこうね

その小さな積み重ね一つ一つの全てが

今はまだはっきりとは見えないかもしれないけれど

いつかは必ずたどり着く地点へと 繋がっている


そう子ども達に声をかけつつ。

「怒る子」な朝2、外と内とのバランス

2013-11-17 08:05:04 | 子育てノート
1はこちら

フィールドトリップの許可証が見つからない! フォルダーに入れておいた算数のテンプレートがない! 取り乱した様子で、部屋中探し回る娘。登校まであまり時間もない。

昨夜はばたばたと用事が立て込んで、次の日の準備確認忘れてたね、そう言いながら手伝ってやり、許可証は見つかったものの、テンプレートはどこにもない。昨日全員でピアノに出かけたし、待ち時間に置き忘れてきたのかもねと言うも、ヒステリックに叫び、今日は最悪の日と呪い、学校に行けないと金切り声で当り散らす。

テンプレート一つでここまで・・・。夫と顔を見合わせ、先生にメールを送ってあげるから落ち着きなさいと声をかけ、すぐに「探し中で今日は時間切れです。お願いします。」とメール送信。
少し落ち着くも、ぶすっとした顔をしたまま。手伝ってもらってパパにお礼言いなさいというと、「ありがと」とぞんざいに。
 
甘やかしてはだめだと、こちらも怒鳴る、よけい泣く、また怒鳴る、おびえて黙り、涙を流しながら無理やり機嫌の悪くない表情を作る。そんなパターンも何回か通ったけれど、良い方法とも思えず。こちらが取り乱さず、できる限りの手伝いをしてやる、それが一番よさそうです。



家の中で、こういった出来事に、これほどの反応をするのはいつもこの子だけ。派手に悲しみ怒り取り乱す様子に、周りの兄弟姉妹も少し異質な者を見る目で見ていることがある。

ああ、なんでこの子はこうなってしまうのだろう。どうして見えないのだろう。

もう少し周りを見なさい、どれほど皆が助けようとしているか、そう声をかけようとして、はっとしたことがある。

外では見えている、というより他の誰よりも気を遣い過ぎるほど見えている。この子が、外で取り乱しことは今まで一度もないと言っていいほど。いつもにこにこ元気でしっかりもののAちゃんで通っていて。きっとお友達や先生が家での彼女の取り乱しぶりを見たら、別人に思うことでしょう。

外で周りにフォーカスし過ぎる故に、家の中でこうなってしまうのだろう。外でもう少しリラックスしてちょこちょこボロ出せばいいのに、何度そう思ったことか。


家でゆったりできる環境を整えつつ、周りにどう思われるかといった外から内へ向かう視点を、内から外へと向かう視点へシフトできるようサポートしていこう。そう夫と模索中です。内にどっしりとした安心感を養うこと、それがまずは要なのでしょう。取り組みを通しての気づきなど、またまとめていきたいです。

小鳥を叩く

2013-11-10 12:11:38 | 子育てノート
一昨日、次男が鳥かごをゆらし「叩いてやる!」と叫びました。少し離れ鳥かごの見えないところにいた私、驚いて咄嗟に「小さな鳥にそんな乱暴なこと言って!」と近寄ると、一羽がもう一羽を突いている様子が目に入ります。「止めさせたいの」と次男。

はっとしました。次男の意図は、もう一匹を助けてあげることにあったのです。

そこで、「ありがとう助けてくれたんだね、優しいね」と次男の意図の「良き部分」にフォーカスし、それから「こんこんと鳥かご叩くくらいでいいのよ、鳥にとってあなたは大巨人なのだから、大声あげたらびっくりしちゃうからね」と声をかけました。

嬉しそうに頷く次男。


小鳥を叩こうとする、そんなとんでもなく見える行為も、そんな「意図」を基にしている場合があります。

言葉行為の解釈、それは時にグレーで見えにくいもの。

それでも子供というのは、意図のネガティブな面(小さな鳥を傷つけようとする)に重きをおくより、意図のよき部分を励ますよう接する内に、本当に「良くなっていく」という面があるように思います。

そして周りの大人は、子供達の言動に「白い部分」を見出し、示し続けてやる。そんな役割を担っているように思うのです。



 これは大人同士の関係にもある程度当てはめることができるのかもしれません。成長過程にある子供に比べ、成熟した大人同士というのは、確かに難しい場面が多々あります。それでも関係というのは流動的なもの。こちらが相手のどの部分にフォーカスするかで、変化していくこともあります。

 ひょっとしてその人の90パーセントは、ネガティブなことを言いたいという気持ちにあるのかもしれない。それでも、人の意識というのは複雑なもの、その奥には必ずポジティブな面があるはず、それは、例え口にする本人が意識していないとしても。

 言うは易しで、実際私自身争いの渦中には、あれよあれよという間に渦の中に溺れてしまいますが、だからこそ、普段から心がけ鍛えていきたい、そう思っています。ポジティブな解釈にフォーカス、日々の子育て、そして人付き合いの中で。

サポートし続けるということ

2013-11-09 11:38:03 | 子育てノート
九月の初めに、小学四年生次女の学習状況についてのミーティングがあった。二人の先生方と、小学校と学区全体のギフテッドプログラムコーディネーターのお二人と、夫と私。先生のお一人は二年間担任をしてくださった方、もう一人は今年赴任された方。

夏休み明けのテストの結果を見ると、できているはずの問題に穴がぽつぽつあいている。以前記事に書いたのですが(「ディスレクシアの克服について」「毎晩ドアを閉め、次女と二人の時間」「ディスレクシア、弱点の認識と人並み以上の努力と」)、何が原因か、次女に最適な学習環境とは、といった内容が話し合われた。

算数については、今のレベル(飛び級)から、学年どおりのレベルに移してみたらどうだろう(この学年のプログラムでは飛び級と学年どおりが半々ほど。学年が上になるにつれ飛び級の
割合が増える)という提案もミーティングの前にあり、試しに一週間程、学年どおりのクラスで体験学習してみるという試みもされていた。

問題は「言語面」と特定できるというのが、皆の一致した意見。

他言語を聞く環境にいる子は、高学年になるにつれ追いついてくるし、もし家庭で弱い面のサポートができるというのなら、現状レベルで様子をみてもいいのではないか。もし問題が続いたりひどくなるようならば、学年どおりのレベルに移し、ディスレクシアのスクリーニングなどもしてみよう、そう話がまとまりつつあった。

一週間体験学習した次女の様子から、去年したことをまた一年繰り返すということにかなりのフラストレーションを感じているようで、大好きな算数への意欲が削がれるのではと危惧していた夫と私も、それがベストに思うと伝え。

そこへ、今年赴任された先生(PhDを持たれ、子供達やスタッフも「先生」ではなく「ドクター(博士)」と呼ぶ)が、一週間次女のクラスでの様子を見たところ、と話される。授業中話を聞かず絵を描いていたりと気になる様子も見られるが(次女は「外では」かなり真面目タイプで先生の話を聞かないということは普段ない)、当てたら確かに答えるものの、言い回しを変えたり、より複雑な言葉で表すと、すぐに答えられないことがある。学年どおりの子に混ざっても、一番というわけでなく三番くらいだろう。テストの結果を見ると、このまま飛び級のクラスを続けるなら、○パーセントの確率で失敗しますよ。

「それはうまくいく確率も○パーセントあるということですね」と夫。

「まあそうですね」と先生。

それだけ言うと「行かなければならないので」とその先生は席を立ち、部屋を後に。

結局、話し合いは、苦手部分の家庭でのサポート、ひとまず現状のままで様子見ということになった。



それから、夜最低三十分は次女と二人でじっくりと苦手部分に向き合うということを一ヶ月程続け。

ミーティングから二ヶ月近くたっての今週水曜日、何度かのテスト、授業の様子から、「穴」がなくなり伸びている、算数の先生からも、今のレベルか次女にとって最適だと確信していますと知らせを受け取った。そして何よりも、以前より自信に溢れた次女の笑顔。

その通知を片手に帰宅した夫と、これで安心というわけはなく、これから勉強はますます複雑になるだろうし、様子を見守っていこうと話し合い。そして「失敗する確率」を示し、席を立った先生について、「それにしても、私もあなた方と同じ人数の子供がいます、とおっしゃっていたけれど、ああいった態度で母親に向かわれる子供達を、気の毒に思う」とコメントする私。



そう話したすぐ後、市内の東地区の小中高を合わせたコーラスの発表会があり、次女も参加するということで出かけた。

高校の講堂にぎっしりの人。座席が足りず、折りたたみ椅子を次から次へと運び入れるスタッフの方々。「観客が多いので、参加中学生が座っていた座席を空けます」という放送に、前の席へかけつける。開始時間ぎりぎり到着だったけれど、こんな前に座れてラッキー! と子供達と言い合いながら席に着き、ふと横を見、目を疑う。家を出る前に話していた、「あの先生」が座っている。この広く満員の会場に、隣同士。小さな子や大きな子に囲まれ、何だか私と全く同じ状況で。(笑)

コーラスは予想していた以上に楽しめるもので、子供達の声に癒され元気をもらい。

一時間ほどしてショーが終わり、子供達を迎えにステージ近くへ向かう親でごったがえす。先生の子供さん達が嬉しそうに駆け寄る。皆生き生きと飛びっきりの笑顔。先生の顔にも、柔らかな笑顔。

はっとする。私は一体、この方の何を知っていたというのか? 心の中で、頭を垂れ謝った。



プロフェッショナルとして、その経験と知識に基づき、最善を尽くされようとしただけのこと。

物事を決める際は、リスクも含めプロとコンを並べることで、より確かな道を選べる。

先生としての立場、親としての立場、それぞれが力を合わせ、子供の未来を思い。



では「親の立場」とは? 今回の出来事を通し、改めて確信したこと:

その子の可能性を信じ サポートし続ける

例え目の前に並べられたデータに 「無理」と明らかであったとしても

例えどんな「プロフェッショナル」とされる方が 「不可能」と示したとしても

例え望むような「結果」に 出会うことがないとしても 

そしてそれが 最後の最後まで続くとしても

可能性を信じ サポートし続けること



心に刻んでおきます。


東地区の小中高10校近く集まって。父兄でぎっしりの講堂。


最後は皆で「アフリカの民謡」を合唱。素敵でした。

本当に大切なものをシンプルに見つめて

2013-11-03 05:00:24 | 子育てノート
毎週のように会う三人小さな子がいる友人、毎日それは大変そう。私も上三人が四歳、二歳、零歳の時ってしゃれにならないくらいきつかったのを覚えている。赤ちゃんの世話だけでも目が回るのに、反抗期の二才児に、まだまだ自分でできないことだらけの四歳児。本を読んだり書いたりする時間どころか、食べる寝るといった生きるための最低限を搾り出すのがやっと。

昨日ジムで子供達を追いかけながら話していると、その友人が言った。「三人目のママと四人目のママを調べると、断然四人目のママの方が余裕があるらしくて。どうしてかというと、四人目になると確かに『慣れる』ということもあるのだけれど、色々なことを『諦めるようになる』のが大きいんだって。そういうことってある?」と。

ああ、確かにそうかもしれないなあ、と思った。

四人目になると三人目まで何とかぎりぎりのところで頑張っていたことも、諦めざる得なくなる。ひょっとしたらできるかも、そう「できる・できない」の境界で必死に頑張りへとへとの三人目、そんなわずかな期待さえ完全に閉ざされ、一気に振り切れ「無理」とあっけらかんな四人目。(笑)

それは部屋の片づけから、手の込んだ食事、整った花壇、家族が起きている時間に自分の時間を持つこと、そして私にとっては、こうしてやろうこうあるべき、そんな自分が作り上げていた子育ての理想を手放すことでもあった。そうして三人目の妊娠からしばらく壊していた身体と精神も、四人目にはすっきりとし。


一旦がらがらと崩れ落ちた理想。四人目五人目は孫を見ているような気持ちと聞いたことがあったけれど、こういうことかなと感じた。もうただただ可愛い。(笑)

それでも祖父祖母の存在は父母とセットだからこそいいのであって、「おばあちゃん」だけだとどうしても甘やかしすぎてしまう、そう緩んだねじを締め、子供達に向き合う。


今度は、本当に必要なものだけで自分なりの子育てを作り上げていきたい、そう思っている。余分なものは削ぎ落とし、どんな枠組みであっても、生き残ることのできる、シンプルに大切なものによって。

成績重視という傾向、コンスタントなハイクオリティーさ

2013-11-03 04:59:25 | 子育てノート
来年から、高校のHGプログラムの審査が「成績重視」に変わる。これまで成績とIQテストと全国テストのスコアをクリアする必要があったのが、成績の基準が上げられ、もっぱら成績のみを見るようになると。

テストのスコアが良くても、授業についていけない子があまりにも多かったためらしい。

プログラムでは、かなりの量の課題を、コンスタントに効率的ハイクオリティーに仕上げ続ける力が求められる。そして、それは確かに年に一度のテストのスコアよりも、ABCなどの成績に表れるだろう。

普段だらだらしているように見えても、テストになると強い、そういったタイプにはきつい環境といえる。

プログラムに限らず、高校生の親御さんを持つ日本の方と話していると、「こちらは日本で言うと本当に『内申書重視』よね、だからある意味こつこつできるのなら安心」といったことをよく聞く。そういった全体的な傾向、学年が上がるにつれ実感してます。

「コンスタントにハイクオリティー」が苦手というの、私自身も学生時代まさしくそう。中高とテストも気分によって凸凹、高校時代は欠席も多かったし(家で映画見てた)、大学では代返の常連、テスト前に周りからノートを借り何とかパス。大学院に入ってから、時々現れるハイクオリティーをいかに満遍なく日常に下ろしてこられるかといったことをようやく考えられるようになった、それは好きな課題にだけ向かえばよくなったためといえるでしょうが、そうしてこつこつ歩く楽しさを学んだ。

こちらの学校の様子を見ていると、私のようなタイプなどいっぺんにアウトだっただろうとつくづく思う。そして私自身、もう少し早く努力していたら、また違った人生になっていたかなという思いも。

我が家の子供達をみていても、「コンスタントにハイクオリティー」が苦手タイプがいる。そこで、どうしたらアップビートに最大限の力を出し続けられるか、最近よく話し合っている。

・まずは何といってもモーティベーション、「夢」を掲げ続けること。好きなことにはものすごい勢いで向かい続けられるもの。一見興味ないと思えることでも、いずれ好きなことのできる環境にたどりつくためのステップなのだと、日々思い出し続けること。

色々と調べ中試し中ですが、その中で面白いと思ったものに、「自分を導く質問を意識する」というのがある。

以下“Study Smarter, Not Harder” by everyday Genius Instituteより引用:


助けにならない質問例

・どうしたらこれをやり過ごせるか?

・どうしたら先生に当てられるのを避けられるか?

・どうしたら周りをあっと言わせられるか?

・ここにあとどれだけ座っていなくてはならないか?

・どうしたら先生にワークが終わったと思わせられるだろう?

・いつフェースブック(や電話)をチェックできるか?



強力な助けとなる質問例

教室にて

・ここで時間を費やすべき重要なこととは何か?

・これは将来どのように自分の役に立つだろう?

・これはどのように現実世界に関係づけられるか?

・どうしたらこの授業から最大限学ぶことができるだろう?

・どうしたらこれを楽しく興味深くできるだろう?


宿題をしながら

・どうしたらこの知識を維持し易いだろう?

・どうしたら早くハイレベルに終えられるだろう?


放課中

・どうしたら今この時間を最大限生かせるだろう?

・どの課題をこの時間に終えられるだろう?



自身に投げかける質問を意識するというの、子供達のインスピレーションになったようです。

夫も次のステップに向け勉強中、私も何とか限られた時間の中で目指していきたいことがあり、親子で学んでいきます! 

スズキ式ピアノ、母語のような音楽

2013-11-03 04:57:07 | 子育てノート
週末、友人息子君9歳のピアノリサイタルへ。自宅にお友達を招き、バッハ、ベートーベン、モーツァルト、シューマンなど8人の音楽家の14曲。合間にそれぞれの音楽家についての生涯などの説明も本人から。9歳にしてよくこれだけ全て暗記し弾ききったなあと感心。

4歳から習っていたピアノ、3年前に「スズキ式」に変え、ぐんと伸びていったと友人。

スズキ式の大きな特徴は、「音から学ぶ」というものだけれど、確かに、楽譜をなぞった音でなく、身体に染み込んだ音。「楽譜」を覚えるというより、身体の中に入った「音」を覚えているといった様子。

もう一つのスズキ式の特徴は、「競争」を排した環境のなかで音楽性を育むというもの。息子君のリサイタルも他と比べられることのない自宅で一人という環境。


今我が家の子供達が習っているのは、全く反対のメソッド。初めからセオリーもしっかり習い、楽譜をきちんと読めるよう教える。音だけを頼りに弾こうとすると、楽譜から目を離さないよう注意される。他の先生に習ったこともあったけれど、この先生に行き着いたのは、ひとえにこれほど技術面を細かく丁寧に見てくださる方はいないと思ったため。拍子強弱姿勢全てにおいて完璧でなければ、次の曲にはいけない。そしてピアノ・コンピティションも、この先生の生徒が上位をずらりと占める。徹底的に「勝てる」弾き方の教授。

上の四人が習ってきて二人止めたのだけれど、今更ながら、ああ、あの子達には、スズキ式の方が合っていたかなと思う。もっとその子自身の音の探索を楽しませてやればよかったと。長女も一旦止めたところ今年から戻り、それでも過密スケジュールに以前のようなペースでは練習もできず、ゆったりと楽しむためのみにしているのだから、ここまで完璧を求める必要もないなと思ったり。

どちらにしても毎日の練習の積み重ねというのは、必須。それでも楽譜をしっかりなぞることに力を入れるのと、とにかく聞いて音を身体に入れるのと、練習の仕方も随分と違ってくるでしょう。


昔の職場の上司が、スズキ式開発者鈴木鎮一氏(1898–1998) 直々にバイオリンを習った方だった。鈴木氏はいつも言っていたという「お豆腐屋さんの子でもね、素晴らしい音楽を奏でられるようになるんだよ」

楽譜を読めずとも、セオリーなど知らなくても、心に響く音を奏でられるようになると。

母語は読み書きやグラマーによって身につくわけではない、小さな頃からの環境によって話せるようになるもの、そう幼児の母語習得からヒントを得たとされる鈴木氏。いい音に囲まれることで、母語のように、音楽がその子の内に自然に息づき始めると。


止めた子も、ピアノを触りながら、「もう一度したいなあ」と言うことがあるのですが、他にやりたいこととのスケジュール&経済的な面とで、なかなか難しく。五人目、もし「ピアノしたい!」と言うならば、今度はスズキ式でいってみようかな、そう思っています。


友人息子君リサイタル。


その後のスナックタイム!

「怒る子供」な朝

2013-10-26 23:59:10 | 子育てノート
夢を見て怒って叫び、先に起きた下の子の声に「○○に起こされた!」と怒り、眠いまだ寝たい、靴下が片方ない、このシリアルじゃないのがいい、いつもミルクをこぼしてしまう、ハムサンドイッチは嫌だ、学校に渡す教材費がぴったり用意できず向こう側がおつりを用意しないといけない、車の中が寒い。

立て続けに怒り続ける朝。

この子のいいところは、引きずらないところ。どっか~んと怒り、しばらくしたらニコニコしている。ただ、周りに余裕がないと一緒に怒りのスパイラルに落ち込んでしまう。

学校に送り出した後、新学期に学校からもらってきた様々な用紙の中に、こんなプリントがあったのを思い出した。

“怒る子供(Angry Kids)” by Love and Logic Institute. Inc。以下、意訳部分は斜体。


子供は、怒りを通して他の感情を表現しているのかもしれない。人生はこうあるべきではないのだと、世界に知らしめているのかもしれない。

確かに。忙しすぎたり、思うようにいかないのに誰も手を貸してくれない状態が重なると、こんな「怒りの朝」を迎えることがある。ペースを少しゆったりさせ、一緒に過ごす時間をとろう、そう生活を見直すサイン。



その場の解決としては:

どうして怒るべきではないか、どうしたらよくなるかなど、子供の怒りに、論理的な説明(reason)で対処しない。「○○がうまくできなくて怒っているのね」、そうまずはその子の気持ちを理解していると示すこと。

確かに、気持ちを理解していると示してやると、おさまっていく場合が多い。論理的な導きは、落ち着いてから。


怒鳴り返すというのは、最もよくない。子供もフラストレーションには怒鳴るという対応をするべきなのだと学び、悪循環に。

まさしくなのだけれど、子供によっては、時にどかんと目を覚まさせることも必要かなとも。ショック療法。はっと目が覚めたら、あとは穏やかに温もりをもって接し続ける。



怒り、火照った表情から、「これでも私のこと愛してくれる?」 そんな声が聞こえることもある。時にこちらも取り乱し、き~となり、それでも、変わらぬ温もりで接し続けてみる。そんな温もりを確認すると、怒りは長引くことなく静まっていく。

時間的エネルギー的余裕がない時はやはりかなりチャレンジングですが、こうして取っ組み合いながらも、共に成長していきたいです!

テレビとの付き合い方

2013-10-24 00:00:37 | 子育てノート
「昨日プレーデートした家ね、六歳の子なんだけれど、今まで一度もテレビを見たことないっていうの。その子ね、もう違う世界の住人というか、ピュアで全く摺れていないというか」

驚いた顔をして言う友人。私自身テレビのない家というのを何件か知っている。子供達は確かにそれと分かる雰囲気を持っている。


先週訪ねた小児科医の壁には、「テレビの見過ぎは学習障害に繋がります」という記事が貼ってあった。子供によって、影響を受けやすい子と受けにくい子というのがいるのだろう。毎日テレビつけっぱなし、小さな頃からスクリーンのキャラクターを操るゲームに浸っている子供でも、学習成績優秀という子を何人か知っている。



テレビの見過ぎが子供達に影響を与えるのは、学習成績といったことよりも、物事に対する「繊細さ」のように感じる。相手の気持ちや、周りに対する丁寧さ繊細さ。切り取られのっぺりとした架空の世界が当たり前となり、五感で触れる現実の微妙な変化や色彩に疎くなる。



アメリカの子供達がテレビを見る平均時間は、1日5時間だそうだ。1年に4万のコマーシャル、18歳までに20万の暴力的映像を見ているそう(by the National Institute on Media and the Family)

これはいくら何でも多過ぎるのじゃないかと思うけれど、こういった現実の中で、あまりにも「繊細」であっても、生きにくいだけかもしれないな、そう感じることがある。守り続けてあげられるのならばいいが、家は経済的にも時間的にも、そんな環境を作り出す(冒頭のお子さんのように私立やホームスクールや)ことは難しい。ある程度の「荒さ雑さ鈍さ」は、この世を渡っていくために必要なのかもしれない、特にこのタフなアメリカ社会、そう思う。

全く見ない子や見過ぎの子よりも、適度に見る子の方が、学習面では優れた結果を出すという統計もあるらしい。適度に見ることが脳への刺激にもなると。



我が家では、ケーブルをひいておらず、テレビをつけるという習慣がないのだけれど、DVDはちょこちょこ見ている。外へ行けば、コマーシャルが珍しいようで子供達は釘付けになる。

大切なのは、どれくらいの長さ、そして何をどう見るかだろう。素晴らしい内容の番組やDVDもたくさんある。一緒に見て、一緒に笑い転げ、内容について話し合ったりするのもいいだろう。

うまく活用していきたい。



参考:
"Pros and Cons of Watching Television" By Jimmy Hermann
"The pros and cons of television viewing for children" by University of Missouri Extention

ティーンネイジャーとの向き合い方

2013-10-20 06:41:05 | 子育てノート
昨日は年に一度の小児科検診。朝長男14歳長女12歳、昼から三女6歳次男4歳。最大一家族から一日四人までといことで(キャンセルになった場合の穴の大きさのため)、先月風邪をひいて診察してもらったばかりの次女はまた次の機会に。

14歳ともなると、小児科医も大人として扱う。診察はプライバシーとして親も妹弟も部屋の外へ。12歳の長女には、自ら選択させる。「皆一緒がいい? 一人がいい?」、長女即答「一人」。下三人連れてぞろぞろ何度も移動。(笑)

診察が終わると、親を交えての話。プリティーンの長女に、「今こうして身体が変化しているけれど、こうした変化を起こすホルモンというのは、脳にも心にも影響を与えるもの。不安定に感じたり、泣きたくなったりすることもあるかもしれないけれど、何もおかしなことじゃないからね」と女医さん。

ああ、私も中学生のとき授業中突然泣きたくなって、気持ち悪いと先生に告げ教室を出、下駄箱の並ぶ玄関の隅でおいおいと泣き続けていたことがあったなあ、と思い出す。様子を見に来た若い男の先生がおろおろして「何かあったのか?」と聞き続けるも、自分でも何で泣いてるのか分からなかった。世界中の悲しみが押し寄せて、もうどうしよもないというような感覚。押し寄せるホルモン体験。


「青年期(adolescents)の反抗とどう付き合っていくか」(“Instruction for Pediatric Patients”by WB Saunders Company 1999)と書かれた紙も渡して下さった。以下意訳(斜め文字)&長男長女に接しつつ思うことなど:

大人として親と新しい関係を築く前に、青年期のティーンは、まずそれまでの親との接し方から距離を持つ必要がある


1.大人の友人のようにティーンネイジャーを扱う
12歳になるまでに、彼/ 彼女が大人になった時、どういった関係を築いていたいかを念頭に、関係作りをしておくこと。互いをリスペクトしサポートしながら、共に楽しめる関係を目指して。自分にこう接して欲しいという態度で、ティーンを扱う。心を開かせるために、なるべくジャッジメンタルなコメントは避ける。

これぐらいになると、会話をしていてもなかなか楽しく、子供というより、友人のように感じることも多いです。子供扱いせず、大人としてリスペクトを示すこと、何気ない雑談、一緒に出かけたりアクティビティーして楽しむ時間を持つこと、大きいですね、心がけていきたいです。



2.非難を避ける
 青年期の親子関係がうまくいかない多くの原因は、親が青年期の子を非難しすぎることにある。ムードや、言葉遣い、仕草や、服装や、嗜好や、小さな反抗は許す。小さなことを非難し続けていると、反抗はより長引くもの。ネガティブで怠惰な態度は、非難ではなく、「いい例」と「褒める」ことによってのみ変えられる。


確かに、と思います。カチンと来る仕草や言葉遣いやムードはしょっちゅうですが、細かいことは無視し、相手のムードに振り回されず、「いい例」を示し続けるなら、落ち着いていく。同じ土俵に乗らず、ゆったり構えて。



3.社会のルールや結果から、家の外での責任というものを学ぶようにさせる
 ティーンは自らのミステイクから学ぶたくさんの機会が必要。いずれ家を出、何のサポートも無いシステムの中で自ら問題を解決していかなければならないのだから。


いちいちはらはらしていたら、もう私の心も持ちやしないと学んでます。失敗も、将来への学びの機会として、家を離れたくさんの体験をさせていきたいですね。




4.家庭のルールと結果を明確にしておく
家庭のルールをしっかり「書いておく」と誤解も避けられる。


 帰宅時間、出かける場所、メディアを用いる長さ、電話をしていい時間など、周りがどうであろうと、家ではだめなものはだめとしっかり境界をひいておく。子供も、こちらが一貫し無理過ぎる条件(例えば皆は10時までなのに、私だけ6時に帰宅など)でないならば、「家はだめなんだな」と聞くもの。また年齢によってアップデイトする必要がある場合もあるということも覚えておきたいです。頑なに「だめ!」でなく、14歳なら友達と映画を見に行くのもありかな、など。



5.家族会議で家庭のルールを交渉する
一週間に一度ディナーの後になど。民主的に物事が決められていくと、家族としてよりうまくまとまっていく。

家庭のルールで変えたいとティーンが思っていること、うまく機能してないと感じるルールなど、出し合って話しあう。ルールを作る段階から関わらせると、ティーンもより責任を感じて守るもの。


6.ティーンが機嫌が悪いときは、たっぷりとしたスペースとプライバシーを与える
こんなとき話してもどこへもたどり着かない。


確かにこういう時は、こちらからあれやこれやと突っ込まず、まずは離れるのが一番。何か助けが必要ならここにいるからねと感じさせつつ、ほかっておくと、しばらくしてご機嫌な様子で寄ってきたり。とにかく振り回されないこと。



7.無礼な態度には、“I”メッセージを用いる
小さな「無礼な態度」は無視するのが一番ですが、見過ごしてはいけない言葉や態度もあるもの。そういった時は、「何て態度なの!」「そういうことは良くないことよ!」 よりも、「そういう態度をとられるとママ(I)の気持ちが傷つくのよ。」と伝える。また取り乱して怒鳴ったり、ヒステリックに当り散らしたりを避け、自ら「いい例」を示すことは、子供の無礼な態度を防げることにもなると覚えておく。


確かに、「いい/ 悪い」と一般化するよりも、「今ここでの私とあなたの問題」とした方が、伝わりますね。




その他、私自身ティーンとの関係作りに役立っていると感じること:

・話し出す前に一呼吸おき自分のトーンを整えるようにする。動揺、怒りは落ち着かせ。自分のトーンを整え、相手もクランキーでないときに話す。

・興味を持ちそうなトピックに目を通しておく。家では科学系記事、時事への食いつきがいいです。

・小さな心配りを日常生活に散りばめる。好物のフルーツなどを部屋に差し入れたり、プロジェクトや宿題に埋もれているときに少し部屋を整えてやったり、出かけるとき眠る前には必ずどんなにバタバタしていても声をかけハグしたり。

時にこちらが怒鳴って爆発してしまっても、しばらく互いに頭を冷やし、謝る必要のある場合は謝り、また関係作りそんな出来事も、その後の対応によって、雨降って地を固める働きになるもの。

ユーモア。関係の潤滑油は、もうこれに尽きます。さりげない一言ジョークや仕草を散りばめる。ユーモアにどれほど助けられているか分かりません。


12歳長女と14歳長男、そしてその後もどんどん続くティーンネイジャー、共にアップダウンを越えながら、鍛え鍛えられ、歩いていきます!

ディスレクシアの克服について

2013-10-20 06:40:24 | 子育てノート
フェアデュウさんという方のブログに、ディスレクシアの克服について寄せさせていただいたコメントです。フェアデュウさんご自身の娘さん、ディスレクシアを克服し、今は音楽大学に進み、音楽家への道を歩んでいます。


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こういった「障害」とされるもの、その度合いにより、メンタル面や環境面を整えたりなどの働きかけで緩和していく場合と、脳の構造的な要因が大きく、より専門的な働きかけが必要になる場合があるように思います。


家の場合は、夫も子供たちも、元々「障害」体質は持っているけれど、メンタル面の働きかけなどにより何とかなるタイプだと感じてます。そういったグレーゾーン・タイプにとって、どういうことが役に立ったか、書いてみますね。


夫は小学低学年で診断を受け、中学に入ってから初めて文章を読むようになり、症状だけをみると「重度」なのですが、育った環境の悪さも「重度」(物心ついてから母親が去り&極貧)だったというのが大きいように思います。二十代半ばから克服に向け自身で取り組み始め、その後様々な資格を取得し、商業パイロットを経、今は航空法に関する書類に囲まれ全米でも50人に満たないとされる職についています(職種を具体的に書いたのは、例えディスレクシアと診断され、何度も落第しそうになり高学歴のない「落ちこぼれ」でも、こういったことが可能だという例を提示するためです)。そして現在も、新たな資格取得に向け、勉強中です。


夫曰く、人の倍以上の努力、その努力を努力と感じないパッションを持つことが鍵と。


この努力とは、普通は生まれつきあるはずなのに、なぜか自分には組み込まれていない回路を、何度も繰り返すことで脳に刻んでいくイメージだそうです。


具体的に何をしたかというと、ビジョントレーニングなども試みたようですが、結局は彼の場合は、人が一回でできてしまうことでも何回も何回も繰り返す、これに尽きるようです。初めはそれこそ一行に十分二十分費やす、分かるまで何度も何度も人の何倍もの時間とエネルギーを費やす。そうして繰り返す内に、徐々に少しずつできるようになっていった。そして周りと同じ地点にたどり着くわけですが、そこからももう人より何倍もの努力をすることが身についているので、自然と突き出ていくと。


こうした継続した努力を可能にするのややはりパッションだと。「天才は超人的な努力のできる人」という言葉がありますが、ディスレクシアと診断されたという学校制度では落ちこぼれだったアインシュタインも「99パーセントの努力と1パーセントの才能」「私が賢いというわけでなく、ただ問題に長く取り組んでいるだけなんですよ」と言いますね。天才と言われる人は、寝ても覚めてもしてしまうパッション、努力を努力とも感じないパッションを持っているのでしょうね。アインシュタインは宇宙の謎を探るというパッションに突き動かされ、夫は天才ではないですが、「家族を養わないと」がパッションに(五人ですからねえ、笑)。


「努力」というと、フェアデュウさんのおっしゃる「反復より方法を変えることで一瞬で頭に入る」などと相対するものですが、親御さんがサポートしての克服と、様々な回路ができあがった大人になってから自らが克服という場合では、また違ってくるのかもしれませんね。



子供達についてですが、長男は読解面は強いのですが、スペリングが苦手ですね。テストになると注意するので何とかなるのですが、普段何気なく書いた文章など、もう簡単な文字からピリオドからミス多発状態になってしまいます。先生にも「家系的なものですね」と言われ。(笑) 計算などのケアレスミスも多いです。今中二ですが、それでも年とともに身体が発達するにつれ、ミスも少なくなってきているようです。より満遍なく気を使えるようになってくるのですね。また自分の弱みを自覚することで、スペルは常にもう一度見直してみるなど、自分で対処することも学びますね。ディスレクシアを持つ多くの大人はこうした自分の弱みを自覚し、それなりの対処法を編み出しているのだとも聞きます。人の倍の時間をかけられるようあらかじめ時間調整する、トムクルーズが他人に台本を読んでもらい覚えるなど。


前回少しお話したのは、四年生次女なのですが、一ヶ月ほど一対一で「読み」に取り組む時を持ってみました。彼女の場合は、「分からないこと」に出会ったときの、メンタル面の「動揺」も大きかったように思います。ストレスに感じたら深呼吸をすること、すぐに分からなくてもいいのだから、落ち着いて自分のペースで何回か読んでみる。キーワードに思う単語に記しをつけたり、書き出してみたり、算数の文章題は図にしてみたり。そして私の説明も英語に絞ること、私自身彼女がいくら分からなくても忍耐強く落ち着いて付き合うこと。そんな練習を繰り返しました。一ヶ月ほどして、飛躍的に伸びたようです。今では、別人のように分厚い本に夢中です。


大学で長年日本語を教えていた方が、日本人ご夫婦でしたが、娘さんが四年生の時に家の中でも一切日本語を話すのをやめたということをおっしゃっていました。バイリンガル教育も、難しい子には難しいのだなと思います。夫もディスレクシアと診断された際、外国語の勉強は真っ先に止められたと。その娘さんかなりの学力レベルを要求されるこちらの大学に入ってから日本に留学し、今では上手に両方使いこなせてます。



様々な方法はあるものの、「傍で忍耐強く自分の能力を信じ助けてくれる人がいる」そう子供達が感じられること、それが一つの大きな鍵だと思っています。家は五人いると手も目も回らず、どうしてもほったらかしになってしまうんですね。次女は真ん中の子で、特に親の目が行き届かないところがあったなあと思います。


長くなってしまいましたが、学習障害に向き合う方々が、少しでも何らかの突破口を見つけられること、願っています。全科目何でもこいの子なんてそうはいません。また努力せずとも超人的な能力を持つ子なんて本当にそれこそ一握り。

どうしたらその子の力を伸ばしていけるのか、私自身試行錯誤しながら、こつこつと歩き続けていきたい、そう思っています。この方法がいい!というようなことがあったら、またお知らせしますね。


ディスレクシアと診断された人々のリスト:http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_people_diagnosed_with_dyslexia

やる気の出る言葉がけを

2013-10-20 06:40:08 | 子育てノート
どんな言葉をかけるかで、子供の「やる気」を萎えさせるか燃え上がらせるか、ずいぶんと違ってくる。子供にとって、普段傍にいる大人の言葉の力というのは大きいもの。

例えその子が家庭から外に出、打ちのめされることに出会おうとも(外ではそんなことも多いもの)、もし「やる気」になるような言葉が家の中で習慣となっているのなら、子供達はまた立ち上がり、明日に向かって歩いていくことができる。

朝起きての開口一番が、「ああまた雨・・・、どんより薄暗いし、気分が滅入るわねえ。は~(ため息)」だったら、周りの子供達もやはり気分が滅入る。

「雨って空気が清められる感じがして、ママ好きだなあ。今日は家の中でクラフトして、本読んで、暖かく過ごそうか。これぐらいの雨なら散歩もできそうだし。雨にぬれた後のシャワーって気持ちいいのよねえ」

子供達の前だけでもと、こうして元気な「ふり」、やる気のある「ふり」をし続けていたら、いつしか本当に身についていくものだなあ、そう最近よく思います。もともと能天気楽天家な面はありますが、それに拍車がかかり。(笑)


普段から、その子が穴から出られなくなるような言葉でなく、自分で穴から這い出、走り出せるような言葉を心がけてみる

「また計算ミス!何度も言ってるじゃない提出する前にチェックしなさいって。何でできないんだろう、あなたって」

「あと五点あれば百点じゃない! 計算ミスどうしたらなくせるかなあ?」
子:「もう少し時間かけて、提出前にチェックする」
「次回は満点目指そう!」

「早くしなさい! いっつものろのろして!」
まずは「いつもする/ いつもしない」といった「いつも(always、never)」という言葉は使わないようにする。事実ではないし(好きなことには素早かったりするもの)、決め付けられ穴から出られなくなるだけ。

「今何したらいいんだっけ?」
子:「あ、出かける準備」
「遅れたら大変よね。さっと準備して、その本、先に車に行って続きを読んだら?」


言葉を発する前に、一呼吸置いてみる。この言葉は、その子をその場から動けなくする言葉か、それとも前へと走らせる言葉か? 心がけていきたいです。

「難しい子」に育てられ

2013-10-17 02:52:34 | 子育てノート
夫が長期出張中の友人&二人の息子君交えて食事。子供がはしゃいで遊ぶ声を背後に聞きながら、友人と後片付け。手を動かし口を動かし。

二人の息子の内、一人の子とどうしてもぶつかってしまう。その子の行動のこういうところああいうところ気になってしょうがない。昨夜はお友達の家でのスリープオーバーでその子が家にいなかったのだけれど、もう一人とだけ一緒というのは、何てピースフルで私自身の精神も穏やかになるんだろうと驚いたのよと友人。

よく分かる! 自分の価値観のフレームにすっぽりとはまる手のかからない子だけだったら、子育ては何て楽しくハッピー!ですんでいただろうに。

四六時中何をしているかと覗き、「今何をするときだっけ?」と思い出させ、背中を押し尻を叩いてするべき事に向かわせる必要がある子。自分の思い通りにいかないと、感情をむき出しにして当り散らし、周りもどっと疲れる子。私自身の価値観からはずれることを、何度も何度も繰り返し、一緒にいると神経が擦り切れていくように感じる子。

そうかと思えば、ぱっぱと自分で物事を進め、感情的な切り替えもうまく、ルーティンも身の回りのことも私などよりきちんとしていて、こちらが自然と微笑んでしまうようなことを言ったりしたりを続ける子もいる。

それでも、この自分にとって難しいと感じる子達が、どれほど私自身を育ててくれただろうと思う。忍耐と寛容、自身の価値観の見直し、打ちひしがれても立ち上がり続けるガッツ、難しい子/手のかからない子という境界を超え一人一人を抱きしめることの大切さ、それらを何度も何度も教えてくれたのは、そして今も教え続けてくれるのは、この難しい子達。

この子達が、相性や価値観を超えたところにある、奥深くから湧き上がる愛情というものを示してくれた。


私達も育つために、この子達を与えられてる、親と子、一緒に育っていくためにこうして毎日向き合っているんだよね・・・、そう友人とつぶやき合い。

片づけが終わり、ハーブティーでほっと一息。きゃっきゃと遊び続ける子供達。二人の息子君を見つめる友人の目の優しさ。よしっ、明日からも頑張ろ、そう思った夜でした。

子育てノート、心の宝箱

2013-10-13 04:57:10 | 子育てノート
子供達と接していて、浮かぶイメージに、グラスに入った水や、箱に入った宝石、銀行口座のバランス、といったようなものがあります。

ここでは「心の宝箱」という言葉を使って表現してみます。(何だか命名メルヘンチック過ぎでしょうか)

その箱の中にきらきらと輝く宝がいっぱい入っていると、子供は生き生きとその子の持てる力を最大限発揮していける。

親と子の絆を築くというのは、この箱の中にせっせと宝物を入れていくイメージ。

宝物といっても、世間的に価値があるとか、高価なものとか、例えば、最新の電子機器とか世界一大きなアミューズメントパークへの旅などが、そうとういうわけでもなくて。何が宝物になるかと言うと、それは日常にある何気ない気の向け方のようなもの。

宝箱に蓄積されていく、と感じるのが:

・話を聞く。
・冗談言い合って、一緒に笑う。
・宿題やプロジェクトに埋もれてるときに、フルーツやスナックなどをさりげなく部屋に差し入れる。
・できないできない!と言っていることにじっくり取り組み一緒に乗り越える
・自分の頭にあるこうして欲しいああして欲しいという絶え間ない言葉をひとまず横に置き、その子を理解しようとしてみる。
・目を見て接する。
・一緒に散歩。
・一緒に遊ぶ。
・ハグ、スキンシップ
・寝る前の感謝の言葉の言い合い
・学校へ送り別れるときに目を合わせ、いい日をねといったメッセージを伝える(その前にどんなにカオティックでも)

などなど。


逆に一気に宝物が消えていく瞬間というのもあって、こちらが爆発したり、無理やり何かをさせたり、子供が本当に見てほしい時に無関心だったり。それでも、もし日常的に積み重ねた宝物がたくさんある場合は、箱が空っぽになることはない。またたとえ減ってしまっても、再びこつこつと貯めていけばいいこと。

またそんな一気に減った瞬間も、その後の対処の仕方で、一気に倍になるチャンスでもある。なぜあの時、こちらがそんな態度をとったのか、その子が少し時間をかけて、納得できたり、謝る必要がある場合はこちらが謝ったりすることで。

ティーンになると、それまでの「宝箱の蓄積」というのが本当に大きいと感じている。慣れ親しんだ価値観を離れ、色々試し、自分を作っていこうとするティーンの子達。親の価値観と頭ではぶつかり合う。親は時に彼らがどうでようが「それは違う!」と何が何でも入り込む必要もある。それでも「宝箱の蓄積」があるのならば、絆はしっかりと繋がっている。

こつこつと、子供達の宝箱を満たしていきたい、そう思いつつ。


*これは対人関係にも言える部分があるのかもしれませんね。相手の心の箱を満たすというイメージ。

子育てノート、報酬制について

2013-10-13 04:55:02 | 子育てノート
先日友人達と話していて、「報酬制」の話になった。「いいことをすれば報酬がもらえる」、こちらでは聞きなれた文句。

子供達の学校でも、静かに授業が聞けたり、いいことをすると「チケット」がもらえ、そのチケットをためると賞品がもらえるといったシステムを取り入れるクラスが多い。今年からは市のディストリクトをあげて、無断欠席がなければディズニーランドへの旅を賞品とする「くじ引き」へ参加できる!といったキャンペーンも始まった。

中学になると、「成績にポイントを加算」といった報酬が盛ん。ここまで報酬制!と驚いたものには、「恵まれない人々に缶詰を持ち寄りましょう週間」に、○缶以上持ってきたら○ポイントとされていたこと。生徒たち成績のためにとこぞって持ち寄ってました。

長年こちらで先生をしていた友人によると、報酬制がないとなかなかうまくクラスが回っていかないのだそう。報酬制によって嘘のようにクラスがまとまると。

街に出てショッピングしていると、「カートに立たないでね。思い出して!いい子にしていれば必ず報酬がもらえるでしょ」そんな放送に出会うこともある。

こちらの子供達を取り巻くこんな状況に、最初はぎょっとしたものだった。

報酬制に違和感を感じるのは、「報酬のためにするわけじゃない」といった思いのためだろう。

授業中静かにしているのは自分も周りも学ぶため、缶詰を持ってくるのは少しでも持たざる人々の役に立つため、カートに立たないのだって大切な身体を傷つけないため。

そんな目的が「目の前の飴玉をもらうため」に、すり替わってしまう。あげく、もし飴玉がないのならしないよとなってしまうのじゃないだろうか。長い目で見るのなら、何も身に着けたことにはならないのじゃないか。

そこで思い出すのが、飼い犬を調教クラスに連れて行ったときのこと。ピーナッツバターのついた木べらを常に持ち歩き、言われたことに従ったら舐めさせる。しばらくすると、ピーナッツバターがなくても言われたことをするようになる。ヒトの子供もひょっとして、飴玉を常に用意されれば、飴玉がなくても習慣として身体にしみつき、するようになっていくということもあるのだろうか?
 
そこのところはよく分からないのだけれど、報酬を用いず、「本当の目的」をその都度思い出させ、何度も何度も繰り返し習慣にしていくというのは、とにかく教える側にとって手間も時間もとてつもなくかかること。様々な家庭環境から送られる大勢の子供を一気にまとめるには、報酬制がどうしても必要になってくるのだろう。しかも皆で祭り気分にわいわいと楽しくまとまってしまう。



家から一歩出れば、どこもかしこも報酬制。外ではそんな祭りを楽しみつつも、家庭では、こつこつと「報酬のために」とはまた違う姿勢も教えていきたい。それはすぐに結果も出ず、時間もかかること。

勉強するのは「学ぶ楽しみ」と「勉強できるなんて恵まれた環境にいることを将来少しでも還元する」ため、Aをとって100ドルもらうためじゃない。トイレ掃除をするのは皆が気持ちよく使えると嬉しいから、ゴミ出しするのは皆が暮らす家をきれいに保てたら気持ちいいから、こずかいをもらうためじゃない。

こうして基本をこつこつと教えつつ、時にちょっとした祭(報酬制)も取り入れていったらいいのじゃないか。それでも報酬はなるべく「物」でなく、「一緒に過ごす楽しい時」といったもの。部屋片付けたら皆で美味しいもの食べようか、洗濯たたんだら公園行こうかなど。

大きくなるにつれ、芝刈りしたら○ドルなどといった契約を結ぶのも、社会勉強になるように思う。それも、まずは「本当の目的」をこつこつと身につけていった上に。


報酬制について、引き続き考え、工夫していきたいです。