二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

多胡の碑までの旅

2012年05月24日 | Blog & Photo

昨日、午前中は軽トラに乗って、N町農協にある育苗センターまで、稲の苗を受け取りにいってきた。銘柄は「ひとめぼれ」。「ゴロピカリ」とならぶ、群馬県の作付け“推奨米”である。
そのあと、ビックカメラで、XP-2という、カラー現像でセピアとなるイルフォードのフィルムを買う。
120のブローニーと35mmを買って、西毛へいくことにした。
なんとなく、セピアな気分だったので、50mmレンズをつけたF3に装填。
走っている途中、「そうだ、いい機会だから、多胡の古碑へいこう」と決めた。



群馬で生まれ育った、歴史好きな三毛ネコさん、これまでどーしたわけか、吉井町にある多胡碑にはいったことがなかった。
多胡碑がどんなものかご存じない方は、こちらをどうぞ。

http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/ky-bunkazai/tagohi/index.htm
上野の国に、11番目の郡として、多胡郡が、西暦711年に誕生したことをしるした、古代では有名な古碑である。
煎じつめれば、まあ、711年(和銅4年)ころに、この地が正式に大和朝廷の支配下に組み込まれたということでもある。
それまでは、文字を知らない半独立国家というか、文字文化のない地帯であった・・・ということもできる。7世紀には、この地に、朝鮮系の渡来人が数多く入り込んでいた。
7世紀、8世紀ころにつくられた古墳の数は、関東ではこの群馬がもっとも多いので、それなりに栄え、豪族などが蟠踞して、勢力を競っていたのだ。

このころ日本人は文字をもっていなかったから、漢字で自分たちのことばをしるした。いわゆる「万葉仮名」などといわれるのが、それである。文明化するということは、この時代は中国の周縁国家となることも意味した。江戸末期、ペリーが黒船に乗って太平洋を渡ってくるまで、千数百年ものあいだ、そうだった。
明治以後は、西洋の、そして戦後はアメリカの周縁国家となって、発展をとげていく。

南八幡の八幡宮にも参拝。
ここはわたしが、両親につれられ、七五三詣でをしたゆかりの神社。
長い距離をトコトコ歩くには、ちょっと暑くて、車中ではエアコンを使った。
わずか半日とはいえ、わたしにとって、カメラ散歩は短い旅。小さな発見や出会いに一喜一憂しながら、二台のカメラで記録していく。
この日の二台とは、ニコンF3とフジのX10。カメラマンベストを引っ張り出してまた着用するようになったので、どこから見ても“カメラマン”然としている(・・・たぶん)。
そうしないと、なぜうろうろしているのかわからない、正体不明の「怪しいおじさん」に見えてしまう(笑)。





上信電鉄のある小駅に近づくと、遠くからキャッキャとじゃれあう女の子の声が聞こえてきた。
「わー可愛いね。写真とってもイイかな」
「うん、いいよー」
ひろげていたランドセルをしまい、帽子をあわててかぶりなおして、カメラの前に立つ。
そうして“その一瞬にしか撮れない”写真を撮る!
「ほらほら、こんな感じに写ったよ」とモニターを見せると、「わあ、帽子曲がってる」「ズボンが変」とかいって、また笑いころげる。その笑顔がわたしや、その場にいた他の人びとに感染していく。

・・・こうして、愉しい時間が過ぎていった。


☆mixiアルバム「Beautiful Wind(上州風)Part2」「ポートレイト&記念写真」などに、新作を数枚アップしました。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000055361030&owner_id=4279073
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000014939136&owner_id=4279073

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