数日前、ニコは久しぶりに病院で虫歯を抜いて、歯石をとってもらった。
ニコはもともとガジガジ(かじるおもちゃ)が好きで、歯石は自然にとれていたので、歯は比較的きれいな方だと思っていたのだが、歳をとってきて、ここ数年はあまりそういうもので遊ばなくなった。
隙を見ては歯磨きを試みるのだが、じっとしていない。押さえつけて犬歯くらいまではなんとかなるのだけれど、肝心の奥歯はなかなか触らせてくれない。
今までも何年かに一度、歯石を取るために獣医さんに預けたことはあったが、全身麻酔になるので、年をとってからは心配で先延ばしにしていた。
でも最近虫歯を見つけたので、「年齢的に、これが最後だね。」なんて、kenjiと相談して、病院へ。
病院から帰ってきた翌日のニコ。
ぐったりして、きっとかなりの緊張と興奮だったんだろう、一日中寝ていた。
よしよし、いい子にしてたね。
ほんとうは、いいこじゃなかった。
興奮して、獣医さんに噛み付いてしまったらしい。
獣医さん、ごめんなさい。
ニコちゃんも、ごめんなさい。怖かったね。
知らない人ばかりのところにひとりぼっちで置いていかれたんだもんね。
ニコは年をとって、階段を登るのが難しくなってきた。
散歩の距離も短くなってきた。すぐに帰りたがるのだ。
今年の4月で15才。
けっこうなおばあちゃんだもの。
あと、何年いっしょにいられるだろう。
我が家のポリシーとしては、人間も犬も、病気になっても過剰な処置はしないで自然に任せることにしている。
順番としては、ニコが先。覚悟はできている。
でも、案外人間の方が、明日ぽっくり逝ってしまうかもしれない。
どちらが先でも、覚悟はできている。
最近、姉のように年の近い叔母が亡くなった。
近年は会うことは少なかったけれど、気持ちの上ではとても親しい存在だった。まだ死ぬには早い年齢だった。
病院から自宅療養になって、大好きだったお酒の瓶を抱えて亡くなっていたらしい。
一方で、100才を超す祖母が寝たきりではあるけれど、生きている。
「まだお迎えがこない。」と嘆きつつ、「まだ死にたくはない。まだ食べたいものもいっぱいある。」とも言っているらしい(^_^;)。
わたしも歳をとってきて、死は他人ごとではなくなった。
「今日は死ぬのにもってこいの日」という、アメリカ・インディアンの詩がある。
ナンシー・ウッド著のタオス・プエブロの古老の言葉 (本書より引用)
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生死は、年齢ではない。
自分の人生に満足できた時、この「自分」という入れ物を手放してもいいと、思えるのだろう。
ニコの「その日」が、こんな気持で迎えられるよう、わたしの「その日」がこんな気持ちで迎えられるよう、
生きている今を満ち足りたものにしていこう、と思う。
そしてこの詩のように、穏やかに、静かな満足感で、最後の日を迎えられたらいいな、と思う。
眠り続けるニコが一瞬「死んじゃったかな?」と不安になって、そこから連鎖的に考えたこと。
頭を撫でたら、薄目を開けた。
「いい迷惑?」ごめんごめん。
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日本帰国時に合わせて、ネットであれこれお買い物。
今まで買ってよかったもの、失敗したもの、次の帰国に合わせて買いたいもの、など、
お買い物記録(覚え書きもふくめて(^_^;))を別ブログにアップしてみました。
海外の人へのお土産選びの参考になるかも?
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ニコはもともとガジガジ(かじるおもちゃ)が好きで、歯石は自然にとれていたので、歯は比較的きれいな方だと思っていたのだが、歳をとってきて、ここ数年はあまりそういうもので遊ばなくなった。
隙を見ては歯磨きを試みるのだが、じっとしていない。押さえつけて犬歯くらいまではなんとかなるのだけれど、肝心の奥歯はなかなか触らせてくれない。
今までも何年かに一度、歯石を取るために獣医さんに預けたことはあったが、全身麻酔になるので、年をとってからは心配で先延ばしにしていた。
でも最近虫歯を見つけたので、「年齢的に、これが最後だね。」なんて、kenjiと相談して、病院へ。
病院から帰ってきた翌日のニコ。
ぐったりして、きっとかなりの緊張と興奮だったんだろう、一日中寝ていた。
よしよし、いい子にしてたね。
ほんとうは、いいこじゃなかった。
興奮して、獣医さんに噛み付いてしまったらしい。
獣医さん、ごめんなさい。
ニコちゃんも、ごめんなさい。怖かったね。
知らない人ばかりのところにひとりぼっちで置いていかれたんだもんね。
ニコは年をとって、階段を登るのが難しくなってきた。
散歩の距離も短くなってきた。すぐに帰りたがるのだ。
今年の4月で15才。
けっこうなおばあちゃんだもの。
あと、何年いっしょにいられるだろう。
我が家のポリシーとしては、人間も犬も、病気になっても過剰な処置はしないで自然に任せることにしている。
順番としては、ニコが先。覚悟はできている。
でも、案外人間の方が、明日ぽっくり逝ってしまうかもしれない。
どちらが先でも、覚悟はできている。
最近、姉のように年の近い叔母が亡くなった。
近年は会うことは少なかったけれど、気持ちの上ではとても親しい存在だった。まだ死ぬには早い年齢だった。
病院から自宅療養になって、大好きだったお酒の瓶を抱えて亡くなっていたらしい。
一方で、100才を超す祖母が寝たきりではあるけれど、生きている。
「まだお迎えがこない。」と嘆きつつ、「まだ死にたくはない。まだ食べたいものもいっぱいある。」とも言っているらしい(^_^;)。
わたしも歳をとってきて、死は他人ごとではなくなった。
「今日は死ぬのにもってこいの日」という、アメリカ・インディアンの詩がある。
ナンシー・ウッド著のタオス・プエブロの古老の言葉 (本書より引用)
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生死は、年齢ではない。
自分の人生に満足できた時、この「自分」という入れ物を手放してもいいと、思えるのだろう。
ニコの「その日」が、こんな気持で迎えられるよう、わたしの「その日」がこんな気持ちで迎えられるよう、
生きている今を満ち足りたものにしていこう、と思う。
そしてこの詩のように、穏やかに、静かな満足感で、最後の日を迎えられたらいいな、と思う。
眠り続けるニコが一瞬「死んじゃったかな?」と不安になって、そこから連鎖的に考えたこと。
頭を撫でたら、薄目を開けた。
「いい迷惑?」ごめんごめん。
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なんかね、アメリカ・インディアンはわたしの魂の出どころという気がしているのです。
アメリカ・インディアンの「すべてのものは一つ、つながっている」という考え方もとても共鳴できるから、わたしもみじんこも同じ位置づけだし、過去も今も未来も全てが一つだし、とてもしっくりくるのです。
だから、自分が死ぬのは怖くはないけれど、愛するものを失うのはまだ怖い。
そんな心境です。
私もワンコが歳をとる度に、後何年一緒に居られるかな、、ってやっぱり考えちゃうんですよね。
なので、毎日がワンコにとって良い日でありますよにって、今はいつも考えながら過ごしてる気がします。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。すごく強烈な言葉ですね~。私も最後はそんな気分で死ねたら良いんだろうな~。