最近、オールディーズの曲を聴きながらなつかしく昔のことを思い出したりしていました。
ビートルズとか山下達郎とか・・
かれこれ100年くらい前のことなんですけどね。
年取ると、昨日の晩飯より昔の記憶の方が鮮明になるといわれていますが、その通りね。
青春時代の恋と失恋の物語、闘いに勝利した鮮やかな記憶(というような・・)
その時、ふと思ったのです。
あれらは本当に私の過去の出来事だったのだろうか、と。
たとえば、一つの出来事(A君とデートした)記憶があるとします。
あれはたしか高校生の時だったよね?
そうそう、大磯の海で泳いだよね。美しいひと夏の思い出・・
あれ、でも高校時代、私はまだA君と出会っていなかった気がするんだけど・・
A君と出会ったのはいつ?
もしかして別々の高校だった?
あるいは大学時代か?
でも大学生の頃はバイトに忙しくてデートなんてしてる暇なかった。
いやいや大人になってから同窓会でばったり・・
でも社会人になってからはもっと忙しくて同窓会にも行ってないし・・
じゃあ、中学時代? でも中学の頃、私は東京にはいなかった・・
というような(あくまでも例えですが)矛盾が生じてきて、いくら思い出そうとしても記憶は矛盾だらけで何がどうなっていたのか、わからないのですよ。
こりゃ一体どうしたことか。
つまり、記憶ってあてにならない。案外簡単に書き換えられるみたい。
なので、自分では絶対こうだった、と思っても一緒にいた友人の記憶は全然違っていたりします。
友人の記憶が間違っているかもしれないし、二人とも間違っているかもしれない。
それを記憶している人(あるいは記憶媒体)がなくなれば事実だって消えてしまいます。
アニメ「リメンバー・ミー」にもあるように、死者の国ではその人を記憶している生者がいなくなったとき、存在が消えます。
(これはいい映画なのでまだの人はぜひ)
存在する、というのは誰かが記憶しているから。誰も記憶していないなら、それは存在しないも同然。
だから私たちは必死で(嘘かもしれないけど)自分の過去を記憶にとどめようとするのかもしれません。
ならば・・
と私は思ったのですよ。
あえていい記憶だけ残したらどうかと。
どうせ記憶は捏造されるのだから、これは本当はこうだった、と自分に言い聞かせるのです。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」
とチャップリンも言っているように、どんな悲劇にも喜劇的な要素はあります。
私たちが辛い悲しい過去を持っていたとしても、遠くから見ると喜劇かもしれない。
そして、今や私は自らの過去からとても遠い場所まで来てしまいました。
ここから見ると青春時代の失敗も失恋も、喜劇として見ることができます。
A君と出会ったのは高校生の頃で、私たちにはひと夏の美しい思い出があるけど、振ったのは私よ!
人生の脚本の書き換え(記憶の書き換え)というのは、カウンセリングの一つの手法でもあります。
潜在意識に深く刻み込まれたトラウマは、そう簡単には解消できないかもしれないけど、でも徐々に薄まっていくのはたしかです。
そして、私くらいの年になると、それはそれでこの人生の良き思い出の一つであるぞよ、と捉えられるようになりますねん。
年とるのも悪くないよ。