誤訳かどうかは: il faut vivre ではなく、il faut tenter de vivre という原詩に、堀辰雄は、内在する生死の葛藤を見ているのかもしれませんね。<tenter de +infinitif>「...しようと試みる」、il faut tenter de vivre 直訳すれば「生きようとしてみなければならない」でしょう。
さらに堀辰雄は「風立ちぬ」としていますが、「ぬ」はこの場合、完了の助詞だと思いますが、Le vent se leve は現在形ですが(「風が吹きはじめる」)、目の前に生じている自然現象を「風が吹き始めた」と過去形を用いるのが日本語の語感として自然なのかとも思います。 余談ですが、最近の学生はたいていフランス語の現在形を「...した」と訳します。過去形を習う前です。18,9歳の若者の日常語に現在形が消えたのかと思ったりするのですが。たとえば、Il va au cinema. 彼は映画に行った。Je regarde la television. 私はテレビを見た。 「余談」なんて断るまでもないわね。全て余談なのだもの。
ヴァレリーの詩の一行、堀辰雄の名訳ですね。
今と今日新聞の<連載小説>は『風立ちぬ』ですね。
(050820日々歌う)
大野晋が指摘したように、<「生きめやも」を分解すると、生き(未然形)―め(推量の助動詞「む」の已然形)―やも(反語の終助詞)、つまり生きようか、いや生きないという意味>になるからです。
知ってると思うけど。
http://www.haiku-data.jp/top.php?cd=13849&PHPSESSID=04b6045c98d128e0096710cf9dc418d0
il faut vivre ではなく、il faut tenter de vivre
という原詩に、堀辰雄は、内在する生死の葛藤を見ているのかもしれませんね。<tenter de +infinitif>「...しようと試みる」、il faut tenter de vivre 直訳すれば「生きようとしてみなければならない」でしょう。
さらに堀辰雄は「風立ちぬ」としていますが、「ぬ」はこの場合、完了の助詞だと思いますが、Le vent se leve は現在形ですが(「風が吹きはじめる」)、目の前に生じている自然現象を「風が吹き始めた」と過去形を用いるのが日本語の語感として自然なのかとも思います。
余談ですが、最近の学生はたいていフランス語の現在形を「...した」と訳します。過去形を習う前です。18,9歳の若者の日常語に現在形が消えたのかと思ったりするのですが。たとえば、Il va au cinema. 彼は映画に行った。Je regarde la television. 私はテレビを見た。
「余談」なんて断るまでもないわね。全て余談なのだもの。