夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

『日本語練習帳』を再読した

2010年08月25日 | 言葉
 以前、話題になりよく売れた『日本語練習帳』(大野晋)を読み返している。「単語に敏感になろう」と言う章では、例えば「思う」と「考える」の違いを取り上げる。すべてが納得とは言えなくても、分かり易い。次のハとガの違いの章もよく分かる。特にこのハとガは日本語の最も特徴的な使い方で、これが分かれば日本語が分かると言える。だから、学校では変な文法など教えずに、こうした事を教える方がずっと役に立つ、と言う。納得なのだが、あまりにも問題が易しい。その中に、ある例文を出して、文章の構造を解明出来るような問題がある。
 とても易しい問題である。だが、「この問題に取り組んだ方は、何回も何回もこの一つのセンテンスを読んだに違いありません」と言う文章を読んで、えっ? と思った。こんなの一読してすぐに分かるじゃないか。で、著者の「この問題に……」の文章をそれこそ、何回も読んでしまった。出て来る問題はどれもこれもとても簡単で、何でこんな問題を出さなくてはならないのだろうと、不思議になるくらいなのだ。

 ところが、「文章の骨格」と言う章になると、突然に難しい内容になる。例えば、新聞の1400字の社説を400字に「縮約」せよ、と言う問題が出る。しかも20字20行にびたりと納めなければならない。
 これは非常に難しい。至難とさえ言える。でも著書はそうは思わない。
 当然に模範解答がある。しかしなぜそうなるのかの分かり易い説明は無い。それがどんなに難しいかは、次のような例を挙げれば分かってもらえるだろう。
 その社説の中に次のような二つの文章がある。
A 職責の重さを胸に刻み、自らの言動を律する。この当たり前の姿勢を徹底させることが何よりも大切である。
B 政治権力からの不当な干渉をはねのける力量を持ち続ける。そのためにも、念には念を入れて足元を固めてもらいたい。

 著者は次のように説明する。
 AとBが述べている趣旨はほぼ同じです。Aが前にあると、それは終結部Bの結論を先取りしているわけで、むしろBの力を減殺している。Bは繰り返しという印象になる。

 私にはこれがほぼ同じ趣旨だとはとても思えない。これだけを取り出したから分からないのではない。文章全体を読んだって、分からない。Aはある検事が「自らの職名を使って、親族の税務調査に圧力をかけるような行動をした」事に対しての批判である。Bはと言うと、Bの前にそれらしき事柄は無い。ほぼ同じ趣旨だ、と言うからには、Aと同じような事柄が書いてあるはずだと思う。でも何度読んでも無い。
 そこで改めて最初から読み直す。そしてそれはあった。社説の半分より少し前に「一部の政治家らがいう『検察ファッショではないか』といった批判は、感情的で、的を射た指摘とはいいがたい」が多分、相当すると思われる。それしか私には見付ける事が出来ない。
 そして次には「400字でまとめた前問のあなたの文章を、半分の200字に要約せよ」との問題が出される。
 答の一例は確かに前問で示された400字に縮約した文章の要約になっている。しかし、誰もがそうした400字の縮約が出来る訳ではない。それはとても難しいと私は思う。
 だから、その400字を200字に要約した結果を見せられたって、一向に納得は出来ない。でも著者はまるで意に介してはいない。
 
 こうした所に、学者が書いた本の難しさがあるのだ、と私は思う。超一流の日本語学者である著者を私は尊敬申し上げている。色々な本も読んでいる。ただ、日本語の源流がインドのドラヴィダ語だったかにある、との説には納得はしていないが。そして著者が本書にも書いているが、岩波古語辞典に編者として取り組んだその熱意は買うが、動詞を終止形ではなく、連用形で見出しにしているなどは私には使いにくい。言葉の説明も全く納得、とは言えない。曖昧な説明があったり、他の二冊の古語辞典にはある、とても重要な意味がそっくり抜けているなどもあって、手放しで尊敬する訳にも行かない。

 この『日本語練習帳』にしても、『岩波古語辞典』にしても、そうそうたる人が校閲を担当しているに違いない。そうした人には、私が不満に思っているような事は思いもよらなかったのだろう。つまり、学者と学者のような人々(あるいは、学者を頭っから信じ切っている人々)が集まって本を作ると、とても難しい本が出来上がる。そしてそれが難しいとは思えない。難しいとは分からないと言うその事がどうしようも無い欠陥になるのである。
 私が校閲の立場だったら、ハとガの説明を半分に切り詰めて、文章を縮約する説明をもっと易しく展開する。こことここが重複していると具体的に示し、これは言わなくても分かる、と削り、そうした具体的な作業を通して説明する。それしかこうした作業の説明はあり得ない。
 『日本語練習帳』では学者の書いた、長くて分かりにくい文章を例を挙げて批判している。しかしそれは著者の身には及ばないのである。

 この本は1998年の刊行だ。発売と同時に買った記憶がある。で、読んだはずである。それなのに、以上に述べたような事柄の記憶がまるで無い。と言う事は、私自身、本の読み方がひどく雑だったと言う訳だ。確かに、以前は私は本を理解しながら読んではいなかった。文字を読んだだけだったのだ。だから、まるで詐欺師が書いたかのような内容の本でも納得してしまっていた。そして10年以上経って、読み返してみたら、そのあまりのひどさに驚いたのだ。
 そうした文字づらだけを読む読者は多分、圧倒的に多く居るはずだ。なぜなら、とんでもないひどい本が相変わらずベストセラーになっている。詐欺師が書いたなどとは言わないが、国内100万部突破、と帯に書いてある『7つの習慣』と言う本が、ある部署からきれいな状態でゴミとして出ていた。で、もらって読んだ。なるほどと、思える事も書いてある。特に考え方が重要だ、との点は私はどちらかと言うと消極的で否定的な考え方をしてしまいがちなので、納得出来る。
 そしてそれを具体的に展開して行くのだが,何も500ページ近くにもなる内容で展開する必要は無いのではないか、と思ってしまう。具体的と言うよりも、私にとってはどんどん分かりにくくなる感じなのである。頻繁に出て来る図表は、一見分かり易いが,私にはよく理解が出来ない。そしてやはり頻繁に現れるパラダイムと言うカタカナ語がさっぱり分からない。初出に戻って理解しても、じきに分からなくなってしまう。
 全世界では1500万部以上が売れたと言うのだから、誰もが納得したはずである。私は相当に頭が悪いらしい。そして半分ほど読んで、今は捨てる本の中に入っている。

 何だ、あんたの本の読み方ってそんなもんなのか、と言われても、私は動じない。私には何よりも具体的で分かり易い事が第一の重要事項なのである。そして言葉に騙されない。言葉が立派でも、その具体的な姿が想像出来なければ何にもならない。世間にはよく空虚な事を平気で言う人が居る。言葉に寄りかかって、その意味を考えようとはしていない。
 理屈はもちろん大切だが、その前に、感覚と言うか、感情を大切にしたいと思っている。それは私自身の人格から生まれている。だから、それがどんなに変であっても、人から批判されるような情況であっても、私にはそれしか無いのである。理屈は頭で考えられるが、感覚はそうではない。本や新聞・雑誌の記事はもっと感覚で読むべきだ、と私は思っている。もちろん、感覚を磨く事は重要で、それは理論を磨く事にもなるし、人格を磨く事にもなる、と信じている。