夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

再び、「○○が発売」について

2010年08月07日 | 言葉
 「週刊○○が発売」と言う言い方を私はおかしいと思っていて、以前、このブログにも書いた。ただ、「週刊○○、発売中」あるいは「週刊○○発売中」ならおかしくは感じない。と言うのは、文字ならば「、」があれば際立つのだが、音声で「、」が無くても「○○」と「発売中」の間にわずかの空白のあるのが分かる。それは「○○を」と言っているのだ。それが暗黙の了解となっていると私は思っている。
 けれどもそれが「が」になってしまうと、その暗黙の了解はまるで違ってしまう。「が」は明確に主語である事を表すからだ。だから「週刊○○が発売」なら、一体、何を発売しているのか、と言う訳である。

 ただ、この「が」は必ずしも主語を表さない。それが私のブログに寄せられたある人の意見になる。
以下は、その引用。

・僕は、君のこと「が」好きだ。
・君は、人「を」好きになったことがあるのかい?

前者の他の例としては、"私は山よりも海が好きだ" があります。海を好きだ、とは言わないと思います。そして後者ですが、"人が好きになったことがあるのかい?" ですと、なんだかおかしな言い方になります。
(引用終わり)

 君は人「が」好きになったことがあるのかい?
との言い方を私はおかしいとはあまり思わない。「を」の方が自然だけど、「が」でもおかしくはない。「を」ではなく「が」にしているのは、「人」を強調している言い方ではないのか。例えば「私は自転車が買いたい」は「自転車を買いたい」の意味なのだが、「が」にする事で「自転車」が強調されていると思う。
 この言い方と「○○が発売」とは明確に違う。「買いたい」とか「好きだ」との言い方は目的語を前提にしている。それこそ、日本語としての暗黙の了解である。その上に立って、平気で「が」が使える。しかし「が発売」は上の意見を寄せてくれた人も言っているが、「発売される」の省略形なのだ。だから「を発売」なら「発売する」の省略形になる。
 こうした漢語は中国語である。中国語では「される」なら前に「被」などの文字を使う必要があるはずだ。そうやってきちんと使い分けている。それを無視して、いい加減に「同じ形」で表現する事は日本語の破壊になる。
 ただでさえ、「が」は難しい。様々なニュアンスを持てる。それなのに、そこにおかしな言い方を取り込んでしまえば、日本語は収拾が付かなくなる。

 以前、「○○が砲撃を受けて撃沈する」との新聞のコラムの表現を批判した。「撃沈される」の間違いではないか、と。そうしたら、「撃沈」さんと名乗る人から、撃沈が完敗を意味する用語ともなっているから、「砲撃を受けて撃沈する」は許容範囲かと思う、との意見を頂いた。
 もしかして、「轟沈」と混同しているのではないだろうか。

・轟沈=艦船が砲撃を受けて、あっという間に沈む(ようにする)こと。(旧日本軍では、1分間以内に沈めることを指した)(新明解国語辞典)
・轟沈=砲撃・爆撃・雷撃などにより艦船を一分間以内に沈めること。自動詞にも使う。(岩波国語辞典)

 上記のように、「新明解」は「沈む」と「沈むようにする」の両方を挙げている。つまり、自動詞と他動詞とがある、との意味である。「岩波」は明確に「自動詞にも使う」と言っている。因みに同書の「撃沈」にはそうした説明は無い。あるのは他動詞だけである。

 このように受け身の表現には曖昧さがつきまとっている。だからこそ、巧妙な使い方もしている。例えばある大事故を起こした鉄道会社が、ある期間、宣伝を自粛した。すると、別の親族会社とも言える会社が代わりに宣伝を始めた。それをある新聞は「事故でPR自粛に追い込まれたために、○○が変わってPRに乗り出した」と書いたのである。
 分かりますよね。「追い込まれた」とする事で、まるで被害者になったように見えてしまう。とんでもない。その鉄道会社が事故を起こしたのである。大勢の犠牲者が出てしまったような大事故だった。
 こんな風に、受け身であってはならない表現にまで受け身がしゃしゃり出て来る。そうした感じ方が「○○が発売」にも現れているのだ、と私は思っている。

 ついでながら、先の6月14日のブログで私は次のように書いた。

 「○○本日発売」の表現がある。「○○」と「本日」の間にわずかな切れ目があって、「○○」が発売する対象物である事が分かる表現である。「誰が」を明確に言わないのは、言う必要が無いからである。
 そうした微妙な表現を乱暴にも「が」と言う明確に主語を表す場合の多い助詞を使ってしてしまうから、話がおかしくなるのである。

 この事について「撃沈」さんは、主格の「が」は古くから一般的な用法ではないか、と言われた。それでは、「君が代」は古歌が国歌になっているのだが、この「が」は主格だろうか。これは「君の代」なのだ。「古くから」と言うが、古くは「が」は「の」だった。万葉集にも主格の「が」などは出て来ない。そこにある「が」は「小松が下」とか「浜松が枝」「わが代」など、「の」の意味で使われている。
 有名な額田王の「あかねさす」の歌に「野守は見ずや君が袖振る」の言葉があるが、私はこれは「君の袖振る」だと理解している。主格なら「君袖振る」などとなる。日本語は本来「主格」を明瞭に表す事は少なかった。
 そして、こうした「が」は親しい相手とか見下した相手にしか使われなかった。それはきちんと古語辞典に説明がある。
 だから国歌「君が代」の「君」は天皇にはならないのである。この「君」に我々は親しい人の事を思えば良いのである。