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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

問題な日本語・老骨に鞭打つ

2008年08月19日 | Weblog
 非常に考えさせられる所の多い事柄が満載(嫌みではありません)されているので、どうしても『問題な日本語』から目を離せない。
●問題
 「老骨〈に・を〉鞭打つ」はどっち? 

●説明
 ~ニなら自動詞、~ヲなら他動詞、両方言えるならば自他動詞。「鞭打つ」は自他動詞。「馬(に・を)鞭打つ」の場合、~ニは「馬に鞭を当てる」、~ヲは「馬を鞭で打つ」といった気持ち。比喩的に使う「老骨」の場合も同様。なお、「老体に鞭打つ」を誤りとする意見もあるが、いかがなものか。

●私の問題点
 非常に乱暴な考え方だとは思わないだろうか。「老骨」を比喩的に使う場合だと言いながら、それは「馬」と全く同じだ、と言うのである。ねえ、この場合の「馬」って、比喩的ですか?
 じゃあ、その「馬」の比喩的な意味って何なのか。
 いえいえ、私はそうは言っておりません、と執筆者は言うのだろう。「馬」の場合と、比喩的な「老骨」の場合が同じだと、そう言っているのです、と。
 それでは、「馬に鞭を当てる」と「馬を鞭で打つ」の違いは何なのか。「といった気持ち」などと言われたって、私には一向に分からない。
 そして辞書の「鞭打つ」には「鞭を当てる」「鞭で打つ」の用例は無い。あるのは「鞭を入れる」「鞭打つ」である。そして「鞭打つ」は比喩的な言い方である。この「鞭で打つ」と「鞭打つ」は違う意味のはずだ。

 「鞭打つ」の比喩的な意味を各辞書で引く。
1 励まして奮いたたせる。「なまけ心に鞭打って仕事をする」(岩波国語辞典)
2 はげます。鞭撻する。(新選国語辞典)
3 自分を励まして、何かをしようと努める。「老骨に鞭打つ」「怠け心に鞭打って」(新明解国語辞典)
4 はげます。ふるいたたせる。鞭撻する。「老骨を鞭打つ」「老骨に鞭打つ」(明鏡国語辞典)

 1と2には「老骨」の用例が無いので、同じ辞書の「老骨」の項目で調べる。
 どちらも「老骨に鞭打つ」で、「老骨を鞭打つ」は無い。

 「老骨を鞭打つ」が用例としてあるのは「明鏡国語辞典」だけである。念のために「大辞泉」と「広辞苑」も見るが、どちらにも「老骨を鞭打つ」は無い。
 「老骨に鞭打つ」は「に」だから比喩的になるのである。「老骨に打つ」などの言い方はしないからだ。本当に打つつもりがあるのなら、「老骨を打つ」とする。だから「老骨に鞭打つ」は比喩的な言い方にしかならない。だから残酷には響かないのである。
 つまり、「老骨を鞭打つ」と言う「明鏡国語辞典」は、「鞭打つ」の意味がまるで分かっていないのである。いや、そうではない。説明はきちんと正しく出来ている。だから「老骨を鞭打つ」が成り立たない事は分かるはずなのに、分かっていない。
 そうなると、同書の説明は一体どのように導き出されて来たのか、と新たな疑問が生まれる。はっきり言うと、この説明は用例から導き出された結果ではない。「老骨を鞭打つ」から、「励ます・鞭撻する」などの意味が出て来たと言うのなら、何とも言語感覚のお粗末な人々だなあと思ってしまう。それが、「老体に鞭打つ」を誤りとするのはいかがなものか、と執筆者が疑問を呈する事に繋がっている。揃いも揃って、お粗末である。

 さてさて、ここでまたしてもおかしな説明が始まっている。
 私は「老体に鞭打つ」などの言い方を今の今までついぞ聞いた事が無い。しかしそれを執筆者は間違いとは言えない、と言う。しかし、「老体」と「老骨」はニュアンスが違うだろう。
 そこで今度は「老骨」をきちんと調べなくてはならなくなる。全く世話の焼ける事だ。簡単に二冊だけにする。
 「新明解国語辞典」には「老骨=年とって力の弱くなった(自分の)からだ」とある。 肝心の「明鏡国語辞典)には「老骨=年老いて衰えた体」とあり、「老人が自らをへりくだっていう語としても使う」とある。
 二冊だけにしたのだが、そうも行かなくなっている。調べた六冊の辞書では、自分とも他人とも言わない説明が二冊、残りの四冊はすべて「へりくだった言い方でもある」との説明がある。
 そう、普通には「老骨」は他人を指さない。他人を指したらまことに無礼千万。それに対して「御老体」は「明鏡」自身「老人の敬称」とある。ほとんどの辞書が「ご老体」の言い方を載せている。つまり、「老体」は他人を指すのである。もっと分かり易く言うなら、「ご老骨」とは言わないし、「老体に鞭打つ」とは言わないのである。何で、そんな事が分からないのだろうか。
 多分、この人は「枯木も山の賑わい」を年寄りの謙遜の言葉ではなく、褒め言葉だと思っているに違いない。そうと思いたくもなるではないか。

 大体が「鞭打つ」は刑罰である。サドやマゾじゃあるまいし、それで喜ぶ人がいるか? それでも、「鞭打つ」は自分にだからこそ言えるのであり、それも比喩的だから通用するのである。他人を鞭打つ、しかもそれが「老体」ときている。そんな励ましがあるもんか。そんな残酷な事があるもんか。
 「老体に鞭打つ」を間違いではない、と言い切る執筆者は、まず第一に「鞭打つ」の意味が分かっていない、第二に「老骨」と「老体」の違いが分かっていない。「老骨=老体」だ、などと考えているのである。
 特にこの「老骨=老体」の考え方は無惨である。単に「老」は共通で「骨」と「体」の違いだけしか無く、その「骨」と「体」は同じ物を指している、と単純に自分勝手に決めつけただけと言う事がまざまざと分かってしまうのである。
 自分達で作っている辞書が、これまた間違っているのだが、その説明さえもきちんと読んでいない。ここまで来れば、もう、言う事無し。これはこれで立派だとさえ言える、と私は思う。

 こうした事は他の人にもある。テレビのクイズ番組では、著名な国語学者が、「叩く」は悪意が無く、「ぶつ」は悪意がある、とわずか二例の小説での用例を挙げて説明した。古い歌だが奥村チヨに「悪い時は、どうぞぶってね」と言う歌詞がある。悪意をもってひっぱたいてくれ、と言っている事になる。それに高座で一席ぶたれたら、怒り狂ってしまう事になりかねない。子供が「先生にぶたれた」と親に言ったら、親は学校に怒鳴り込まなくてはならなくなる。そして「どうか、ぶたないで、叩いて下さい」と言うのか?
 いい加減な事をもっともらしく言う人はたくさん居る。