おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

採用まであと少しですね。

2021-01-21 10:51:00 | Weblog
最近、考えがまとまらないことが、多くなってきました。

多分歳のせいだと思います。(笑)だらだらとおもいつくまま書いてみます。

法律で縛られることの不条理さは、自分が公務員を経験したとのでなければ理解できないと思います。

総論は「実施」で、各論は「不実施」なんてことはよくあることで、「国民の税金を使うのだから、勝手なことはできない。」のです。

国民全体の「奉仕者」という意識はあるのに「職務は個別の人たちへ対応」、当然リスクのある取り組みや対応は許されず不測の事態が起こった時は、後からの責任問題や管理責任が現場職員の頭をよぎるわけですよね。

政治家も公務員、結局は票を集めるパフォーマだという意識が芽生えてくるわけです。

でも、自分は無党派だというおもいが、いつまでも安全地帯な身をおく傍観者にしているのではという後ろめたさを感じる時もあったかな。

目の前の自分のクラスでは、大人たちの知らない間に「カースト」という言葉が当たり前すぎて、そのなかで、どう生き延びるかが日常化した子どももたちの耳を「建前の理想」を熱く僕の声が通りすぎるのではという不安もあったかな。

あなたがそんな目の前の子どもたちのありのままの経験を認め、受け入れようとするなら、先生という仕事は過酷かもしれないね。

子どもたちはあなたとの出会いで変わるということを信じられるかどうか、だけなんだよ。

目の前の「いじめ」という現象に、それはおかしいと、一言言える勇気、「不条理」な現象に、それはおかしいとひとこと言える勇気は「子どものころから形成される」としたら、それがあなたの仕事なのかもしれませんね。

スピード違反の取り締まりは、生命を守るために行うとのだという認識より、罰金があるから守るという認識を生み、感知器という産業を生み出し、あおり運転という心の動きが厳罰の法律を作ったのかな。

「自分で守ること」は「自分で決める」という経験が、「地域のコミュニティ」から逃げ出した大人たちには理解しにくいのかも。

「地域のコミュニティ」というリアルの空間が消えつつある時に起こったコロナ禍、大きな意識の変化が起こるのはまちがいないが、そのベクトルがどこを目指すのか。

情報の洪水やマスコミの誘導に惑わされない子どもを生み出すことができるかどうかにかかっているように思うのですが。

負けるな先生。
コメント
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