おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

廊下に「サツマイモの花」が咲いていました。

2013-11-11 19:47:50 | Weblog

廊下に「サツマイモの花」が咲いていました。

知っていそうで知らないことってたくさんあるんですよね。

懇談会のなかで、「あたり」とか「はずれ」とかいう言葉が出るのですか。。
「あたり」「はずれ」という言葉が気になるんですよね。

あまり、良い意味で使われているとは
思っていないのですが、
あなたたちは、これからたびたび、
聞くことがあるかもしれませんので、
少し考えてみます。

籤の結果により
賞品や賞金を得ることができる「あたり籤」と
何も得ることのない「はずれ籤」が
語源のように思うのですが、
「人」に対する隠語として使われる場合があるようです。

子どもや保護者が使う場合は、
使う人にとってですが「良い先生」、
「悪い先生」という意味で使われていたり、

同僚の先生に対しては、
これも使う人にとってですが、
「同じ学年の担任として助けてくれる先生」
「助けてくれない先生」というふうに使われているようです。

そうしたものの基準は
すべてそうした言葉を使う人の
個人的・主観的な価値で判断されているわけですから、
本当は気にしなくても大丈夫なのに、
そんなことばに敏感なあなたたちにとっては
とてもつらい言葉になっているようです。

まわりに迷惑をいっぱいかけていても愛される人はいるし、
きちんとルールを守り厳格に生きていても、
煙たがられる人もいますよね。

こうしたことを不条理と感じる感性が
あるかないかで、幸不幸が決まるものなのかもしれませんね。

でも案外、鈍感力って大切なのかもしれないって
思うときがありました。

さて、あなたが言うように
風評というものは、学校にも起こりうるものだし、
そうしたことは管理職にもわからないで
「学校にとって役に立つ先生」
「役に立たない先生」というふうに使う場合も
あるかもしれないと思うのですが、

結局は
「子どもとの信頼関係を自分の学級で、
築きあげていくか」が、
まず大切なんじゃないでしょうか。

そうしたことの積み上げでしか
「あたりやはずれ」という
曖昧な価値に一喜一憂しているという状況から
抜け出ることができないのではないですか。

高学年最初の懇談会で
平然と保護者に
「すみません。○○です。
皆さんもご存じのように、
はずれです。1年我慢してください」などと
言い放ったというような
豪快な武勇伝を語る先輩もいましたが、
眉唾だと思います。

以外とそんな先輩にかぎって
繊細で、子どもや親との対応に
とことんすべてをなげうつタイプだったり
しますよね。

問題は個人に帰すべき要素と
職場なりの環境における人的要素との関係性(笑)に
帰着するんだろうな。

自分自身を見る周りの人の人間性と
自分自身の振る舞いとの関係性かな(笑)

どうすれば子どもや保護者との
信頼関係を作ることができるかって??

それがわかれば
「先生という仕事の半分くらいの苦労がなくなる」
と思います。

もし、僕の経験から勝手な想像をするのなら
3つぐらいの要素があるように思います。

「いつでも、子どもが好きで子どものために努力を惜しまない人」
「すてきな仲間を学校以外に持ち続けている人」
「先生として何かを残したいという夢(野心?)を見続けている人」かな。

たった3つなのに
僕にはできなかったなかなっていうのが実感ですが(笑)
まっ 先生たちにも
知っていそうで知らないことってたくさんあるんですよね。
コメント
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