nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

入管に組織的に虚偽申請か 在留資格で代行グループ

2018年12月29日 | 反日・売国団体・企業

 東京を拠点に外国人の在留資格習得の申請代行業を全国展開する『Asia Group』が、入国管理局に組織的に虚偽の申請などを繰り返していた疑いがあることが12月28日、関係者への取材で分かった複数のOBらが、外国人が実際に従事する業務内容を偽るなどしていたと証言。内部関係者は今月、警視庁などに入管難民法違反容疑でグループを告発する文書を出している。

 行政書士資格のない職員が中心となって申請書類を作成していたとの内部証言もあり、東京都行政書士会も調査中。(ソース:共同通信)

コメント

●マスゴミは報道しないなあ❕ スルーか

 マスゴミ=極左=反日=暴力団

本社

〒101-0041 東京都千代田区神田須田町1丁目26タイムビル6F

☎03-6206-8178

http://www.asia-now.net/jp/company

『Asia Group』は、在留資格習得の申請代行業を全国展開している。全て虚偽とは❕ 

👉不法就労助長罪業務永久停止だな

巨額の罰金もだな

不法滞在者不法就労者が多いわけだ

 


松江城

2018年12月22日 | 島根県の城郭・環濠

 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦で、徳川家康率いる東軍に味方した堀尾吉晴・忠氏父子は論功行賞の結果、出雲・隠岐2か国24万石を領地として与えられた。父子は同年11月、出雲の月山富田城に移ったが、山城なので家臣団を収容する城下町を作るには、土地が狭すぎ、交通の便も悪いため、宍道湖北東端に位置する亀田山に新しく城を築くことを決めた。

 城は、慶長12年(1607年)から5年の歳月をかけ慶長16年(1611年)に完成させた平山城です。新たな城と城下町は『松江』の名で呼ばれるようになった。以来、堀尾氏、寛永11年(1634年)からは京極氏、寛永15年(1638年)から明治4年(1871年)まで松平氏の居城であった。

 明治8年(1875年)に天守を残して建物が解体されたが、平成13年(2001年)には、南櫓、中櫓、太鼓櫓が復元され、平成27年(2015年)7月に天守は国宝に指定されました。

[所在地:島根県松江市殿町1-5]

<アクセス>JR山陰本線・松江駅下車、徒歩約20分

松江城の概要

松江城の概略図

堀尾吉晴の銅像      ▼大手口

馬溜           ▼太鼓櫓

二の丸下の段       ▼太鼓櫓(城内側)

二の丸上の段       ▼一の門

松江城天守閣国宝

 天守の壁面は全面板張りか下見板張り、軒裏は黒塗と黒の天守でした。外観は4重、内部構造は5階、地下1階の構造で入り口に附櫓を設けた複合式望楼型である。

 明治の廃城令で、城のすべての建物を売却で取り壊されるとき、松江城の天守の建物だけは残そうと、旧松江藩士高城権八や豪農勝部本右衛門親子らの奔走があったから取り壊しを免れたのである。

矢狭間          ▼鉄砲狭間

石落とし         ▼国宝指定書

天守閣からの眺め

裏側から見た天守閣 [国宝]

2018/12/06 訪城


月山富田城

2018年12月19日 | 島根県の城郭・環濠

 月山 富田城は、急峻な山である月山を中心とし、周囲の丘陵上にも曲輪や石垣、堀切、土塁などの防御施設を配した大規模な城郭です。

 12世紀の後半、源頼朝が出雲守護として佐々木義清を任命したこととされますが、尼子家三代の戦国武将によって月山富田城は最盛期を迎え、江戸時代の初期まで月山富田城は多くの変遷を繰り返しました。尼子氏は大内氏、陶氏、毛利氏との戦を繰り返しながら、因幡、石見、備後など11カ国にも及ぶ広大な領地を拡大しました。

 しかし、永禄8年(1565年)、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半ものあいだ月山富田城に立て籠っていたにもかかわらず、永禄9年(1566年)、月山富田城は毛利氏の手に渡ってしまいます。慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで徳川家康に敗れた毛利氏は月山富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉晴が出雲富田24万石の大名となって月山富田城に入りました。しかし山奥にある富田が出雲支配に不便なことから、堀尾氏は城を現在の松江城に移してしまいます。難攻不落と言われ、数々の武勇を生んだ名城月山富田城は、その後二度と城として使われることはありませんでした。慶長16年(1611年)堀尾吉晴の死去により、孫の堀尾忠晴が跡を継ぐ。堀尾忠晴が松江城へ本城を移し、廃城となりました。昭和9年(1934年)には、その歴史的価値が認められ、国の史跡に指定されました。

【所在地:島根県安来市広瀬町】

<アクセス>JR山陰本線・安来駅よりバスで約25分。

月山富田城の概要

月山富田城縄張図

山中御殿……菅谷口、塩谷口、御子守口といった主要城内道が合流する、城の中心的曲輪。

雑用井戸         ▼管谷口の虎口

親子観音         ▼七曲り……山中御殿から山頂への軍用道

矢吹井戸

三の丸

二の丸

本丸           ▼山中鹿介幸盛記念碑

勝日高守神社 

土塁           ▼堀切 

山中介鹿幸盛の説明 

山中介鹿幸盛銅像 

 第2次月山富田城の戦い後、尼子再興を誓った山中介鹿幸盛は『我に七難八苦を与えたまえ』と三日月に祈ったという。

本丸からの眺め

復元月山富田城

2018/12/06 訪城

月山富田(がっさんとだ)城の戦 永禄9年(1566年)

 山陽の雄毛利氏が中国の覇権を争う。毛利元就27000騎で尼子義久12000騎が守る城を包囲する。包囲戦の末、尼子氏降伏。毛利元就、尼子義久ら尼子一族を助命、寛大な処置を遇する。

布部山(ふべやま)の戦 元亀元年(1570年)

 尼子氏の旧臣・尼子勝久・遺臣・山中介鹿幸盛(鹿之助)が主家再興のため隠岐で挙兵し、出雲新山城に拠って月山富田城を攻撃。毛利輝元25000騎で救援。月山富田城の守兵の奮戦と毛利輝元の援軍の奮闘で勝利。


米子城

2018年12月16日 | 鳥取県の城郭・環濠

 米子城は、伯耆国守護山名教之の配下、山名宗之によって応仁年間から文明年間(1467年~1487年)に中海に面した標高約90mほどの湊山山麓に築かれた平山城である。石垣を備えた本格的な城は、戦国時代末期の天正19年(1591年)に西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦い後、吉川広家が岩国に転付となった。代わって駿河より中村一忠が17万5000石で米子城に入城し、米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長7年(1602年)頃に完成しました。

 中海に張り出した標高約90mの湊山の頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳、東の標高約59mの飯山を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手廓を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の小天守閣(四重櫓)を持つ壮麗な城でした。

 その後、城主は加藤貞泰、池田由之、池田由成と城主が頻繁に入れ替わる。池田光仲が寛永9年(1632年)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩主席家老職の荒尾成利と代わり、以後荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治6年(1873年)の廃城令で、天守閣を始めとする建物類は売却され、取り壊された。平成18年(2006年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定された。現在、天守台ほか石垣が大規模に残る。」

【所在地:鳥取県米子市久米町】

<アクセス>JR山陰本線・米子駅から徒歩15分。

米子城の概要

二の丸表門        ▼二の丸虎口枡形と石垣

 

石段を登る

本丸の石垣

 左の小天守台は吉川氏が天守として創建し、右の大天守は中村氏が増築したものである。

小天守台の石垣      大天守台の石垣

石段を登る        ▼本丸跡

本丸跡

本丸からの眺め

小天守台(四重櫓台)    ▼鉄門跡

復元の米子城

2018/12/05 訪城


『大和堆』 北朝鮮の違法操業が収束、 513隻に放水

2018年12月16日 | 違法操業

 海上保安庁は12月14日、今年5月から日本海の排他的経済水域(EEZ)の好魚場『大和(やまと)堆(たい)』周辺で続いていた北朝鮮漁船による違法操業が収束したとみられると発表した。

 同庁によると、今年5月以降に退去警告を行った北朝鮮漁船1624隻。うち警告に従わなかった513隻には放水を実施した。ただ、11月以降は周辺海域からほぼ姿を消し、警告は、今月2日、放水は11月27日を最後に行われていない。

 一方で、11月以降に増加している北朝鮮籍とみられる木造船の漂流・漂着は今後も続く可能性があり、同庁は警戒を続ける。(ソース:読売新聞)

コメント

海上保安庁さん、ご苦労様。

日本政府 考えろ❕  他国なら👉撃沈だ❕❕

 放水は生ぬるい。撃沈すべき❕❕


[関西生コン⑤] 『関西生コン業界のドン』出荷妨害の罪で起訴

2018年12月12日 | 関西生コン(反日・極左・売国団体)

 関西生コンクリート業界の労働組合のトップらがセメントの出荷を妨害した罪で起訴されました。

 威力業務妨害の罪で起訴されたのは、労働組合連帯ユニオン関西地区生コン支部の執行委員長の武健一被告(76)、元副執行委員長の柳充被告(55)と執行委員の西山直洋被告(51)の3人です。

 3人は去年、大阪市の工場の前でセメントを積んだ運送会社の車の前に立ちはだかるなどして出荷を妨げた罪に問われています。

(ソース:関西テレビ)

コメント

関西生コンを報じたのは、産経、関西テレビ、夕刊フジなど一部のマスコミ。

 在京キー局は、報道無し

 全国紙も報道無し

 共同通信も報道無し

 👉マスゴミ関西生コン関係あるんだ❕❕

         マスゴミ=反日・極左・売国組織

 『関西生コンは、共産党に破門された労働組合。超極左のヤクザ組合。

辻元清美コメントは?


鳥取城

2018年12月11日 | 鳥取県の城郭・環濠

 天文年間(1532~1555年)に守護大名山名氏の一族の争いの過程で名山として知られた標高263mの久松山山頂に築かれた鳥取城は、はじめは因幡山名氏の守護所の出城でしたが、天正元年(1573年)、山名豊国は本拠地を湖山池東岸の天神山城より移転し、以後、鳥取城は因幡国(鳥取県東部)の拠点となりました。やがて、毛利氏の傘下となり、天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴(のちの豊臣)秀吉との間で壮絶な龍城戦が繰り広げられました。兵糧攻めの後、新たな城主になったのは、豊臣秀吉の側近として活躍した宮部継潤でした。彼は、鳥取城に石垣や天守を築き、城の姿を一新しました。息子の宮部長房は、慶長5年(1600年)の関ケ原合戦で西軍に与したため、鳥取城は、東軍の鹿野城(鳥取市鹿野町)主、亀井玆矩や竹田城(兵庫県朝来市)主、赤松広秀(斎村政広)などの攻撃を受け、徹底抗戦の末に開錠しました。

 関ケ原戦後には、池田長吉が入ります。池田長吉は姫路城を築いた池田輝政の弟で、鳥取城は姫路城とともに、西国の豊臣系大名の抑えを担いました。しかし。元和元年(1615年)、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると池田家は転機を迎えます。元和3年(1617年)、姫路城主池田光政は所領減封の上、因幡伯耆32万石の領主として鳥取へ転封となり、現在の鳥取県域とはぼ同じ鳥取藩が誕生しました。

 鳥取城は宮部時代から5~6万石規模の大名の居城に過ぎなかったため、池田光政は山麓に32万石の政庁として整備しました。寛永9年(1632年)、岡山城主池田忠雄の死去に伴い、3歳の池田光仲が家督を継ぐと、幕府は従兄弟・池田光政との国替えを命じました。以後、鳥取城は池田光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となり、国内有数の大藩の政庁として存続して明治維新を迎えた。

 明治3年(1870年)の廃城令では存続が決まり、陸軍省所管となるが、明治12年(1879年)には建物が取り壊された。昭和32年(1957年)の国史跡指定を機に石垣を中心とした復元整備が行われている。

[所在地:鳥取県鳥取市東町]

<アクセス>JR山陰本線・鳥取駅からバス。

鳥取城を遠望

              ▼内堀

山麓から見た三階櫓台

表御門跡         ▼二の丸

天球丸跡の概要

天球丸          ▼巻石垣(天球丸の石垣)

三階櫓台

                    二の丸の石垣

復元の鳥取城・山頂の山城(山上の丸)

復元の鳥取城・山麓の近世城郭(山下の丸)

 2018/12/05 訪問

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鳥取城の戦  天正9年(1581年)

 織田方の中国侵攻に対して毛利方が防衛。城方の毛利(吉川経家)が3000騎で龍城に対し、織田(羽柴秀吉)が20000騎で大包囲による兵糧攻め。5ケ月後餓死状態で降伏。吉川経家自刃。


丹波・亀山城

2018年12月09日 | 京都府の城郭・環濠

 丹波・亀山城は、現在、宗教法人・大本の境内地となっています。歴史は古く天正3年(1575年)、織田信長から丹波攻略を命じられた明智光秀が、中世の砦跡を拡張して築城した平山城です。丹波を平定したものの、ここから兵を進めた天正10年(1582年)の『本能寺の変』はあまりにも有名です。

 明智光秀以後の城主は、羽柴秀勝・豊臣秀俊(後の小早川秀秋)など。江戸時代に入ってからは岡部長盛が城主となり、慶長15年(1610年)、徳川家康が命じた『天下普請』で普請に参加した外様大名・藤堂高虎による五重五階の層塔型天守・本丸・二の丸・三の丸を備えた近世城郭と城下町が整備されます。その後は、京都に隣接する山陰道の要衝として栄えました。

 明治維新で亀山藩は亀山県になり、明治11年(1878年)の廃城令で、丹波・亀山城は取り壊されます。建物の一部は寺院の山門などと再利用、石垣は京都鉄道(現、トロッコ列車)の鉄道工事用石材として大量に転用されたといいます。

 大正8年(1919年)、転売を経て荒廃した土地を大本が購入、石垣を積直し神苑として整備、『大道場』を開設しました。大正と昭和の大本弾圧事件で、敷地を没収され廃墟と化しますが、大東亜戦争後に返還され今に至っています。現在、天守台や石垣・内堀などが残る。[受付申し込みで、城址の一部が見学できます

【所在地:京都市亀岡市荒塚町内丸】

<アクセス>JR嵯峨野線・亀岡駅から徒歩10分

亀山城の縄張図

外側の堀

万祥殿東側の石垣

本丸南東隅の石垣

 

復元丹波・亀山城

2018/10/31 訪城

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本能寺の変  天正10年(1582年6月2日未明)

 当時、四国の長宗我部攻めのために摂津に集結していた織田信長の三男・織田信孝の軍団を除いて、織田軍団の有力部隊はいずれも近畿にはおらず、京都の織田信長父子は極めて無防備な状態であった。

 明智光秀は6月1日夜、近江・坂本城と並ぶ本城の一つ、丹波・亀山城を13000騎の軍勢で出陣。途中、老ノ坂を超えた香掛で食糧を使い、香掛から南へ行けば西国街道へ出るが、明智光秀は進路を東へ、すなわち京都へととった。織田信長に中国出陣の軍装を見せるためと偽り、桂川西岸で全軍が軍装を整えた際、はじめて『敵は本能寺にあり』との号令を発したという。午前2時に本能寺攻撃命令、午前4時本能寺襲撃命令を発したのである。

 本能寺の織田信長周辺には小姓衆を中心に100騎の供衆しかおらず、明智の大軍に襲撃された織田信長は、自身も武器を取って戦ったのち、寺に火を放って自刃した。異変を知った織田信忠も、宿所の妙覚寺を出て誠仁親王の二条城に入り、これもわずかな供回りと奮戦したのち自刃した。


大給城

2018年12月08日 | 愛知県の城郭・環濠

 大給城は、西方眼下に九久平の集落を見下ろす標高204mの急峻な山上に築かれている。九久平は足助街道と新城街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。

 城の東西には、屋根づたいに攻めてくる敵の侵入を防ぐために、堀切A・Bを設けている。東側からの進入路を通ると、門や櫓などで防御され虎口(入口)Cを抜け、曲輪2を経て主郭1へと至る。城内のいたるところには花崗岩の巨石がみられ、主要な部分は石垣で固められている。Fは物見岩と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を望むことができる。岩上には一辺数センチメートルの穴が並んでいるが、いつ何のために開かれたかは不明である。D・Eは石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。主郭1から南に下ったところにある3は城主の館跡と考えられる。

 本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四代)に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が大給松平の初代となった。大給松平二代乗正は永久7年(1510年)までに城の大修築を行った。以後、乗勝、親乗、真乗、と続き、天正18年(1590年)六代家乗のとき徳川家康の関東への国替えに伴って上野国(現 群馬県)に移り大給城は廃城となった。現在、大給城址(松平氏遺跡)は、国指定史跡となっています。

[所在地:愛知県豊田市大内町]

<アクセス>名鉄豊田市駅からタクシーで約25分。

大給城の縄張り図

              ▼道路から山の中に入る

松平乗元(大給松平初代)の概要

松平乗元(大給松平初代)の墓

              ▼虎口

櫓台           ▼土塁

大給城址碑        ▼物見岩(F)からの眺め

水の手曲輪

2018.09.01 訪城


[在日犯罪] 入管法違反容疑で8人逮捕 北海道警察

2018年12月04日 | 在日犯罪ニュース

 外国人に資格外の単純労働

 北海道警察は12月3日までに、専門職を対象とした在留資格を持つベトナム人3人に、資格外の単純労働をさせたとして、入管難民違反容疑で、仙台市の建設会社代表や暴力団など男女8人を逮捕した。

 同法違反の不法就労助長の疑いで逮捕されたのは、仙台市の建設会社代表で韓国籍、李智博容疑者(45)。不法就労斡旋の疑いで逮捕されたのは、札幌市の指定暴力団山口組組員、清水徳行容疑者(49)や東京都中央区の会社社長、デギアコシノ美弥容疑者(37)ら男女7人。(ソース:共同通信)

コメント

●韓国籍=犯罪者  世界の常識

●外国人を不正に奴隷労働させているのは、在日朝鮮人

●在日朝鮮人=密航者不法入国者=暴力団

 全財産没収の上、強制送還しろ❕❕

日本の刑務所の犯罪者の98%が、外国人と帰化人だぞ❕❕


『名物社長』 過去にも摘発 暴力団とのつながり表面化 スーパー玉出創業者逮捕 大阪

2018年12月04日 | 反日・売国団体・企業

 

 赤や黄色の看板に派手なネオン。『日本一安売王』のキャッチコピーで、今や大阪名物といえる知名度を誇る『スーパー玉出(たまで)の創業者に、暴力団幹部側から犯罪収益を受け取っていた疑いが浮上した。大阪府警が12月3日、組織犯罪処罰法違反容疑で逮捕した『株式会社スーパー玉出』社長、前田託次(たくじ)容疑者(74)。自らもCMやバラエティー番組に出演し、『スーパー玉出』をPRしてきたが、過去には警察に摘発され、暴力団とのつながりが表面化したことも。今年7月には、長年育ててきたスーパー事業を売却していた。

 大阪西成区の歓楽街・飛田(とびた)新地にある『銀河』。現在は閉店しているが、以前は山口組系暴力団幹部の内妻を実質経営者として、売春が繰り返されていた。この店舗の土地と建物の所有者が、前田容疑者が社長を務める『株式会社スーパー玉出』だった。

 前田容疑者が、同じ西成区内にスーパー玉出の1号店をオープンしたのは昭和53年。派手な外観に加え、日替わりで食料品や日用品を1円で販売する『1円セール』などの激安戦略、経営不振のスーパーの買収などで店舗数を拡大した。

 自身も黄色のスーツを身にまとってCMなどに出演。バラエティー番組で、事務所内に保管している多額の現金を披露したこともあり、個性的な名物社長として知られるようになった。

 その一方で、同社をめぐっては、過去に捜査当局に摘発されるなどし、コンプライアンス(法令順守)意識の欠如も指摘されてきた。

 平成10年には、在留資格のないフイリピン人らを不法就労させたとして、大阪府警が入管難民法違反(不法就労助長)の疑いで前田容疑者が逮捕。当時の捜査では、事務所から暴力団の『代紋』が入った灰皿などが見つかった。

 平成28年には、中国籍やベトナム籍の留学生らを法定の上限を超えて働かせるなどとして、大阪府警が同容疑で前田容疑者ら3人と法人としての同社を書類送検。前田容疑者は不起訴になったが、大阪簡易裁判所が同社に罰金100万円、同社幹部に罰金70万円を言い渡した。

 言い渡し後には、裁判官から『大阪を代表する会社と自覚してほしい。法令順守に努め、会社が発展することを祈っている』などと説論される一幕もあった。

 民間の信用調査会社によると、同社の売上高は平成25年2月期の約445億円から、今年2月期には約360億円まで減少。前田容疑者がトップを兼ねる『玉出ホールディングス』は7月にスーパー事業を売却した。現在も屋号はそのままだが、運営している会社は資本関係のない別会社だ。

 (ソース:産経デジタル他)

[コメント]

●玉出スーパーは、納品業者からヤクザのフロントだといううわさが絶えなかった。

●表はスーパー、裏ではヤクザ、不動産、金融か❕

●また、物社長が逮捕か❕

大阪万博対策か




不法労働か 中国人11人逮捕 46人が行方不明に  北海道

2018年12月03日 | 入管難民法違反(不法残留・旅券不携帯)

    残留期間を過ぎて滞在していたなどとして、北海道の木古内町に住む中国人の男女11人が、入管難民法違反の疑いで逮捕された。

 彼らが働いていた現場では、このほかに46人の行方がわからなくなっている。

 逮捕されたのは、王春月容疑者(62歳)ら、中国人男女11人。

 11月26日午前3時ごろ、北海道のJR木古内駅前のバス停付近にいた不審な中国人グループを警察官が発見し事情を聴いたところ、パスポートの不携帯や、在留期間を過ぎて滞在していたことがわかり、その場で逮捕された。

 11人は、いずれも15日間の短期滞在ビザやクルーズ船による観光目的の一時上陸として入国し、北海道木古内町のアパートなどで暮らし、このうち10人は、隣町の知内町で太陽光発電の工事現場の作業員として働いていた。

 関係者によると、この現場では、このほかに46人の行方がわからなくなっていて、警察は、不法就労を手引きした組織があるとみて、調べを進めている。

(ソース:北海道文化放送・北海道NHK)

コメント

●不法就労者をかくまっている違法業者(経済ヤクザ)逮捕しろ❕

●こんな奴らを雇う違法土建屋(経済ヤクザ)厳罰と企業名の公表を❕

不法就労の手引き業者(経済ヤクザ)公表と巨額の罰金

●不法就労者を雇っていた企業(経済ヤクザ)が費用全額負担して責任もって中国へ送り届けよ❕  👉強制送還・・・・・