nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

岩村城

2019年10月12日 | 岐阜県の城郭・環濠

 岩村城は、源頼朝の重臣加藤景廉が美濃恵那郡遠山荘の地頭に任じられ、文治元年(1185年)、標高717mの城山一帯に築城された山城です。山頂に本丸が築かれ、二の丸、八幡曲輪、出丸などが階段状に配置された。加藤氏は、加藤景廉の嫡男景朝から遠山氏を名乗った。

 室町・戦国時代には、美濃遠山七家の岩村遠山氏の本拠となっていた。織田氏と武田氏の東美濃をめぐる抗争の場となり天正3年(1575年)、遠山氏が滅亡し、その後、城主は川尻秀隆、団忠正、森長吉、森忠政、田丸直昌とめまぐるしく代わり、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦後、松平(お給)家乗が岩村城に入った。戦国時代、屈指の山城であった岩村城でしたが、江戸時代になると山上に住む理由がなくなり、慶長6年(1601年)に松平家乗は山麓に居館を造り、城下町も整備した。

 明治6年(1873年)、廃城令により岩村城は解体されたが、平成2年(1990年)、山麓の居館跡に藩主邸の一部と表御門、平重門、太鼓櫓などが復元された。

 [所在地:岐阜県恵那市岩村町岩村]

<アクセス>明智鉄道岩村駅から徒歩40分。

JR名古屋駅中央本線(約60分)JR恵那駅明智鉄道・恵那駅飯羽間駅極楽駅岩村駅

岩村城の概要

岩村城略図

藩主邸          ▼太鼓櫓

岩村城登山口       下田歌子先生の生誕地

下田歌子の概説

 下田歌子先生は、日本の女子教育の先駆者であり、実践女子大学の創設者です。

登城坂の登っていく

霧ヶ井

六段壁

 上段の石垣を補強する目的で下段に石垣が築かれた。

長局埋門

昇竜の井戸(本丸)     ▼本丸

本丸

本丸からの眺め

出丸           ▼南曲輪

2019/10/06訪城


美濃金山城

2019年06月08日 | 岐阜県の城郭・環濠

 天文6年(1537年)に美濃の守護代一族である斎藤妙春が、標高276mの古城山の山頂に鳥峰城(うほうじょう)という名で築城したと伝えられ、斎藤妙春が天文17年(1548年)に謀殺されると、長井道利が城主となったが、織田信長の美濃攻略の過程で永禄8年(1565年)織田信長の家臣の森可成が城主となって金山城と改称した。以後は森長可、森蘭丸、森忠政に継がれ、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦の後、森忠政が川中島へ転封となり、金山城は犬山城主石川光吉の預かりとなり、翌年建物は解体されて犬山城の改修に使われた。美濃金山城は慶長6年(1601年)に壊されましたが、その時のままで残っているので、城の壊され方がわかります。平成25年(2013年に国の史跡に指定されました。 

【所在地:岐阜県可児市兼山】

アクセス>名古屋鉄道・広見線『明智駅』からYAOバスで『城戸坂バス停』下車、南へ徒歩約15分。

美濃金山城の縄張り図

美濃金山城の出丸の概説

              出丸の石垣

出丸

 美濃金山城の第一戦の防御ために大手口に築かれた防御施設で、規模は東西55m南北33m。

木の階段を上って行く

三の丸の門跡       ▼三の丸

二の丸

南腰曲輪         ▼天守台西南隅石

東腰曲輪

本丸の石垣        ▼本丸枡形虎口

本丸

本丸からの眺め

2019/06/06訪城


郡上八幡城

2019年04月20日 | 岐阜県の城郭・環濠

  天文10年(1541年)、篠脇城主東常慶(とうつねよし)が吉田川の南側に赤谷山城を築き、嫡男東常堯(とうつねたか)を城主とした。そして永禄2年(1559年)、東氏の一族の遠藤盛数が、赤谷山城攻めの拠点として対岸の八幡山に築いた砦が、郡上八幡城の前身です。

 東氏を滅ぼした遠藤盛数は砦跡に城を築き、嫡男遠藤慶隆が継いだ。永禄9年(1556年)、郡上を統一した遠藤慶隆は、郡上八幡城や城下町の建設を行う傍ら、織田信長の配下として、各地を転戦し戦功をあげた。本能寺の変後の天正12年(1584年)小牧・長久手の戦の際、遠藤慶隆が織田信雄に通じていた疑いで豊臣秀吉によって賀茂郡小原(岐阜県加茂郡白川町)に転封となり、代わって稲葉一鉄の子稲葉貞通が4万石で入城し、高い石垣の整備や天守の設置など本格的な山城として大改修を行った。

 慶長5年(1600年)、郡上八幡城の戦の後、遠藤慶隆は関ケ原の戦で徳川家康の東軍に参加し、再度郡上八幡城主として2万7千石に封じられた。稲葉貞通は豊後国(大分県)臼杵へ5万石で転封となった。

 江戸時代には遠藤氏5代、井上氏2代、金森氏2代を経て、青山氏が7代治めた。明治4年(1871年)の廃城令で城は石垣を残して全て取り壊されたが、昭和8年(1933年)、郡上八幡城天守台跡に木造模擬の天守閣、隅櫓、高塀が再建された。そして昭和30年(1955年)8月に岐阜県史跡に指定された。

[所在地:岐阜県郡上市八幡町柳町一の平659]

アクセス>長良川鉄道郡上八幡駅からバス、城下町プラザ下車徒歩約15分

郡上八幡城遠望

郡上八幡城の略図

郡上八幡城の概要

山内一豊と妻千代の像   ▼城下より望む天守閣

 千代は郡上八幡城主遠藤盛数の娘である。

首洗い井戸

天守閣(左)と隅櫓(右)    ▼大手門

模擬天守閣

 大垣城天守閣を模して昭和8年(1933年)に木造で築造された。

模擬天守閣

天守閣からの眺め            

2019/04/13訪城


苗木城

2019年04月18日 | 岐阜県の城郭・環濠

    鎌倉時代に加藤景廉が美濃国恵那郡に地頭職を与えられて美濃遠山荘に土着して遠山氏を名乗った。以来、東美濃で発展し、俗に『遠山七家』と呼ばれるようになる。苗木の遠山氏は、『遠山七家』の一つであり、大永6年(1526年)、木曽川の流れに突き出した高さ約426mの天然の要害の高森山に苗木城を築きました。その後、織田信長と武田信玄が対立する時代、遠山氏は双方と縁戚関係を結びます。

 しかし、天正10年(1582年)、本能寺の変によって、遠山氏の立場は不安定なものになってしまう。遠山氏は豊臣秀吉の家臣森長可に苗木城を攻め落とされ、徳川家康を頼って落ち延びます。慶長5年(1600年)9月、関ケ原の戦の前に徳川家康の指示で苗木城を奪還し、苗木領1万521石の大名となります。

 それから明治維新まで、遠山氏は苗木城主として初代遠山友政から12代遠山友禄にわたりこの地を治めました。だが、小藩ゆえに常に財政は困窮していて、苗木城の壁は赤土がむき出しになっていたので、『赤壁城』の異名を持つが、これは白漆喰を塗る費用がなかったためである。昭和56年(1981年)、戦国時代の面影をとどめている近世城郭であり、貴重であるとして苗木城が国の史跡に指定されました。

【所在地:岐阜県中津川市苗木】

アクセス>JR中央本線・中津川市駅徒歩約3.5Km(約1時間)

中腹より本丸方向を望む

苗木城のイラスト図

大矢倉          ▼二の丸

 

本丸の石垣        ▼本丸の石垣

苗木城天守の概要

天守台          ▼帯郭

天守台からの眺め            

2019/04/13 訪城


松尾山城

2018年09月16日 | 岐阜県の城郭・環濠

  美濃と近江との境目の城として、応永年間に(1394年~1428年)に子守護富島氏が城を築いた。これが長亭軒の城で、長亭軒は松尾山のことである。永禄12年(1569年)、この地域は織田信長によって制圧されたので城も織田信長に帰属した。元亀元年(1570年)、浅井長政が城を修復して樋口直房を入れ置いた。その後、織田信長が浅井長政を討伐後、不破光治が入れ置かれたが、天正4年(1576年)、織田信長の近江平定により廃城となった。

 慶長5年(1600年)8月、西軍の総大将・毛利輝元を入れるために、松尾山の山頂には土塁囲いの本丸が構えられ、南側には土塁によって築かれた内枡形虎口が開き、その前面には馬出状の曲輪が構えられ、本丸から東方に延びる2本の尾根筋には、折れて設けて横矢のかかる土塁によって囲い込んだ曲輪が階段状に配置された新城を築かせ、伊藤長門を入れ置いた。

 慶長5年(1600年)年9月14日小早川秀秋が15000騎の兵を率いて松尾山の新城に入り、その城主伊藤長門を追い払う。松尾山城は、単なる陣所ではなく、合戦を想定して綿密に築かれた山城である。標高約293mの松尾山からは、関ケ原が一望できる。

【所在地】岐阜県不破郡関ケ原町松尾

<アクセス>JR関ケ原駅~松尾山城登山口駐車場まで徒歩約30分。

      松尾山城登山口駐車場~松尾山山頂(松尾山城址)まで徒歩約40分。

 ▼松尾山登山口駐車場(無料) 

 登山道は、東海自然歩道として整備されています。

松尾山山頂(松尾山城址)  ▼小早川秀秋陣跡 

小早川秀秋陣跡の概要

松尾山城縄張り図 

 松尾山城登山口駐車場から登山道を登り①主郭(松尾山山頂)に来る。

松尾山城縄張り図(現状)

松尾山城(長亭軒)史

主郭(本丸)   主郭(本丸)は、約20m×約40m

 2018/09/15 訪城

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関ケ原の戦  慶長5年(1600年)

  9月15日、美濃・関ケ原で、東軍・徳川家康(7万4000騎)と西軍・毛利輝元(石田三成)(8万4000騎)が、天下を二分する戦をする。西軍の敗色が濃厚となった正午ごろ、1万5000騎の小早川隊が松尾山を下り、東軍に寝返り、大谷隊に攻めかかり大谷隊壊滅。その後、小西隊・宇喜多隊が崩れ、最後まで抵抗していた石田隊も敗走しはじめた。それまで戦に加わっていなかった島津義弘隊が正面敵中突破をはかって戦線離脱したのはそのあとである。西軍が敗北


岐阜城

2015年03月03日 | 岐阜県の城郭・環濠

 岐阜城は、建仁元年(1201年)、二階堂行政が標高329mの金華山山頂に山城を築いた。当初は金華山城と称し、約100年間存在したが、二階堂行政の玄孫にあたる二階堂行藤の死後、廃城となった。その後、15世紀半ばには、美濃守護代の斎藤氏が、稲葉山城を築き、居城とした。斎藤氏の支配が約70年続き、大永5年(1525年)に家臣であった長井氏が謀反を起こして城を奪取したと言われている。この長野氏の息子の新九朗が、のちの「美濃の蝮」と呼ばれた斎藤道三である。斎藤道三は、稲葉山城を改修を行い、さらに美濃守護であった土岐頼芸を追放して美濃一国を支配した。その後、美濃を支配した織田信長が大改修を行い、天守閣を築いた。慶長5年(1600年),関ヶ原の合戦で東軍に攻められ、城主織田秀信は、投降。岐阜城は、消失した。江戸時代になると、近くに加納城が築かれ、岐阜城は廃城となった。現在、金華山山頂には、昭和31年(1956年)、地元の市民・企業の募金で鉄筋コンクリートで復興された岐阜城のシンボルの三層の天守閣が建っています。

[所在地:岐阜県岐阜市金華山天守閣18番地]

アクセス>JR岐阜駅からバスで15分、岐阜公園・歴史博物館前下車。 山頂へはロープウエイで。 

華山の頂上に建つ岐阜城天守閣

岐阜城の歴史(1)           二階堂行政~長井新左衛門

岐阜城の歴史(2)            斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)

岐阜城の歴史(3)             織田三代(信長・信忠・秀信)

織田信長公以前の居館(斎藤氏の時代)

織田信長の居館

織田信長居館跡

 

天下第一の門

 

岐阜城題目塚の由来

題目塚          ▼山頂部の本丸残る井戸

 

白い城壁

 

  

 

復興天守閣

 明治期の復興天守閣が昭和18年(1943年)に消失、昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリートで復興された天守閣である。高さは18m、内部には資料館、最上階は展望台になっています。

天守閣からの眺め

 

2015/02/27 訪城

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常在寺の概要

 

常在寺(日蓮宗)・・・・・斎藤氏ゆかりの寺院

板垣退助遭難の地

板垣退助像

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長良川の戦    弘治2年(1556年)

 斎藤道三に対する斎藤義龍の反抗で、斎藤道三軍約3000騎と斎藤義龍軍約1万7千騎が、長良川で激突。斎藤道三敗死。

稲葉山(岐阜)城の戦   永禄10年(1567年)

 斎藤龍興の西美濃の三将が、織田方に味方後,織田信長軍が、稲葉山城の斎藤龍興軍を攻める。斎藤龍興、伊勢長島へ逃亡。織田信長が美濃を奪取。

二階堂行政   生没年不詳

  鎌倉時代前期の鎌倉幕府の官吏で、二階堂氏の祖。金華山に初めて山城(要害)を築いた。その後は、二階堂氏及び分家の伊賀氏一族が稲葉山に住し、室町時代には美濃国の守護代・斎藤氏一族や小守護代の長井氏が住した。

長井氏  (城主不明)

  長井氏は、守護代・斎藤氏の家臣であったが,度重なる内乱で力を失った斎藤氏に代わり、力を持つようになっていった。

  大永5年(1525年)6月、長井氏はクーデターを起こし、守護・土岐氏と斎藤氏一族を一時武芸谷(現:関市)へ追いやった。10月に越前・朝倉氏と近江・六角氏の介入で、長井氏は尾張へ一時退去するが,この時長井氏が最後に拠点としたのが、稲葉山城である。これ以後も度々戦が起きるが、結果的に美濃における長井氏の権力は増大する。

  元々は京都の妙覚寺の僧侶であったとされる、斎藤道三の父・長井新左衛門尉も、長井家中で頭角を現し、後の道三の下剋上の基盤が、この時期にはあったことが分かる。

斎藤道三     (生年不詳~1556年)

 長井新左衛門尉の子。長井規秀と名乗り父の跡を継いだ後、長井氏の惣領となった。さらに守護代・斎藤氏の名を継いで、「斎藤利政」と名乗った。斎藤利政は、稲葉山城と井口(現:岐阜市)の城下町を整備し力を蓄えていった。遂には、主君である守護・土岐氏を追放して、本格的に美濃の実権を握り、井口は美濃の中心となった。尾張の織田信秀とも戦うが、後に和睦して娘を織田信秀の息子・織田信長に嫁がせる。晩年、出家して「道三」と名乗る。

 天文23年(1554年),家督を息子の斎藤義龍に譲って隠居したが、2年後の弘治2年(1556年)に斎藤義龍と長良川で戦い、討たれてしまう。

織田信長     (1534年~1582年)

 尾張の戦国武将・織田信秀の嫡男。織田信長の家系は尾張の守護代・織田氏の分家であったが、織田信長は弟・織田信勝を殺して家督争いに勝利し、尾張の他の尾張家を滅ぼし、遂には守護・斯波氏も追放して、尾張を統一した。また、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いで今川義元を撃破した。

 永禄4年(1561年)に稲葉山城主・斎藤義龍が死亡し、跡を子の斎藤龍興が継ぐと、織田信長は美濃への侵攻を強め、永禄10年(1567年),遂に稲葉山城を奪取し本拠を小牧から移した。織田信長は、城を大規模に改修を加え「岐阜城」と改めた。また、城下町も「岐阜」と改めて整備した。

 以後、天正4年(1576年)に安土に移るまで約20年間,岐阜を天下統一の拠点として勢力を拡大していった。

織田秀信     (1580年~1605年)

 織田信忠の長男。幼名を三法師という。本能寺の変後、清州会議の結果によってわずか3歳ながら織田家の後継ぎに決められ、安土城に移ることになったが、叔父の織田信孝が安土へ移すことに反対して岐阜城にとどめた。羽柴秀吉は岐阜城を攻めて織田秀信を引き取り、安土に移して織田信雄に後見させた。文禄元年(1592年),岐阜城主となって13万石を拝領した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では西軍に加担し、東軍と木曽川で戦ったが、敗れて岐阜城に籠城した。その後、福島正則・池田輝政らの攻撃を受けて岐阜城は落城し、織田秀信は降伏して出家した。その後、高野山へ送られ病死した。 


加納城

2015年03月01日 | 岐阜県の城郭・環濠

 加納城は、文安2年(1445年),美濃国守護代斎藤利永によって築城されたと言われています。守護土岐氏の居館革手城の近接地でした。16世紀初め頃、土岐氏による福光城(岐阜市福光町)への守護所移転を契機に衰退が始まり、天文7年(1538年)頃に廃城となったといわれています。関ヶ原の戦い後に、徳川家康により天下普請として慶長6年(1601年)から3年を費やして改修・築城された平城です。石垣や建物には同じ年に廃城になった岐阜城の用材が転用された。完成後は、徳川家康の娘婿の奥平信昌が10万石で入城した。奥平氏断絶後の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と続いて幕末を迎えた。明治5年~6年(1872年~1873年),城内の建物は全て取り壊され、堀は、明治から昭和にかけて埋められてしまいました。現在、本丸は、加納城址公園となり、国指定史跡で石垣だけが当時の面影を留めている。

[所在地:岐阜県岐阜市加納丸の内]

アクセス>名鉄・加納駅下車徒歩約15分

加納城の概要

加納城の城下町      ▼17世紀後半の加納城

 

加納城の平面図

本丸の石垣(国指定史跡)

本丸の石垣

 

本丸の石垣

 

本丸の石垣

 

2015/02/28 訪城

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奥平信昌 (1555年~1615年)

 姉川の合戦に父貞昌と共に出陣。一時武田氏に仕えるが、のち徳川家康に再出仕。天正3年(1575年)の長篠の戦では、長篠城を死守し、織田・徳川連合軍大勝の勝因をなす。天正4年(1576年)、新城城主となり、かねてからの約束通り徳川家康の長女亀姫を娶る。関ヶ原の戦の後、京都所司代。慶長9年(1604年)、上野小幡3万石から美濃加納10万石に加転。


大垣城

2014年02月10日 | 岐阜県の城郭・環濠

 大垣城は、明応9年(1500年)土豪の竹腰尚綱によって牛屋川東河岸にあった牛屋に築城したのが始まりです。天文4年(1535年)には、美濃国守護土岐氏の家臣の宮川安定が大尻に築城したとも言われています。天文13年(1544年)に織田信秀により落城し、織田信辰が5年間城主を務める。その後、天文18年(1549年)斎藤家臣の竹腰尚光が城主となる。永禄2年(1559年)には、氏家直元が城主となり、土塀・堀・総囲い等を整備する。織田氏、斎藤氏、織田氏、と支配権が移った後、天正11年(1583年)池田恒興が、城主となったころから、城郭として整備され、伊藤氏時代に白亜の天主が築かれた。関ヶ原の戦いでは、当時城主であった伊藤盛宗が西軍に属したために、西軍の本営として利用され、石田三成が、率いる主力部隊は、大垣城から決戦の地関ヶ原へ出撃。東軍は、関ヶ原盆地で繰り広げられた決戦に勝利を収めると、大垣城を包囲。石田三成の義弟の福原直高は、留守を任されていたが、降伏勧告に応じて開城した。江戸時代には、、譜代・親藩大名が歴任し、戸田氏10万石の時代に明治維新を迎えた。天主閣は、戦災によって焼失したが、昭和34年(1959年)再建された。本丸、二の丸跡は、大垣公園として整備されている。

 [所在地:岐阜県大垣市郭町二丁目]

アクセス>JR大垣駅下車南口から徒歩7分

大垣城の概要

大垣城絵図

東門(旧柳口門)

 

天主閣(復興天主閣)

 

 

乾隅櫓

 

西門                                   ▼戸田氏鉄公騎馬像

 

天主閣よりの眺

 

2014/02/09 訪城

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関ヶ原の戦    慶長5年(1600年)

 天下を二分する戦。東軍・徳川家康軍9万騎と西軍・毛利輝元(石田三成)軍8万騎が、美濃・関ヶ原で激突。結果は、西軍の敗北。

氏家直元(卜全)   (生年不明~1571年)

 美濃・大垣城主。西美濃三人衆の一人。斎藤氏に仕える重臣だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)稲葉良通(一鉄),安藤守就とともに、織田信長に内応。以後、織田信長配下として活躍。元亀2年(1571年)伊勢長島攻めに従軍。退却の時,殿軍を受け持ち、討ち死にした。長男直通が三人衆の一角を担った。


曽根城

2014年02月10日 | 岐阜県の城郭・環濠

 曽根城は、永禄年間(1558年~1569年)の初期,揖斐川の支流平野井川の湾曲部を利用して稲葉通貞により築かた平城です。本丸は、約1000坪、二の丸を含めると約5000坪と推定されます。その子稲葉良通(一鉄)は、斎藤龍興・織田信長に仕え、稲葉貞通の代の天正16年(1588年)に郡上八幡に移封。後は、西尾光教が入府するが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後に揖斐陣屋に移り、慶長6年(1601年)廃城となった。享保19年(1734年),稲葉一鉄が母の菩提をともなう為に建立した華渓寺が、本丸跡に移築された。また、城跡周辺は、曽根城公園として整備されています。

[所在地:岐阜県大垣市曽根町1丁目]

アクセス>JR大垣駅下車、大垣駅北口より名阪近鉄バスで大野バスセンター行きに乗車 「曽根」下車徒歩8分

曽根城の概要

曽根城跡図

曽根城本丸跡に建つ華渓寺

 

曽根城の石垣          ▼曽根城公園

 

曽根華渓寺の福水

 

2014/02/9 訪城

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稲葉良通(一鉄)  (1516年~1588年)

 美濃崇福寺の僧侶だったが、牧田合戦で一族討ち死にのため家を継ぐ。土岐・斎藤氏に仕える重臣で、美濃・曽根城主。しかし、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)氏家直元・安藤守就とともに、織田信長に内通、稲葉山落城の因を作った。以後、氏家直元。安藤守就とともに西美濃三人衆と称された。織田信忠が美濃支配を譲られた後も、三人衆は、織田信長に直属した。姉川合戦で徳川家康援軍として武勇を上げた。本能寺の変後、秀吉・勝家の対立深まる中、秀吉方に属した。その後、揖斐郡・清水城に移り、74歳で病没。

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梁川星厳記念館(華渓寺境内)

 当地出身(曽根出身)の江戸時代の漢詩人梁川星厳とその妻紅蘭を記念した梁川星厳記念館です。

梁川星厳邸宅跡(大垣市指定史跡)      ▼梁川星厳・紅蘭の像(曽根城公園)

 


墨俣城

2014年02月10日 | 岐阜県の城郭・環濠

 長良川西岸の墨俣の地は、交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた。尾張の織田信長による美濃侵攻にあたって、織田方の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が永禄9年(1566年)の長良川の美濃川の岸に、わずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣城である。一夜にして築いた伝わるが、建築資材を筏に組んで上流から流し、2,3,日で組み立てたものであった。そして藤吉郎は、完成した城の城将に据えられたという。現在は、河川改修で城跡の半分が削られてしまったが、残された土地は公園として整備され、公園内に鉄筋コンクリート造四層六階建ての天主様式の墨俣一夜城歴史資料館が建つ。墨俣一夜城歴史資料館では、築城当時のようすが映像などによって解説・展示されている。

[所在地:岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1]

アクセス>JR大垣駅南口から名阪近鉄バスで岐阜聖徳学園大学行きに乗車、「墨俣」下車徒歩約5分

                                                                           

                                         ▼豊臣橋のたもとには、瓢箪とともに「太閤出世橋」の碑が、、、

 

 

             ▼模擬天主閣(墨俣一夜城歴史資料館)

 

                 藤吉郎の馬柵

 

 

太閤秀吉出世の泉

 

模擬天主閣よりの眺め

 

2014/02/09 訪城

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安藤守就(道足)   (生年不明~1582年)

 美濃の人。本巣郡・北方城主。斎藤氏に仕える重臣の一人だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年),稲葉良通(一鉄)・氏家直元とともに織田信長に降りる。以後彼らは西美濃三人衆と呼ばれ、まとまって行動をすることが多い。美濃が織田信忠の支配下に置かれた後も、彼等は織田信長に直属した。天正8年(1580年)8月、武田に通じたとの嫌疑により、突然追放され所領を失う。本能寺の変後、旧領復帰のため隆起した安藤守就ら安藤一族を討伐したのはかっての三人衆の同僚であった稲葉良通(一鉄)であった。

稲葉良通(一鉄)  (1516年~1588年)

 美濃崇福寺の僧侶だったが、牧田合戦で一族討ち死にのため家を継ぐ。土岐・斎藤氏に仕える重臣で、美濃・曽根城主。しかし、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)氏家直元・安藤守就とともに、織田信長に内通、稲葉山落城の因を作った。以後、氏家直元・安藤守就とともに西美濃三人衆と称される。織田信忠が美濃支配権を譲られた後も、三人衆は、織田信長に直属した。姉川合戦で徳川家康援軍として武勇を上げた。本能寺の変後、秀吉・勝家の対立の深まる中、秀吉方に属した。その後、揖斐郡・清水城に移り、74歳で病没。

氏家直元(ト全) (生年不明~1571年)

 美濃・大垣城主。西美濃三人衆の一人。斎藤氏に仕える重臣だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)稲葉良通(一鉄)・安藤守就とともに、織田信長に内応。以後、織田信長配下として活躍。元亀2年(1571年)伊勢長島攻めに従軍。退却の時、殿軍をうけ持ち、討ち死にした。後、長男直通が三人衆の一角を担った。