nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

米子城

2018年12月16日 | 鳥取県の城郭・環濠

 米子城は、伯耆国守護山名教之の配下、山名宗之によって応仁年間から文明年間(1467年~1487年)に中海に面した標高約90mほどの湊山山麓に築かれた平山城である。石垣を備えた本格的な城は、戦国時代末期の天正19年(1591年)に西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦い後、吉川広家が岩国に転付となった。代わって駿河より中村一忠が17万5000石で米子城に入城し、米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長7年(1602年)頃に完成しました。

 中海に張り出した標高約90mの湊山の頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳、東の標高約59mの飯山を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手廓を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の小天守閣(四重櫓)を持つ壮麗な城でした。

 その後、城主は加藤貞泰、池田由之、池田由成と城主が頻繁に入れ替わる。池田光仲が寛永9年(1632年)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩主席家老職の荒尾成利と代わり、以後荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治6年(1873年)の廃城令で、天守閣を始めとする建物類は売却され、取り壊された。平成18年(2006年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定された。現在、天守台ほか石垣が大規模に残る。」

【所在地:鳥取県米子市久米町】

<アクセス>JR山陰本線・米子駅から徒歩15分。

米子城の概要

二の丸表門        ▼二の丸虎口枡形と石垣

 

石段を登る

本丸の石垣

 左の小天守台は吉川氏が天守として創建し、右の大天守は中村氏が増築したものである。

小天守台の石垣      大天守台の石垣

石段を登る        ▼本丸跡

本丸跡

本丸からの眺め

小天守台(四重櫓台)    ▼鉄門跡

復元の米子城

2018/12/05 訪城


鳥取城

2018年12月11日 | 鳥取県の城郭・環濠

 天文年間(1532~1555年)に守護大名山名氏の一族の争いの過程で名山として知られた標高263mの久松山山頂に築かれた鳥取城は、はじめは因幡山名氏の守護所の出城でしたが、天正元年(1573年)、山名豊国は本拠地を湖山池東岸の天神山城より移転し、以後、鳥取城は因幡国(鳥取県東部)の拠点となりました。やがて、毛利氏の傘下となり、天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴(のちの豊臣)秀吉との間で壮絶な龍城戦が繰り広げられました。兵糧攻めの後、新たな城主になったのは、豊臣秀吉の側近として活躍した宮部継潤でした。彼は、鳥取城に石垣や天守を築き、城の姿を一新しました。息子の宮部長房は、慶長5年(1600年)の関ケ原合戦で西軍に与したため、鳥取城は、東軍の鹿野城(鳥取市鹿野町)主、亀井玆矩や竹田城(兵庫県朝来市)主、赤松広秀(斎村政広)などの攻撃を受け、徹底抗戦の末に開錠しました。

 関ケ原戦後には、池田長吉が入ります。池田長吉は姫路城を築いた池田輝政の弟で、鳥取城は姫路城とともに、西国の豊臣系大名の抑えを担いました。しかし。元和元年(1615年)、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると池田家は転機を迎えます。元和3年(1617年)、姫路城主池田光政は所領減封の上、因幡伯耆32万石の領主として鳥取へ転封となり、現在の鳥取県域とはぼ同じ鳥取藩が誕生しました。

 鳥取城は宮部時代から5~6万石規模の大名の居城に過ぎなかったため、池田光政は山麓に32万石の政庁として整備しました。寛永9年(1632年)、岡山城主池田忠雄の死去に伴い、3歳の池田光仲が家督を継ぐと、幕府は従兄弟・池田光政との国替えを命じました。以後、鳥取城は池田光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となり、国内有数の大藩の政庁として存続して明治維新を迎えた。

 明治3年(1870年)の廃城令では存続が決まり、陸軍省所管となるが、明治12年(1879年)には建物が取り壊された。昭和32年(1957年)の国史跡指定を機に石垣を中心とした復元整備が行われている。

[所在地:鳥取県鳥取市東町]

<アクセス>JR山陰本線・鳥取駅からバス。

鳥取城を遠望

              ▼内堀

山麓から見た三階櫓台

表御門跡         ▼二の丸

天球丸跡の概要

天球丸          ▼巻石垣(天球丸の石垣)

三階櫓台

                    二の丸の石垣

復元の鳥取城・山頂の山城(山上の丸)

復元の鳥取城・山麓の近世城郭(山下の丸)

 2018/12/05 訪問

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鳥取城の戦  天正9年(1581年)

 織田方の中国侵攻に対して毛利方が防衛。城方の毛利(吉川経家)が3000騎で龍城に対し、織田(羽柴秀吉)が20000騎で大包囲による兵糧攻め。5ケ月後餓死状態で降伏。吉川経家自刃。