nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

鳥取城

2018年12月11日 | 鳥取県の城郭・環濠

 天文年間(1532~1555年)に守護大名山名氏の一族の争いの過程で名山として知られた標高263mの久松山山頂に築かれた鳥取城は、はじめは因幡山名氏の守護所の出城でしたが、天正元年(1573年)、山名豊国は本拠地を湖山池東岸の天神山城より移転し、以後、鳥取城は因幡国(鳥取県東部)の拠点となりました。やがて、毛利氏の傘下となり、天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴(のちの豊臣)秀吉との間で壮絶な龍城戦が繰り広げられました。兵糧攻めの後、新たな城主になったのは、豊臣秀吉の側近として活躍した宮部継潤でした。彼は、鳥取城に石垣や天守を築き、城の姿を一新しました。息子の宮部長房は、慶長5年(1600年)の関ケ原合戦で西軍に与したため、鳥取城は、東軍の鹿野城(鳥取市鹿野町)主、亀井玆矩や竹田城(兵庫県朝来市)主、赤松広秀(斎村政広)などの攻撃を受け、徹底抗戦の末に開錠しました。

 関ケ原戦後には、池田長吉が入ります。池田長吉は姫路城を築いた池田輝政の弟で、鳥取城は姫路城とともに、西国の豊臣系大名の抑えを担いました。しかし。元和元年(1615年)、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると池田家は転機を迎えます。元和3年(1617年)、姫路城主池田光政は所領減封の上、因幡伯耆32万石の領主として鳥取へ転封となり、現在の鳥取県域とはぼ同じ鳥取藩が誕生しました。

 鳥取城は宮部時代から5~6万石規模の大名の居城に過ぎなかったため、池田光政は山麓に32万石の政庁として整備しました。寛永9年(1632年)、岡山城主池田忠雄の死去に伴い、3歳の池田光仲が家督を継ぐと、幕府は従兄弟・池田光政との国替えを命じました。以後、鳥取城は池田光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となり、国内有数の大藩の政庁として存続して明治維新を迎えた。

 明治3年(1870年)の廃城令では存続が決まり、陸軍省所管となるが、明治12年(1879年)には建物が取り壊された。昭和32年(1957年)の国史跡指定を機に石垣を中心とした復元整備が行われている。

[所在地:鳥取県鳥取市東町]

<アクセス>JR山陰本線・鳥取駅からバス。

鳥取城を遠望

              ▼内堀

山麓から見た三階櫓台

表御門跡         ▼二の丸

天球丸跡の概要

天球丸          ▼巻石垣(天球丸の石垣)

三階櫓台

                    二の丸の石垣

復元の鳥取城・山頂の山城(山上の丸)

復元の鳥取城・山麓の近世城郭(山下の丸)

 2018/12/05 訪問

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鳥取城の戦  天正9年(1581年)

 織田方の中国侵攻に対して毛利方が防衛。城方の毛利(吉川経家)が3000騎で龍城に対し、織田(羽柴秀吉)が20000騎で大包囲による兵糧攻め。5ケ月後餓死状態で降伏。吉川経家自刃。