nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

松江城

2018年12月22日 | 島根県の城郭・環濠

 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦で、徳川家康率いる東軍に味方した堀尾吉晴・忠氏父子は論功行賞の結果、出雲・隠岐2か国24万石を領地として与えられた。父子は同年11月、出雲の月山富田城に移ったが、山城なので家臣団を収容する城下町を作るには、土地が狭すぎ、交通の便も悪いため、宍道湖北東端に位置する亀田山に新しく城を築くことを決めた。

 城は、慶長12年(1607年)から5年の歳月をかけ慶長16年(1611年)に完成させた平山城です。新たな城と城下町は『松江』の名で呼ばれるようになった。以来、堀尾氏、寛永11年(1634年)からは京極氏、寛永15年(1638年)から明治4年(1871年)まで松平氏の居城であった。

 明治8年(1875年)に天守を残して建物が解体されたが、平成13年(2001年)には、南櫓、中櫓、太鼓櫓が復元され、平成27年(2015年)7月に天守は国宝に指定されました。

[所在地:島根県松江市殿町1-5]

<アクセス>JR山陰本線・松江駅下車、徒歩約20分

松江城の概要

松江城の概略図

堀尾吉晴の銅像      ▼大手口

馬溜           ▼太鼓櫓

二の丸下の段       ▼太鼓櫓(城内側)

二の丸上の段       ▼一の門

松江城天守閣国宝

 天守の壁面は全面板張りか下見板張り、軒裏は黒塗と黒の天守でした。外観は4重、内部構造は5階、地下1階の構造で入り口に附櫓を設けた複合式望楼型である。

 明治の廃城令で、城のすべての建物を売却で取り壊されるとき、松江城の天守の建物だけは残そうと、旧松江藩士高城権八や豪農勝部本右衛門親子らの奔走があったから取り壊しを免れたのである。

矢狭間          ▼鉄砲狭間

石落とし         ▼国宝指定書

天守閣からの眺め

裏側から見た天守閣 [国宝]

2018/12/06 訪城


月山富田城

2018年12月19日 | 島根県の城郭・環濠

 月山 富田城は、急峻な山である月山を中心とし、周囲の丘陵上にも曲輪や石垣、堀切、土塁などの防御施設を配した大規模な城郭です。

 12世紀の後半、源頼朝が出雲守護として佐々木義清を任命したこととされますが、尼子家三代の戦国武将によって月山富田城は最盛期を迎え、江戸時代の初期まで月山富田城は多くの変遷を繰り返しました。尼子氏は大内氏、陶氏、毛利氏との戦を繰り返しながら、因幡、石見、備後など11カ国にも及ぶ広大な領地を拡大しました。

 しかし、永禄8年(1565年)、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半ものあいだ月山富田城に立て籠っていたにもかかわらず、永禄9年(1566年)、月山富田城は毛利氏の手に渡ってしまいます。慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで徳川家康に敗れた毛利氏は月山富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉晴が出雲富田24万石の大名となって月山富田城に入りました。しかし山奥にある富田が出雲支配に不便なことから、堀尾氏は城を現在の松江城に移してしまいます。難攻不落と言われ、数々の武勇を生んだ名城月山富田城は、その後二度と城として使われることはありませんでした。慶長16年(1611年)堀尾吉晴の死去により、孫の堀尾忠晴が跡を継ぐ。堀尾忠晴が松江城へ本城を移し、廃城となりました。昭和9年(1934年)には、その歴史的価値が認められ、国の史跡に指定されました。

【所在地:島根県安来市広瀬町】

<アクセス>JR山陰本線・安来駅よりバスで約25分。

月山富田城の概要

月山富田城縄張図

山中御殿……菅谷口、塩谷口、御子守口といった主要城内道が合流する、城の中心的曲輪。

雑用井戸         ▼管谷口の虎口

親子観音         ▼七曲り……山中御殿から山頂への軍用道

矢吹井戸

三の丸

二の丸

本丸           ▼山中鹿介幸盛記念碑

勝日高守神社 

土塁           ▼堀切 

山中介鹿幸盛の説明 

山中介鹿幸盛銅像 

 第2次月山富田城の戦い後、尼子再興を誓った山中介鹿幸盛は『我に七難八苦を与えたまえ』と三日月に祈ったという。

本丸からの眺め

復元月山富田城

2018/12/06 訪城

月山富田(がっさんとだ)城の戦 永禄9年(1566年)

 山陽の雄毛利氏が中国の覇権を争う。毛利元就27000騎で尼子義久12000騎が守る城を包囲する。包囲戦の末、尼子氏降伏。毛利元就、尼子義久ら尼子一族を助命、寛大な処置を遇する。

布部山(ふべやま)の戦 元亀元年(1570年)

 尼子氏の旧臣・尼子勝久・遺臣・山中介鹿幸盛(鹿之助)が主家再興のため隠岐で挙兵し、出雲新山城に拠って月山富田城を攻撃。毛利輝元25000騎で救援。月山富田城の守兵の奮戦と毛利輝元の援軍の奮闘で勝利。