2013/11/30 大阪府交野市の『獅子窟寺の国宝と紅葉に染まる星のブランコ・星田の里を巡る』ハイキングに行ってきました。
[ハイキングコース] JR河内盤船駅・・・天田神社・・・獅子窟寺・・・星の里いわふね・・・府民の森ほしだ園地・・・ピトンの小屋・・・星のブランコ・・・星田妙見宮・・・家康ひそみの藪・・・新宮山・・・JR星田駅
▼天田神社(あまたじんじゃ) ▼王の墓(獅子窟寺境内)
獅子窟寺(ししくつじ)は、奈良時代聖武天皇の勅願で僧「行基」によって創建。亀山天皇(後醍醐天皇の祖父)の恩顧を受けて以来、交野に勢力を有し、獅氏子窟寺の塔頭(たっちゅう)12院が僧兵約600騎を有していたため、元和元年(1615年)大阪夏の陣の前に、大坂城方(豊臣方)から加勢を求められましたが、拒否したため、大阪城兵に全山焼払われ、以前の寺の記録一切を残していない。現在は、規模も1/10以下で、往時の盛大な寺観は、見られません。真言宗高野山派です。
▼獅子窟寺・仁王門跡 ▼獅子窟寺・本堂
▼獅子窟寺からの眺め
▼星の里いわふね ▼星田園地へ
▼森林鉄道風歩道橋 ▼ピトンの小屋(園田案内所)
▼ピト ン ▼星のブランコからの紅葉
◆星のブランコは、全長280m、最大地上高50mの木床板吊橋で人道吊橋としては、近畿で最大級の規模を誇ります。
▼展望台からの星のブランコの紅葉
▼星田妙見宮
▼伝・家康ひそみの藪
天正10年(1582年)京都本能寺において、織田信長が家臣の明智光秀に襲われて自害した時、徳川家康は、少人数の近臣を連れて堺に滞在していました。信長死すとの報がもたらされると、家康は身の危険を察知して直ちに本国三河に帰ることにします。家康一行は、その日の深夜星田の平井家に来て道案内を依頼し、当家から間道に精通する人を出して無時帰還したと伝われています。星田の伝承では、星田妙見宮の参道の入り口の北に、『家康ひそみの藪』といって、家康が堺から逃げ帰る途次、一時、この藪に深夜まで潜んでいたと言い伝えられています。
▼旗掛け松跡 ▼新宮山(星田公園)
●徳川家康陣営と旗掛け松
元和3年(1615年)春、大阪夏の陣が始まろうとして東西の空気が緊張してきた。大阪城方(豊臣方)では冬の陣の後、城の外堀を埋められているので、秀吉が築いたさすがの堅城も関東の大軍に攻められては防衛の用をなさない。やもなく城外に出て決戦ということになり、そのためあらかじめ万全の策を講じている。その一つは、東軍の通路にあたる村々で、彼等に宿舎に便を与えないようにしょうと、街道近辺の寺院はもとより、農家まで焼き払うことだった。4月4日徳川家康は、駿府城を立って、その18日には京都に着き、ここで味方の諸大名を集めて、さまざまな戦略上の会議を開いた。その時因幡(鳥取県)の国矢橋の城主市橋長勝は、「いずれ大坂城方(豊臣方)は,わが軍の進路にあたる道筋の村々を焼くだろうから、せめて徳川家康公が京都に出てから宿所にあたる村だけでも焼かせないように防備しては」と献策した。そこでその宿営地を星田と定めて、ここを固めることにした。ところがはたして大阪方(豊臣方)は、交野地方の寺や民家を焼き払ったが、星田には強い防備があったのでここだけが残った。こうして5月5日徳川家康は京都を出発し、星田の平井清貞宅について一泊した。ここで市橋長勝は、その予言が的中したことで大いに称賛の的となったことだろう。その後市橋家が近江西大路陣屋で20,000石の所領を与えられたが、遠く離れた河内の星田に1,300石余の所領があったのは、この時の功績を記念するためのものである。そして徳川家康宿営中は、軍旗の白旗7本を大阪城(豊臣方)から良く見えるように、新宮山八幡宮前に東面する崖の上にあった大きい松に立て掛けた。これが今に伝わる『旗掛け松』である。明治初年に枯死し、その後元の場所に二代目が育っています。現在、下の場所に「旗掛け松跡」の石碑が立っていて、往時を偲ぶことができます。
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徳川家康の脱出行 天正10年(1582年)
徳川家康一行,が堺から京都に戻る途中、河内飯盛山付近で明智光秀に織田信長が殺害された本能寺の変の凶報を知る。ただちに、交野・星田の郷士,平井家に立ち寄り、たくさんのにぎりご飯と道案内役と剣客の護衛を得て、間道伝いに近江国の信楽庄から北伊賀の御斎(おとき)峠を越え、伊賀郡西山、上拓殖を経て加太峠を越え伊賀国の関に出る。船で、伊賀湾を横断し4日間で三河の岡崎城に戻った。[33年後の大阪夏の陣の時、5月5日に京都の二条城を出撃した家康は、15,000騎の兵を従え交野・星田の郷士、平井家に本陣を置き宿泊している。]
◆交野・星田の平井氏とは、
平井氏の出自は、その遠祖が三河の国設楽郡(しだらごうり)平井庄の地頭職であったところから平井性を称し、南北朝時代には、既に星田に居住していたという伝承がある。星田新宮山八幡宮神主平井家という記録があり、いわゆる、南北朝時代からの交野の星田の郷士であった。本能寺の変の時、徳川家康から脱出の連絡を受けた時、平井家が、直ちに、大釜で米を炊いてにぎりご飯を沢山こしらえ、道案内役2人を付けて、家康の三河への脱出を助けた。一方、平井氏が、徳川家康のために動いたことが明智光秀に知れると、どのような仕打ちを受けるやも知れないと大変恐れて、自分の家を閉めて、一家全員が、星田山中の小松寺の空家になっている建物にしばらく隠れていました。徳川家康が、このような危急存亡の時、平井家に脱出の依頼をしたということは、徳川家と平井家との間に何らかの交際があったためであると思われる。徳川家康が征夷大将軍となった時、平井氏と道案内役の2人を懇切に江戸に招いたが、道案内役の2人は固辞したので、平井氏だけが江戸に出向いたということであるが、これらの人たちは、江戸時代特別な扱いを受けていた。元和3年(1615年)、5月5日大阪夏の陣の時、15000騎の兵を従えて交野・星田の郷士・平井家に本陣を置き一泊宿泊している。江戸時代、平井家は、市橋家領の星田の庄屋になる。