nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

株式会社タカトリの株主総会

2013年12月25日 | 株主総会

2013/12/20(金曜日) 「株式会社タカトリの第57期定時株主総会」が開催されました。

当社株式等の大規模買付行為に関する対策(買収防衛策)の継続の議案は、原案のとおり承認可決されました。

当期は、業績の低迷の継続で収益性の低下により赤字。配当も無配

来期は、年間配当金は10円の予定。

2013/12/20の株価終値は、473円。  株式平均買値は、425円で株価アップ率11.3%

1株純資産=777円       PBR=0.60     PER=6.78

投資利回り来期配当10円/425円=2.35%

     全株式売却 譲渡差益29万円余

 

 


京都・山科の『忠臣蔵』の散策

2013年12月15日 | 文化・歴史散策

2013/12/15 京都・山科の忠臣散策に行ってきました

[ハイキングコース]JR・山科駅・・・瑞光院・・・元慶寺・・・大石神社・・・岩屋寺・・・坂上田村麻呂墓・・・西本願寺山科別院・・・JR・山科駅

瑞光院・・・元禄初期、赤穂藩城主の浅野内匠頭長矩夫人(瑤泉院)の母(寿光院)が、当院三世陽甫和尚の姪の関係になることから、赤穂・浅野家の祈願寺になっていた。元禄14年(1701年)8月14日、当時、山科に閑居していた大石内蔵助良雄が、主君、浅野内匠頭長矩公の墓を建立し、以後、墓参の都度、赤穂の同志と会し、密儀の場所とした。もと上京区の堀川鞍馬口にあったが、昭和37年(1962年)11月にこの地に移った。赤穂義士ゆかりの寺院である。

浅野内匠頭長矩公の墓と赤穂浪士46人の墓

元慶寺

 

大石神社・・・昭和10年(1935年)創建された。

 

 

岩屋寺・・・赤穂義士・大石良雄(通称大石内蔵助)の隠棲地

大石良雄の遺髪塚       ▼坂上田村麻呂の墓

西本願寺山科別院

 


ネルソン・マンデラ(1918年~2013年) [南アフリカ共和国]

2013年12月06日 | 歴史

  1918年7月18日南アフリカ南東部トランスカイの村でテンブ人の首長の子として生まれる。父親は、王族の相談役を務めていた。国内の出身氏族を示すマンディバの愛称で知られた。1942年にウィトワーテルスランド大学法学部を卒業し、法律事務所に就職。1944年に黒人解放組織、アフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取り組む。その後1950年、ANC青年同盟議長に就任する。1952年、友人と南アフリカ初の黒人による法律事務所を設立、同年以後、ANCによる非暴力の反アパルトヘイト(人種隔離)政策闘争を率いた。反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され,27年間に渡り刑務所に収容された。刑務所の2畳ほどの独房で過ごしたあいだ、獄中で、白人が話すアフリカーンス語も学び、考え分析しながら戦略を立てた。釈放時には大統領になる準備が出来ていた。釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の副議長に就任。その後、議長。デクラークとともにアパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導き1994年に大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した婆娑羅大統領であった。2013年12月5日、ヨハネスブルグの自宅で95歳で死去。国葬は、12月15日に決まった。

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アパルトヘイト* 

  アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に、南アフリカ共和国は、17世紀から、オランダ、英国の植民地支配を受け、独立後も南アフリカ共和国における白人支配層が、多数を占める非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーなどからの非白人アジア系住民やカラードと呼ばれる混血民)を極度に差別する諸関係を規定する人種隔離政策のことである。

■□■西洋の植民地になるとこうなる■□■

https://www.youtube.com/watch?v=cT-3DE6nSZs

■□■日本人が知らないといけないイギリスの残酷植民地政策■□■

https://www.youtube.com/watch?v=FTdRz4dECE

 


嵯峨御所(大覚寺門跡)

2013年12月05日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 延歴13年(794年)11月、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都する。桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため弟の嵯峨天皇に在位わずかで譲位するが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は動揺していた。遷都から20年を経て即位した嵯峨天皇は、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は、安定に見えた。一方、嵯峨天皇は都より離れた北野の地をこよなく愛され、壇林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立された。これが離宮嵯峨院である。嵯峨の地名は、唐(中国)の都・長安の北方にある景勝地、嵯峨山になぞられたものである。離宮嵯峨が大覚寺(正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡と称し、嵯峨御所とも呼ばれた。)となったのは皇孫である桓寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。明治初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。昭和13年(1938年)には、大覚寺御所跡として境内全域が国指定史跡に指定された。

[所在地:京都市右京区嵯峨大沢町4]

<アクセス>JR山陰本線・嵯峨嵐山駅から徒歩20分(1.3km)

                               表門(玄関門)

 

式台玄関               

心経前殿(御影堂)

正 寝 殿 ・・・重要文化財 桃山時代 木造入母屋造桧皮葺

五大堂の濡縁から東側の大沢池の景観

2013/12/03 訪問

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嵯峨天皇 (786年~842年、在位809年~823年)

 第52代嵯峨天皇は、桓武天皇の皇子で、能書家として弘法大師、橘逸勢とともに「三筆」の一人として数えられた。天皇は、退位後,離宮嵯峨院に移って崩御され、御陵も西北の山上に営まれている。離宮嵯峨院は、その後大覚寺となる。


嵯峨野・嵐山の紅葉

2013年12月04日 | 紅葉

2013/12/03 京都市の嵯峨野・嵐山の紅葉を見に嵯峨野・嵐山へ散策に行ってきました。

[ハイキングコース]JR嵯峨嵐山駅・・・渡月橋・・・天龍寺・・・常寂光寺・・・二尊院・・・祇王寺・・・大覚寺・・・JR嵯峨嵐山駅

嵐山公園よりの景色    ▼渡月橋

 

 天龍寺は、歴応2年(1339年)吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が、夢窓国師を開山として創建した。夢窓国師は、堂塔建立の資金調達のため、「天龍寺船」による中国・元との貿易を進言し、康永2年(1343年)ほぼ七堂伽藍が整った。この地は、後醍醐天皇が幼少期を過ごされた地でもある。臨済宗天龍寺派大本山。史跡・特別名勝で平成6年(1994年)世界文化遺産に登録

天龍寺                ▼天龍寺・大方丈

 

 

 

 

 

 天龍寺から常寂光寺へ向かう道路沿いの左側に、土佐四天王の像がありました

             ▼常寂光寺

 

 常寂光寺は、三好吉房(秀吉の姉婿),瑞竜院(秀吉の実姉),小早川秀秋、加藤清正、小出秀政、その他京都町衆の帰依者多し。

 

 

 

            二尊院 

 

 二尊院は、嵯峨天皇勅願により慈覚大師が、承和年間(834年~847年)に開山。明治維新まで天皇名代として勅使参詣があり、御所の仏事を司り、公家との交流も盛んでした。現在も旧摂関家の「二条家」「鷹司家」「三条家」「四条家」香道の創始家でもある「三条西家」や「角倉家」など豪家の菩提寺である。

 

 

  

 和菓子に使われる小倉餡の小倉は、この一帯の地名である小倉に由来しています。発祥脾が境内に建っています。

小倉餡の発祥の脾

▼祇王寺は、竹林と楓に囲まれた草魔で、『平家物語』に登場する祇王らが余生を過ごしたといわれる寺。明治維新の廃仏稀釈で廃寺となったが、明治28年に再建。現在、旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院となっています。

 

 

▼大覚寺は、平安時代初期、嵯峨天皇が壇林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが、大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。嵯峨院が、大覚寺となったのは、皇孫である桓寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。真言宗大覚寺派の大本山で、いけばな発祥の花の寺でもあり、『いけばな嵯峨御流』の総司所(家元)でもある。

大覚寺・表門(玄関門)      ▼史跡大覚寺御所址碑

 

大沢池


獅子窟寺の国宝と紅葉に染まる星のブランコ・星田の里を巡る

2013年12月01日 | 文化・歴史散策

2013/11/30  大阪府交野市の獅子窟寺の国宝と紅葉に染まる星のブランコ・星田の里を巡るハイキングに行ってきました

[ハイキングコース] JR河内盤船駅・・・天田神社・・・獅子窟寺・・・星の里いわふね・・・府民の森ほしだ園地・・・ピトンの小屋・・・星のブランコ・・・星田妙見宮・・・家康ひそみの藪・・・新宮山・・・JR星田駅

天田神社(あまたじんじゃ)王の墓(獅子窟寺境内)

 

 獅子窟寺(ししくつじ)奈良時代聖武天皇の勅願で僧「行基」によって創建。亀山天皇(後醍醐天皇の祖父)の恩顧を受けて以来、交野に勢力を有し、獅氏子窟寺の塔頭(たっちゅう)12院が僧兵約600騎を有していたため、元和元年(1615年)大阪夏の陣の前に、大坂城方(豊臣方)から加勢を求められましたが、拒否したため、大阪城兵に全山焼払われ、以前の寺の記録一切を残していない。現在は、規模も1/10以下で、往時の盛大な寺観は、見られません。真言宗高野山派です。

獅子窟寺・仁王門跡   ▼獅子窟寺・本堂

 

獅子窟寺からの眺め

 

星の里いわふね                ▼星田園地へ

 

森林鉄道風歩道橋   ピトンの小屋(園田案内所)

 

ピト ン              星のブランコからの紅葉

  

星のブランコは全長280m、最大地上高50mの木床板吊橋で人道吊橋としては、近畿で最大級の規模を誇ります

 

展望台からの星のブランコの紅葉

田妙見宮

 

伝・家康ひそみの藪

 天正10年(1582年)京都本能寺において、織田信長が家臣の明智光秀に襲われて自害した時、徳川家康は、少人数の近臣を連れて堺に滞在していました。信長死すとの報がもたらされると、家康は身の危険を察知して直ちに本国三河に帰ることにします。家康一行は、その日の深夜星田の平井家に来て道案内を依頼し、当家から間道に精通する人を出して無時帰還したと伝われています。星田の伝承では、星田妙見宮の参道の入り口の北に『家康ひそみの藪』といって、家康が堺から逃げ帰る途次、一時、この藪に深夜まで潜んでいたと言い伝えられています。

旗掛け松跡       新宮山(星田公園)

 

徳川家康陣営と旗掛け松

 元和3年(1615年)春、大阪夏の陣が始まろうとして東西の空気が緊張してきた。大阪城方(豊臣方)では冬の陣の後、城の外堀を埋められているので、秀吉が築いたさすがの堅城も関東の大軍に攻められては防衛の用をなさない。やもなく城外に出て決戦ということになり、そのためあらかじめ万全の策を講じている。その一つは、東軍の通路にあたる村々で、彼等に宿舎に便を与えないようにしょうと、街道近辺の寺院はもとより、農家まで焼き払うことだった。4月4日徳川家康は、駿府城を立って、その18日には京都に着き、ここで味方の諸大名を集めて、さまざまな戦略上の会議を開いた。その時因幡(鳥取県)の国矢橋の城主市橋長勝は、「いずれ大坂城方(豊臣方)は,わが軍の進路にあたる道筋の村々を焼くだろうから、せめて徳川家康公が京都に出てから宿所にあたる村だけでも焼かせないように防備しては」と献策した。そこでその宿営地を星田と定めて、ここを固めることにした。ところがはたして大阪方(豊臣方)は、交野地方の寺や民家を焼き払ったが、星田には強い防備があったのでここだけが残った。こうして5月5日徳川家康は京都を出発し、星田の平井清貞宅について一泊した。ここで市橋長勝は、その予言が的中したことで大いに称賛の的となったことだろう。その後市橋家が近江西大路陣屋で20,000石の所領を与えられたが、遠く離れた河内の星田に1,300石余の所領があったのは、この時の功績を記念するためのものである。そして徳川家康宿営中は、軍旗の白旗7本を大阪城(豊臣方)から良く見えるように、新宮山八幡宮前に東面する崖の上にあった大きい松に立て掛けた。これが今に伝わる『旗掛け松である。明治初年に枯死し、その後元の場所に二代目が育っています。現在、下の場所に「旗掛け松跡」の石碑が立っていて、往時を偲ぶことができます。

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徳川家康の脱出行 天正10年(1582年)

 徳川家康一行,が堺から京都に戻る途中、河内飯盛山付近で明智光秀に織田信長が殺害された本能寺の変の凶報を知る。ただちに、交野・星田の郷士,平井家に立ち寄り、たくさんのにぎりご飯と道案内役と剣客の護衛を得て、間道伝いに近江国の信楽庄から北伊賀の御斎(おとき)峠を越え、伊賀郡西山、上拓殖を経て加太峠を越え伊賀国の関に出る。船で、伊賀湾を横断し4日間で三河の岡崎城に戻った。[33年後の大阪夏の陣の時、5月5日に京都の二条城を出撃した家康は、15,000騎の兵を従え交野・星田の郷士、平井家に本陣を置き宿泊している。]

交野・星田の平井氏とは、

 平井氏の出自は、その遠祖が三河の国設楽郡(しだらごうり)平井庄の地頭職であったところから平井性を称し、南北朝時代には、既に星田に居住していたという伝承がある。星田新宮山八幡宮神主平井家という記録があり、いわゆる、南北朝時代からの交野の星田の郷士であった。本能寺の変の時、徳川家康から脱出の連絡を受けた時、平井家が、直ちに、大釜で米を炊いてにぎりご飯を沢山こしらえ、道案内役2人を付けて、家康の三河への脱出を助けた。一方、平井氏が、徳川家康のために動いたことが明智光秀に知れると、どのような仕打ちを受けるやも知れないと大変恐れて、自分の家を閉めて、一家全員が、星田山中の小松寺の空家になっている建物にしばらく隠れていました。徳川家康が、このような危急存亡の時、平井家に脱出の依頼をしたということは、徳川家と平井家との間に何らかの交際があったためであると思われる。徳川家康が征夷大将軍となった時、平井氏と道案内役の2人を懇切に江戸に招いたが、道案内役の2人は固辞したので、平井氏だけが江戸に出向いたということであるが、これらの人たちは、江戸時代特別な扱いを受けていた。元和3年(1615年)、5月5日大阪夏の陣の時、15000騎の兵を従えて交野・星田の郷士・平井家に本陣を置き一泊宿泊している。江戸時代、平井家は、市橋家領の星田の庄屋になる。