nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

感状山城

2023年09月05日 | 兵庫県の城郭・環濠

 感状山城は、兵庫県相生市の北部、矢野町瓜生と矢野町森のまたがる標高301mの感状山の尾根上に築かれた山城です。築城は、鎌倉時代の瓜生左衛門尉(うりゅうさえもんのじょう)とも、南北朝初期の赤松則祐(則祐)ともいわれ、赤松氏による広域城郭群の一つでした。

 建武3年(1336年)、足利尊氏軍と後醍醐天皇方の新田義貞、北畠顕家軍が豊島河原(現在の大阪府箕面市、池田氏)で合戦に及び、敗れて九州へ落ちる足利尊氏軍を追討して来た新田義貞、北畠顕家軍の軍勢を赤松則祐が奮戦。新田義貞、北畠顕家軍を播磨で2ケ月近くにわたり赤松配下の感状山城、置塩城、龍野城などと連携して足止めした結果、足利尊氏は反撃の機会を得ることができました。

 感状山城は、山頂部を中心にした総石垣造りの遺構は足利尊氏時代のものではなく、戦国時代のものとされ曲輪群、建物跡の礎石が残る。国指定史跡である。

【所在地:兵庫県相生市矢野町瓜生・矢野町森】

アクセス>JR山陽線・相生駅から神姫バス「榊行き」に乗車し、「瓜生停留所」で降車して北へ徒歩約20分で、羅漢の里公園に着く。その公園から少し入ったとこに登山道があります。登山道口から城跡まで約45分。      

感状山城の概略図【地元の資料・案内図】

         

登山口           ▼石垣跡

山頂まで伸びる整備された木の階段は、七曲がりの階段です

南曲輪群からの展望     ▼曲輪跡

南Ⅱ曲輪          ▼北Ⅱ曲輪

Ⅰ曲輪           ▼感状山城跡(標高301.05m)

 

出曲輪           ▼物見岩

2023/8/27  訪城

赤松則祐(円心) (1277~1350)

 法名を円心という。元寇3年(1333年)、大塔宮護良親王の令旨を受けて挙兵。足利高氏(尊氏)とともに鎌倉幕府の六波羅探題を攻め滅ぼし、建武政権樹立の功労者となる。

 軍功の恩賞は、いつの場合も難しいが、問題は配分の内容である。血を流し、命を張って戦った論考が、予想を下回るだけでなく、あきらかに不公平と思われるときは誰もが納得できない。          

 たとえば赤松則祐(円心)は、御醍醐帝帰還の先駆けとしてよく戦ったが、「佐用荘一所を賜う」のみで、播磨の守護は取りあげられた。佐用荘だけ残して播磨国の大部分を失うという恩賞である。その失ったものは新田義貞に渡ったのだが、赤松則祐(円心)としては納得できるはずがない。沙汰書を引き裂き、憤然として国へ帰ったという。

 建武2年(1335年)、後醍醐天皇にそむいて足利政権樹立に参加、再び播磨守護となる。感応の擾乱では尊氏・高師直方についたが、九州地方から東上しようとする足利直冬との大戦前に、京都で急死。

 


龍野城

2023年09月04日 | 兵庫県の城郭・環濠

 龍野城は、明応8年(1499年)に、当時、播磨・美作・備前の守護であった赤松氏の一族の赤松村秀が、揖保川西岸の標高218mの鶏籠山(けいろうさん)の山頂に本丸と二の丸の中世城郭の山城を築いた。龍野赤松氏は4代続きますが、戦国時代に入ってから徐々にその力は衰え、天正5年(1577年)には、羽柴秀吉の軍に最初は抵抗したが降伏。城を明け渡し、その後蜂須賀、福島など秀吉配下の大名が在城しました。

 江戸時代になると、元和元年(1615年)の一国一城令により、山上部の石垣は壊され古城[龍野古城]となり機能せず、山麓の最下部が近世石垣で囲まれた居館である『御城』とした。万治元年(1658年)京極高知が讃岐丸亀に移り、城が廃城となり、一時は建造物が取り壊され、龍野は天領となった。

 江戸時代中期の寛文12年(1672年)に信州飯田より入った脇坂氏は荒廃した京極氏の城を山麓居館部のみの陣屋形式の城郭にしました。城内には居館、埋門、多門櫓、会所、倉、厩などあるだけで5万3千石の大名としては、非常に貧弱な佇まいであった。脇坂氏は明治まで10代200年間、龍野を治めました。

 明治4年(1871年)の廃藩置県により、龍野城の建物は全て競売によって取り壊されましたが、昭54年(1979年)、本丸御殿、櫓門(埋門)、石垣、城壁、多門櫓などが城跡に復興され、後に模擬二重隅櫓が建築されました

【所在地:兵庫県たつの市龍野町上霞城128-1】

アクセス>JR姫新線・本龍野駅から徒歩約20分

龍野城の概略図(龍野古城を含む)

二の丸跡(龍野古城)       ▼削平地(龍野古城)

本丸跡(龍野古城

本丸跡からの眺め(龍野古城

鳥ケたわ番所跡井戸(龍野古城)  ▼侍屋敷の蹲い(龍野古城

埋門(御城正面の櫓門櫓)     ▼櫓門(埋門)

御殿

土塀            ▼模擬二重櫓

2023/8/27 訪城


三木城

2023年07月20日 | 兵庫県の城郭・環濠

 三木城は、東播磨の豪族別所則治によって美嚢川南岸の台地上に築城され、別所氏歴代の居城であった。別所氏は東播磨で8郡を領し、石高およそ43万石と言われ勢力を張っていたが、織田と毛利の間に挟まれた三木城主別所長治は毛利に味方することを選び、毛利の援軍が来ることを信じて籠城戦に入った。織田信長の毛利攻めの前線となり、天正6年(1578年)から、織田の武将羽柴秀吉との三木城の戦いが繰り広げられたが、兵糧の搬入手段を失い、城内の食料が尽きたため、天正8年(1580年)1月17日、別所長治は、兵や領民の救命を条件に長治以下一族が自刃する道を選んで開城した。天正13年(1585年)、秀吉の代官中川秀政が城代として入城。このころ、天守が増築されたが、元和3年(1617年)の一国一城令によって廃城となった。三木城の遺材は明石城に用いられた。

【所在地:兵庫県三木市上の丸]

アクセス>神戸電鉄栗生線三木上の丸駅下車徒歩約5分

三木城の看板        階段を上がる

三木城跡の概要

かんかん井戸(中央部)(本丸跡) ▼忠魂碑(本丸跡)

本丸跡           ▼本丸跡の碑

別所長治辞世の碑(天守台跡)  ▼別所長治像

今はただ うらみもあらじ諸人の 

 いのちに代わる 我身とおもえば

本丸跡からの眺め

稲荷神社(本丸跡)      ▼二の丸跡の碑

雲龍寺          ▼雲龍寺にある別所長治の首塚

                  三木城の開城後、雲龍寺の住職が長治の首を

                  もらいうけ、菩提を弔うために首塚を築いた

三木城包囲の秀吉軍武将配置図

三木本城籠城軍武将別所長治、別所友之、

小森与三左衛門、別所吉親

2023/7/17 訪城


黒井城

2019年05月13日 | 兵庫県の城郭・環濠

 黒井城(別名:保月城)は、建武2年(1335年)赤松貞則が足利尊氏から丹波氷上郡春日部荘に所領を与えられ、標高356mの猪ノ口山山頂に砦を築いたのが始まりとされる。以後、赤松氏が統治したが、丹波地方は平安時代末期から清和源氏の流れを汲む豪族芦田氏の一族である赤井氏や荻野氏が勢力を維持しており、赤松氏と対立していた。

 赤松氏の黒井城は、16世紀前半には萩野氏に奪われ、赤井時家の次男である赤井直正は天文23年(1554年)、叔父でもある黒井城主荻野秋清を殺害し、自ら黒井城となりました。赤井(萩野)直正は『悪右衛門』と恐れられた猛将であり、荻野氏を名乗って勢力を拡大した。山頂の曲輪群は堅固な石垣を築いて防衛を固め、さらに三方の延びる稜線上に曲輪群を置いて、全山を要塞化した。

 天正3年(1575年)、山名氏から救援を求められた織田信長の命で、明智光秀が丹波侵攻を開始し、黒井城を攻撃する。明智光秀を一度は退けるも、赤井(荻野)直正が病没したことで情勢が悪くなり、天正7年(1579年)黒井城は落城した。その後、明智光秀は重臣の斎藤利三を黒井城主とした。ちなみにここで生まれた斎藤利三の娘が、のちに江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母となる春日局である。明智光秀が山崎の戦で敗死すると、黒井城には豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴、次いで川勝秀氏が入るが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い後、廃城となった。平成元(1989年)に国の史跡に指定された。

【所在地:兵庫県丹波市春日町黒井】

アクセス>JR福知山線・黒井駅から登山口まで徒歩約10分

     登山口から黒井城跡山頂(本丸)には別途約50分(1.2Km)

黒井城の遠望       ▼黒井城跡の碑

 本丸のある山頂周辺は平坦な削平地となっている。

黒井城縄張り図

三段曲輪跡

太鼓の段跡

石踏の段跡

東曲輪跡

三の丸跡

二の丸跡

本丸跡

 山頂部の本丸は東西約48m、南北約22m。

本丸跡の石垣

 本丸を囲む土塁上には、野面積の石垣を積み上げています。

狼煙の実演        ▼黒井城の武者の皆さん

本丸跡からの眺め

黒井城下館跡(現在の興禅寺)

 春日局(幼名お福)生誕地。春日局の父・斎藤利三は明智光秀の重臣でした

 

2019/04/28 訪城


尼崎城

2019年03月30日 | 兵庫県の城郭・環濠

  古来より、近畿と西国を結ぶ要所である尼崎には、戦国時代に細川高国によって城郭が築かれていた。豊臣時代からの尼崎郡代である建部政長は、元和元年(1615年)大坂夏の陣の戦功により、10,000石に加増され、諸侯に列し,尼崎藩を立藩するが、元和3年(1617年)播磨国林田へ転封となった。代わって、近江国膳所より戸田氏鉄が50,000石で入府し、幕命により、戦国時代の城跡に3重の堀をもち、本丸には4重の天守と3重の櫓をもつ尼崎城を築城した。

  尼崎城は、大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築城された城で尼崎城に直接舟が横付けできたことから、海に浮かんだような城であった。戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平忠喬(ただたか)が46,000石で入り、以後桜井松平家の支配が7代と続き、明治を迎えた。

 明治6年(1873年)の廃城令により、取り壊されが、家電量販店・旧ミドリ電化の創業者である安保詮(あぼあきら)氏が、約12億円の私財を投じて4層の城壁の大天守(高さ約24m)と2階建て多聞櫓の小天守が江戸中期の『尼崎城分間(ぶんげん)絵図』などを基に、鉄筋コンクリート造りで平成30年(2018年)11月に再現された。                              

[所在地:〒660-0826 兵庫県尼崎市北城内27]

アクセス>阪神電車・尼崎駅下車徒歩3分。

再現された天守閣

尼崎城の絵図

戸田左門氏鉄公の概説

再現された天守閣




2019/03/29  訪城


洲本城

2017年07月18日 | 兵庫県の城郭・環濠

 三熊山(標高約133m)に初めて城が築かれたのは室町時代後期の大永6年(1526年)で、紀州熊野水軍の一族である安宅治興が土塁や柵等で造った土の城であった。本能寺の変後の天正11年(1582年)、羽柴秀吉配下の武将仙谷秀久が城主となり、四国攻めの前進基地・水軍の城として石垣の城が築き始められました。天正13年(1585年)には同じく秀吉配下の武将の脇坂安治が城主となり、文禄・慶長の役の時期を含む、慶長14年(1609年)までの24年間の在城中、現在見られる洲本城が築かれ、大阪城や大阪湾、紀淡海峡を防衛する大阪城の出城としての役割を担いました。慶長15年(1610年)、池田輝政の三男、池田忠雄が淡路国を領有するが池田忠雄は由良城を新築し、洲本城へは入らず。元和元年(1615年)5月、大阪夏の陣で豊臣氏滅亡。池田忠雄は、備前岡山へ転付。阿波徳島城主の蜂須賀賀至鎮が淡路国を加増される。寛永8年(1631年)徳島藩(蜂須賀氏)の家老・稲田氏が洲本城城代になる。その後明治維新まで稲田氏が城代を務めた。明治5年(1872年)廃城令で洲本城が廃城となる。昭和3年(1928年)三熊山上に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して市民の寄付により鉄筋コンクリート製の模擬天守が建築された。そして平成11年(1999年)洲本城は国の史跡に指定された。

[所在地:兵庫県洲本市小路谷(三熊山)]

<アクセス>洲本バスセンターから徒歩約40分

                 車で、洲本ICより約20分

洲本城の概略図

大手門手前        大手門跡

馬屋(月見台)

 

南の丸南東隅櫓跡の石垣       ▼搦手口

 

本丸北の虎口       ▼本丸搦手と模擬天守

 

模擬天守         ▼本丸跡

 

本丸からの眺め

本丸南の虎口       ▼本丸搦手虎口

 

2017/07/08 訪城

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細川尚春、 三好長輝に滅ばされる   永正16年(1519年)

 淡路守護細川尚春、阿波細川氏(澄元)の被官で阿波の国人領主三好長輝に滅ばされる。三好長輝は、澄元の幕府管領就任に尽力し、淡路の実権を掌握して支配する。

三好長慶、淡路で挙兵   天文8年(1539年) 

 弟の安宅冬康を由良城において由良、洲本を拠点に三好水軍を組織。入京し主筋の細川氏(春元)を近江に追放(1550年)。のち足利義藤(のち改名し義輝)を将軍として京都に迎い入れる。

脇坂安治、洲本城主となる  天正9年(1581年)

 織田方の武将羽柴秀吉、淡路の三好氏(清康)を攻め滅ぼし、洲本城は羽柴秀吉の武将仙石秀久に預けられる。天正13年(1585年)脇坂安治が洲本城主(3万石)として入部。

庚午事変(稲田騒動)   明治3年(1870年)

 明治維新後の扱いに不服を申し立てた徳島藩洲本城代家老稲田家に対して、一部の徳島藩蜂須賀家臣が腹を立て屋敷を襲撃、政府は蜂須賀家側に刑法上最後となる切腹処分を下した。同年が干支で庚午(かのえうま、こうご)であったことから庚午事変と呼ばれる。


出石城

2017年04月17日 | 兵庫県の城郭・環濠

 天正2年(1574年),山名祐豊が標高321mの有子山山頂を天守とする有子山城を築き、麓には居館も築かれ城下町の体をなした有子山城を慶長9年(1604年)廃城とし、有子山城の山麓部を改修し出石城として小出吉英が築いた城である。平地部に堀で囲まれた三の丸が築かれ、二の丸、本丸、稲荷丸等の曲輪が階段状に設置され、このとき出石の城下町も整備された。元禄9年(1696年)小出氏が所領没収となり、代わって松平(藤井)忠周が入城。宝永3年(1706年)松平氏と仙谷政明らが国替えとなり、天保年間(1830年~44年)にお家騒動「仙谷騒動」が起こり、この仕置として、出石藩は5万8000石から 3万石へと大幅に減らされたが、廃藩置県まで仙谷氏の居城となった。

 明治に入り,廃城令で出石城の建物は取り壊されたが、堀、本丸、二の丸、稲荷曲輪等の石垣が現存している。また本丸の西隅櫓と東隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されています。

[所在地:兵庫県豊岡市出石町]

 <アクセス>JR山陰本線・豊岡駅から出石行きバスで約30分、終点下車。徒歩約5分。

出石城全景            

 元々は、山頂の本丸、麓の居館を合わせて「有子山城」と呼んだが、関ケ原の戦い後に、麓の居館部を改修して居館部を「出石城」とした。                     

              ▼登城橋

 

登城門          ▼二の丸の石垣

 

復興西隅櫓(西曲輪から見る姿)    ▼復興西隅櫓(本丸から見る姿)

 

復興東隅櫓(二の丸から見る姿)    復興東隅櫓(本丸から見る姿)

 

本丸跡          ▼辰鼓楼(旧三の丸大手門脇)

 

2017/04/13 訪城


篠山城

2014年10月27日 | 兵庫県の城郭・環濠

 篠山城は、慶長14年(1609年),篠山盆地の中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、西国の諸大名が動員され「天下普請の城」として築かれた平山城です。徳川家康は、豊臣家との戦いを前にして、西国諸大名が豊臣氏と連携することを恐れ、山陰方面からの援軍を遮断するため、篠山築城を命じた。縄張りは、藤堂高虎があたり、高度な石垣造営技術を誇る穴太衆(あのうしゅう)が動員され、当時における最高レベルの築城技術が利用された。松平康重が初代城主として配されたのをはじめ、譜代・親藩大名が歴代領主に名をつらね、青山氏6万石時代に、明治維新を迎えた。高石垣や水堀が今日に伝えられるとともに、平成12年(2000年),二の丸に大書院が復元された。現在、篠山城は、国の史跡に指定されています。

[所在地:兵庫県篠山市北新町]

アクセス>JR福知山線・篠山口駅下車。 「篠山口」から神姫バスで「二階町」下車(バス約15分)すぐ。

 

篠山城略図

 

外堀

 

表門跡         ▼鉄門(くろがねもん)跡

 

             ▼復元大書院

 

▼二の丸         二の丸井戸跡

 

本丸         ▼後方の石垣が天守台(本丸)

 

天守台からの眺め

 天守台からは南東の方向に篠山城の前身である八上城があった高城山が望めます。

 

2014/10/25 訪城

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武家屋敷群(お徒士町通り)

 

武家屋敷

 

小南家長屋門


八上(やがみ)城

2014年10月26日 | 兵庫県の城郭・環濠

  八上城(別名、八上高城)は、室町時代から戦国時代にかけて、丹波地方の有力国人である波多野氏が本拠地にした山城です。波多野氏は、応仁の乱の戦功によって多紀郡小守護代となり、永正5年(1508年)に、高城山(標高460m)の主峰部に八上城を築き本城とした。その西側の法光寺城は、八上城の支城である。天正3年(1575年),織田信長の丹波侵略の一環として、明智光秀に攻められ毛利氏の支援があったが、兵糧攻めにより天正7年(1579年)八上城は、落城し、波多野氏は滅亡した。この合戦で明智光秀の母(祖母とも)が磔になった城としても知られている。以後前田茂勝などが八上城へ入ったが、慶長14年(1609年)の篠山城築城により廃城となった。現在、八上城跡は、国史跡になっています。

[所在地:兵庫県篠山市八上内字高城山]

<アクセス>JR福知山線・篠山口駅下車タクシー

高城山(八上城跡)              ▼八上城(本城)と法光寺城(支城)

 

国史跡 八上城跡概要

八上城概略図

八上城の縄張り

八上城跡碑            ▼春日神社

 

 

春日神社から高城山(八上城跡)への登山道が整備されています。

 

2014/10/25  訪城

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足利尊氏、亀山篠村八幡宮で挙兵 元弘3年(1333年)

 討幕軍(2万余騎),京都市中の六波羅探題軍(6万余騎)を攻め、鎌倉方は近江へ敗走。

波多野氏、八上城を本拠とする 大永6年(1526年)

 多紀郡の土豪波多野氏、守護細川氏に叛し八上城に拠る。丹波国内に有力国人衆が割拠

八上城の戦    天正6年(1578年)

 東丹波に侵略してきた織田信長方の明智光秀と波多野秀治・秀尚が八上城で激突。明智光秀、波多野兄弟を安土城に伴うが、織田信長、波多野兄弟を処刑。八上城方、人質の明智光秀の母(祖母とも)を処刑。

戊辰戦争   慶応4年(1968年)

 倒幕の流を受け、丹波山国地域の農民らが、山国隊を結成、関東・奥州を転戦した。現在、10月の京都時代祭の先頭を飾る。


御着城

2014年05月26日 | 兵庫県の城郭・環濠

 御着城(別名、茶臼山城・天川城)は、永正16年(1519年),御着の茶臼山と呼ばれる5~6mの小高い丘上に、播磨守護赤松氏の家臣で姫路城代の小寺政隆によって築かれた平城で、赤松氏の一族、小寺氏の居城であった。亮禄3年(1530年),村宗の播磨侵攻で御着城が攻められ落城し、小寺政隆が自害する。しかし、亮禄4年(1531年)の中嶋の戦で村宗が戦死すると、小寺政隆の息子の小寺則職が御着城主に復した。そのころから、御着城を本城、姫路城を支城として、姫路城には家老の八代氏や黒田氏を城代として派遣していた。天正5年(1575年),織田信長軍の武将、羽柴秀吉が播磨に侵攻すると小寺則職の子、小寺政職は、当初織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏謀叛に同調し、毛利氏に鞍替えしたため、天正7年(1579年)羽柴秀吉軍2,000騎に攻められ落城した。その後、城割りが行われ廃城となった。現在は、本丸跡の一部が御着城公園になっています。

[兵庫県姫路市御国野町御着(旧・播磨国飾東郡)]

<クセス>JR山陽本線・御着駅下車徒歩約15分

御着城跡 案内図

御着城址碑

 

 

 

天川橋

  地形の中央部の低いところは、御着城の濠跡

黒田家の墓所(姫路市指定史跡)

 毎年,4月29日に黒田氏,小寺氏等の末裔達が集まり、先祖供養を行っておられます。

 

            ▼『天川城址、小寺城主之奥都城』の碑

昔、御着城が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)軍と戦い,戦死した

 御霊の菩提を弔うために建てたものである。

 

                                                       ▼小寺大明神

 

御着付近の史跡要図

2014/05/24 訪城


摂津・兵庫城

2014年05月26日 | 兵庫県の城郭・環濠

 兵庫城は、天正9年(1581年),織田信長軍の武将の池田恒興が、織田信長に謀叛をおこした荒木村重が籠る花隈城を落城させた(花隈城の戦)。その功により織田信長より兵庫の地を得て、その花隈城を廃し石材を転用して築かれた平城(海城)です。湊川の支流が縦横に走り天然の堀の役割を果たして、前面に港を持つ防御の拠点としての海城として築かれた。天正11年(1583年)池田恒興は、美濃国大垣城へ転封となり、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城した。元和元年(1615年9大阪城落城後は、尼崎兵庫一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城には、陣屋(兵庫津奉行所)が置かれた。明和6年(1769年)には、天領となり、陣屋が勤番所に改築された。明治以後、兵庫県庁がおかれ伊藤博文が初代知事となった。明治時代以降には兵庫港の大規模な改修や都市化により遺構は失われてしまった。現在、兵庫城址に案内看板と石碑が立っている。

[所在地:兵庫県神戸市兵庫区中之島(摂津国兵庫津)]

アクセス>JR西日本/神戸線・兵庫駅下車徒歩約15分

兵庫城址の案内板と石碑

 

 ▼兵庫新川運河

 

2014/05/24 訪城

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近くの『能福寺の兵庫大仏』と『平清盛塚』に参拝して帰りました

能福寺(能福護国密寺)      ▼兵庫大仏

 

兵庫大仏

 平成3年5月,多くの市民の強い要望により、市内の有力企業多数の協賛を得て実に47年ぶりに再建された真の「民衆立」の信仰大仏である。身丈11m、耳の長さ2.1m、蓮台3m,台座4m,地上よりの総高18m・重さ(蓮台共)60トンである。兵庫大仏は、奈良大仏・鎌倉大仏と共に日本三大佛に数えられている。

平清盛塚石造十三重塔(兵庫県指定文化財

清盛塚  

十三重塔             ▼平清盛像

 

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神戸事件   慶応4年・明治元年(1868年)

 徳川氏譜代の大名尼崎藩松平遠江守に備える為に、慶応3年12月下旬、備前藩主池田備前守(茂政)に、西宮警備を命じられ、翌4年(明治元年)正月元旦出動を命ぜられ、同5日までに 総勢2,000騎を繰り出した。その中軍の内・兵力約450騎及び大砲方を率いた一軍は、津高郡金川在住のの老臣、家老日置帯刀忠尚の軍勢で、陸路をとり、正月10日明石に宿営し、翌早朝出発して兵庫に入り、正午本陣に着いて昼食をとり、尚ほ進んで、三宮の森林にさしかかろうとした時に(午後2時),突如として備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったことに端を発した紛争で、アメリカ、イギリス、フランスの水兵・海兵が出撃。備前藩兵と銃撃戦。一時外国軍隊が神戸中心地を占領するまでに発展した事件。明治政府は、2月9日その隊列の隊長(第3砲隊長)であった備前藩士滝善三郎正信を兵庫県南仲町の永福寺で外国事務係・外国人代表の前で割腹自決させ、これによって解決を見た。備前藩家老日置帯刀忠尚は謹慎。この問題の行方によっては、神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態に進展する可能性があり、滝善三郎正信の犠牲によって危機回避がなされたことは、日本史上重大な事件であった。 


摂津・花隈城(はなくまじょう)

2014年05月25日 | 兵庫県の城郭・環濠

 花隈城は、永禄10年(1567年)、織田信長が、中国地方に勢力をのばす手段として、摂津の有力武将の荒木村重に命じて築かせた平城である。城の地点は、海に面して突き出したハナクマの名の通りの台地で、海陸の要害地である。天守閣、隅櫓を備え、東西約350m,南北約200mの城であった。のち天正6年(1578年)荒木村重が織田信長に叛いたため花隈城は、池田信輝らに攻められて、天正8年(1580年)8月2日ついに落城した。現在、花隈城の本丸跡に地下は駐車場、地上は花隈公園となっている部分に花隈城址と石碑がある。また模擬天守台、模擬石垣が復元されている。

[所在地:兵庫県神戸市中央区花隈町(花隈公園)]

<アクセス>JR西日本/神戸線・元町駅下車徒歩約5分

 

 

花隈城址碑

 

模擬天守台

 

             ▼模擬石垣

 

模擬石垣

 

2014/05/24 訪城


赤穂城

2013年10月28日 | 兵庫県の城郭・環濠

 赤穂城は、古くは、仮屋城と呼ばれていた。戦国時代に、宇喜多秀家が起工した城である。のち、姫路城池田輝政の持城となり、その子輝興が城主となった。しかし輝興が病んで改易、正保2年(1645年)に浅野長直が53,000石で移封されてきた。浅野長直は、13年の歳月をかけて、旧城を改造、寛文元年(1661年)に完成させる。その構造は、戦を強く意識し、複雑に折れ曲がる堀や石垣、角度を違える諸門に特徴があります。5層天主の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天主台のみが今日に残っている。浅野氏は、長矩の代に断絶。以後、城主は、永井氏(33,000石)が1代,森氏(20,000石)が、12代続いて明治維新となった。明治6年の廃城令で城内の建物は、破壊され、石垣・堀のみが残っていたが、現在、城跡は、大手門・大手隅櫓・本丸櫓門等が復元され、堀・石垣・本丸御殿跡・本丸庭園等もきれいに整備されて、国史跡に指定されています。

[所在地] 兵庫県赤穂市

アクセス>JR赤穂線・播州赤穂駅下車徒歩20分

国史跡・赤穂城跡図

大手門

大手隅櫓        ▼大石邸長屋門

 

             武家屋敷跡

 

赤穂城本丸門(手前は高麗門・奥は櫓門)

土塀・石垣と内堀    櫓 門

 

天主台跡        ▼本丸跡

 

本丸跡         ▼本丸庭園(国名勝)

 

厩口門(台所門) 浅野家時代は、厩口門、森家時代は、台所門と呼ばれていた。

石垣と内堀

 

石垣と内堀

 

西仕切門

遊水池         ▼石垣と外堀

 

2013/10/27 訪城

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赤穂市内略図          ▼大石内蔵助良雄像

                                                                              (播州赤穂駅前)

 

赤穂藩の上水道

 

息継ぎ井戸

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浅野家赤穂藩改易  元禄14年(1701年)

 浅野城主、浅野長矩(53,000石)が、高家筆頭の吉良義央を江戸城中に斬り、即日切腹、改易。

  浅野長矩公 即日切腹

  赤穂藩  ⇒改易

  吉良義央 ⇒咎めなし・・義央は、事件後に辞職、隠居。

      

浅野家再興の願い・・・・長矩の弟・浅野大学の閉門を解き、藩主と認めよ

       

 却下 👉閉門は解くが浅野本家に預ける藩再興も不可能となり、吉良義央の襲撃・殺害を決議した。

     

赤穂浪士討ち入り 元禄15年(1702年)

 元禄15年12月14日午前4時ごろ、火消し装束の赤穂浪士大石内蔵助良雄ら四十七士が吉良邸に討ち入り吉良上野介義央(よしなか)を討つ。浅野長矩公の無念をはらす。

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花岳寺(かがくじ)

 花岳寺は、正保2年(1645年)に浅野長直が父華獄院と母台雲院の菩提寺として建立した曹洞宗永平寺の末寺。以後、歴代藩主となる永井家、森家の菩提寺でもある。境内には、浅野家墓脾、森家墓脾、赤穂義士47人の墓脾がある。

花岳寺山門(赤穂城の西惣門)

鳴らずの鐘

 

 

本堂          二代目大石名残り松

 

赤穂義士の墓所

2013/10/27 訪問

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大石神社

 大石神社は、三の丸の一部の大石内蔵助及び藤井又左衛門の屋敷跡に大正元年(1912年)に建立された。赤穂歴代藩主、赤穂義士らを祀る神社。

2013/10/27  訪問


明石城

2013年06月28日 | 兵庫県の城郭・環濠

    明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国,但馬国への道が分かれ、海路で淡路島、四国へのルートがあり、古来より交通の要衛であった。そのために、徳川幕府は、西国の外様大名の抑えの城として,元和3年(1617年)、大阪の陣に戦功のあった譜代大名の小笠原忠真に普請費用として銀一千貫を与え、10万石規模の築城を命じた。本丸には、五重の天守閣が建てられる予定であったが、実現せず天守台のみが残った。寛永9年(1632年)小笠原忠真は、5万石を加増され15万石で豊前国小倉に移封になった。その後は、戸田氏、大久保氏、松平氏、本田氏と替わり最後は越前国大野から松平氏が入府して明治に至る。明治6年(1873年)の廃城令で、廃城となったが、明治16年(1883年)、明石町内有志により明石公園として整備された。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたが、現在、石垣、土塀そして2基の三重櫓が修復されています。

[所在地:兵庫県明石市明石公園]

<アクセス>JR明石駅から北へ徒歩5分

 

 

 

             坤櫓(左)  と 巽櫓(右)

 

坤櫓 (三重三階)国の重要文化財 巽櫓(三重三階)国の重要文化財

 伏見城の遺構と言われています    船上城の遺構と言われています

 

 

坤櫓(三重三階)     ▼巽櫓(三重三階)

 

帯郭と巽櫓

 

 2013/6/26 訪城

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明石城の戦  天文8年(1538年)

 尼子詮久(あきふさ) (のち晴久)の播磨攻略に対して、播磨守護赤松政村の家臣明石氏が叛き、赤松政村、淡路に敗走する。尼子氏、翌年から石見、安岐(毛利氏)を攻略する。          

中部幾次郎翁銅像


伊丹城(有岡城)

2013年05月24日 | 兵庫県の城郭・環濠

この辺りには、鎌倉時代の末期より関東御家人の居館があった。加藤七郎景助が、下野(栃木県)の足利尊氏に仕え、以後代々足利氏の家臣として室町時代に及んだ。そして加藤景助の五代孫の加藤景親が、摂津河辺郡伊丹の城主となり、その子孫ここに住んで、その地名の伊丹を性とした。室町時代、戦国時代通じて居館は拡充され、文明4年(1472年)には、小天守を持つ平城となった。天正2年(1574年)11月5日に織田信長の命を受けた荒木村重によって伊丹城は、攻め落とされ、のちに伊丹氏の伊丹城を大改修して有岡城に改称した。荒木村重は、有岡城主で摂津一国を任されたが、天正6年(1587年)11月毛利を通じて謀叛を起こす。,荒木村重方は、有岡城に龍城し、織田信長軍の攻撃を堅固な防衛を活かして1年余り持ちこたえたが、翌天正7年(1579年)12月遂に落城することになる。天正8年(1580年)池田之助が城主となるが、天正11年(1583年)池田之助が美濃に転封となり羽柴秀吉の直轄地となって、有岡城は、廃城になる。明治26年(1891年)鉄道敷設のため,当城東側が破壊される。現在、本丸部分は整備されて国の史跡の史跡公園になっている。                                                                                                                                                                                 

 [所在地:兵庫県伊丹市伊丹二丁目]

アクセス>JR宝塚線(福知山線)・伊丹駅下車すぐ

 

                                                                            有岡城跡碑(国の史跡)

 

本丸跡                      ▼本丸跡

 

有岡城石垣

   

遺跡建物跡         ▼井戸跡                      ▼井戸跡  

  

  

 2013/05/23 訪城

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伊丹

猪名川と武庫川間の伊丹段丘に築かれた伊丹城(伊丹市)。鎌倉時代末期、御家人の伊丹親盛が名をとどめていた。後、織田信長が畿内を制すると、天正2年(1574年)織田信長家臣の荒木村重が伊丹氏を追放して伊丹城を奪い、改築して有岡城とした。

 摂津の国人と配置図