感状山城は、兵庫県相生市の北部、矢野町瓜生と矢野町森のまたがる標高301mの感状山の尾根上に築かれた山城です。築城は、鎌倉時代の瓜生左衛門尉(うりゅうさえもんのじょう)とも、南北朝初期の赤松則祐(則祐)ともいわれ、赤松氏による広域城郭群の一つでした。
建武3年(1336年)、足利尊氏軍と後醍醐天皇方の新田義貞、北畠顕家軍が豊島河原(現在の大阪府箕面市、池田氏)で合戦に及び、敗れて九州へ落ちる足利尊氏軍を追討して来た新田義貞、北畠顕家軍の軍勢を赤松則祐が奮戦。新田義貞、北畠顕家軍を播磨で2ケ月近くにわたり赤松配下の感状山城、置塩城、龍野城などと連携して足止めした結果、足利尊氏は反撃の機会を得ることができました。
感状山城は、山頂部を中心にした総石垣造りの遺構は足利尊氏時代のものではなく、戦国時代のものとされ曲輪群、建物跡の礎石が残る。国指定史跡である。
【所在地:兵庫県相生市矢野町瓜生・矢野町森】
<アクセス>JR山陽線・相生駅から神姫バス「榊行き」に乗車し、「瓜生停留所」で降車して北へ徒歩約20分で、羅漢の里公園に着く。その公園から少し入ったとこに登山道があります。登山道口から城跡まで約45分。
▼感状山城の概略図【地元の資料・案内図】
▼登山口 ▼石垣跡
山頂まで伸びる整備された木の階段は、七曲がりの階段です
▼南曲輪群からの展望 ▼曲輪跡
▼南Ⅱ曲輪 ▼北Ⅱ曲輪
▼Ⅰ曲輪 ▼感状山城跡(標高301.05m)
▼出曲輪 ▼物見岩
2023/8/27 訪城
◆赤松則祐(円心) (1277~1350)
法名を円心という。元寇3年(1333年)、大塔宮護良親王の令旨を受けて挙兵。足利高氏(尊氏)とともに鎌倉幕府の六波羅探題を攻め滅ぼし、建武政権樹立の功労者となる。
軍功の恩賞は、いつの場合も難しいが、問題は配分の内容である。血を流し、命を張って戦った論考が、予想を下回るだけでなく、あきらかに不公平と思われるときは誰もが納得できない。
たとえば赤松則祐(円心)は、御醍醐帝帰還の先駆けとしてよく戦ったが、「佐用荘一所を賜う」のみで、播磨の守護は取りあげられた。佐用荘だけ残して播磨国の大部分を失うという恩賞である。その失ったものは新田義貞に渡ったのだが、赤松則祐(円心)としては納得できるはずがない。沙汰書を引き裂き、憤然として国へ帰ったという。
建武2年(1335年)、後醍醐天皇にそむいて足利政権樹立に参加、再び播磨守護となる。感応の擾乱では尊氏・高師直方についたが、九州地方から東上しようとする足利直冬との大戦前に、京都で急死。