nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

岡山城

2018年02月23日 | 岡山県の城郭・環濠

 南北朝時代の正平年間(1346年~1370年)、南朝の功臣名和氏の一族に連なる上神高直が岡山の地に城砦を構える。これが石山城で岡山城の前身だと考えられている。大永年間(1521年~1528年)、金光備前が在城し、金川城主松田氏に仕えていた。この時代の石山城は、多少の防御を備えた程度で城と呼ばれるほどの規模ではなかった。

 元亀元年(1570年)、この金光氏を滅ぼしたのが、室町末期勢力を伸ばした宇喜多直家であった。宇喜多直家の子・宇喜多秀家は、豊臣秀吉に従って57万石余を領すると、天正18年(1590年)、城の改修に着手して近世城郭となり、外観五重の天守を有する城を完成させ、このときに城名も岡山城となり、同時に整備された城下町も岡山と呼ばれるようになった。しかし宇喜多秀家は関ケ原の戦いに敗れて徐封。かわって入封した小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた。旭川河口部の丘陵部に築かれた城は旭川を天然の堀として利用し、城郭は2倍に拡張された。しかし明治維新の廃城令で天守・石山門・月見櫓・西の丸西手櫓を除く建物が壊され、さらに昭和20年(1945年)6月29日の米軍の岡山大空襲により天守と石山門も焼失する。

  しかし昭和35年(1960年)頃から岡山城再建の機運が高まり、昭和41年(1966年)に天守が鉄筋コンクリートで外見はほぼ旧来通りの姿で再建され、さらに不明門・廊下門・六十一雁木上門なども再建された。

[所在地:岡山県岡山市丸の内]

アクセス>JR岡山駅から徒歩約20分。

岡山城の概要

岡山城の略図

内堀からみた本丸     ▼目安橋

内下馬門枡形       ▼本丸中の段石垣

本丸下の段と不明門    ▼不明門

六十一雁木上門(要害門)  ▼廊下門

天守台の概要

天守

天守・・・米軍の空襲で焼失したが、戦後、鉄筋コンクリートで再建された。

月見櫓          ▼本丸中の段

 月見櫓は、現和元年(1615年)に岡山藩主となった池田忠雄が建てた。

 2018/02/13 訪城


岩国城

2018年02月19日 | 山口県の城郭・環濠

  慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いに敗れた毛利一族の吉川広家は、毛利家本家同様に石高を減らされ、出雲米子から岩国へと移され、所領も12万石から3万石に減らされた。吉川広家は、すぐに蛇行する錦川の流れによって築かれた段丘上に居館、背後の約216mの山上に四重六階の天守、本丸、二の丸、北の丸等を持つ詰城を慶長13年(1608年)に築き上げた。しかし、元和元年(1615年)、一国一城令により山上の城が破壊され、これ以降、岩国城は山魔の御土居とよばれる居館のみを陣屋として明治維新まで存続した。昭和37年(1962年)、天守構造図を参照に鉄筋コンクリートで唐造の美しい、四重の復興天守が本来の天守とは違う位置に再建された。錦川に架かる5連アーチの錦帯橋は、岩国城の城門橋である。

[所在地:山口県岩国市横山3丁目城山]

アクセス>JR山陽本線・岩国駅から「錦帯橋」までバス約20分。

      JR新幹線・新岩国駅から「錦帯橋」までバスで約15分。

      さらに。岩国城ロープウェイで山頂(模擬天守)へ

錦帯橋と復興天守      ▼錦帯橋

 

山魔(御土居)

 

御土居概略図       ▼錦雲閣(国の有形文化財)

 

   

岩国城ロープウェイで山上へ

城郭図          ▼大釣井(山上の水源の要となる井戸)

 

旧天守台(復元天守台)    ▼復興天守

 

復興天守

 再建を強く望む岩国市民の願いで、昭和37年(1962年)に鉄筋コンクリートで再建されました

 

天守からの眺め

2018/2/13 訪城