nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

恭仁京 (くにきょう) (740年~743年)

2013年09月25日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)10月、聖武天皇は、平城京を離れ、伊賀、伊勢、美濃、近江を行幸して、天平12年(740年)年12月5日、恭仁宮に入り遷都を宣言しました。山背国相楽郡の地を選ばれた理由は、左大臣・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されています。天平13年(741年)11月には、「大養徳恭仁大宮」という正式名称が決められ、大極殿は平城京から移築され、大宮垣が築かれ、そして宮殿が造られた。条坊地割りが行われたが、都として完成しないまま天平15年(743年)の末には、この京の造営は、中止されて、聖武天皇は、近江紫香楽宮に移り、さらに天平16年(744年)2月に難波京に遷都、さらに天平17年(745年)5月に都を平城京へ戻された。遷都後、宮城跡地は、山城国分寺として再利用されることになった。天平18年(748年)大極殿は、金堂に転用された。昭和32年(1957年)7月に「山城国分寺跡」として国の史跡に指定されたが、平成19年(2007年)2月6日には、なぜか? 史跡名称が、「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更された。現在は、広大な平原となっており、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残されています。

[所在地:京都府木津川市加茂町例幣]

アクセス>JR加茂駅西口より徒歩で約30分。

恭仁京大極殿址の碑  ▼大極殿(金堂)址

 

山城国分寺址恭仁宮址の碑 なぜか?恭仁宮址の文字が小さい!!

山城国分寺・七重塔跡の礎石

 

山城国分寺跡の広大な平原

山城国分寺の想像図・・・築地に囲まれているのが、金堂(大極殿)。右が七重塔。

2013/09/25 訪問

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藤原広嗣の乱  天平9年(737年)

 天平9年(737年),武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の藤原四兄弟がそのころ大流行した天然痘に冒され、相次いで没した。その後に台頭したのは、聖武天皇が抜擢した三羽ガラスの右大臣橘諸兄と大陸帰りの秀才玄坊・吉備真備であった。翌年末、藤原宇合の子藤原広嗣は、突如、大宰府の少弐に左遷された。このころの都の貴族にしてみれば、九州は僻遠の地であり、そこの官人になって下ることは、文字どおり「都落ち」であった。しかし、当時二十代の藤原広嗣は、失意に沈んでいるヤワな人間ではなかった。天平12年(740年)8月29日、太宰少弐藤原広嗣の上表文が都に届いた。そこには天変地異の続出は政治が悪いからだとし、玄坊・吉備真備を処分するよう書かれていた。続いて9月3日,大宰府管内九州三島の兵を動員して反乱を起こした情報が入り。聖武天皇は、直ちに大野東人を総司令官に任命して17,000騎の追討軍を編成して西下させた。追討軍と反乱軍の藤原広嗣の本隊10,000騎は、10月9日,豊前国(現在の福岡県)企求郡で会戦した。この時、追討軍に従軍していた勅使(天皇の使者)が藤原広嗣と舌戦し、藤原広嗣は答えに窮して引っこんでしまった。それで反乱軍は、動揺し、その後の戦いは、追討軍の完全な勝利に終わったのである。藤原広嗣らは、逃亡したが、10月23日,五島列島の僻島で捕えられ、11月1日には処刑された。藤原広嗣の乱は、聖武天皇の政治に対する大規模な反乱だったのである。


金剛登山口から金剛山へ

2013年09月22日 | 登山と渓谷

2013/09/22 金剛山に登山に行ってきました。  

                    金剛山▲ 標高1,125m

[登山コース]   金剛登山口・・・(千早本道)・・・金剛山山頂・・・転法輪寺・・・葛木神社・・・展望台・・・香楠荘・・・金剛山駅・・・[金剛山 ロープウエイ]・・・千早駅

金剛登山口から金剛山頂へ

 

金剛山頂までの中間地点

 

 

金剛山頂(国見城跡)  ▼転法輪寺

 

葛木神社

 

②展望台へ

 

展望台からの眺め  

 

香楠荘         ▼千早駅

  

 ▼金剛ロープウエイに使用されているワイヤー


大津宮(667年~672年)

2013年09月14日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 大津宮は、667年に天智天皇が飛鳥から近江へ宮を遷して造営したものです。近江大津宮ともいわれている。660年、百済が新羅と唐の連合軍に攻められて亡んだ。百済は,倭国(日本)にとって同盟国であり、国外にある防波堤であったため、時の倭国(日本)の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、663年の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は新羅・唐連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。百済復興戦争の敗北は、対外関係上の猛威を抱えることとなり、九州北部から近畿にかけて多数の山城や防衛施設を設けた。そして、国外の猛威に対抗する政治体制を新たに構築するために、中大兄皇子は、667年3月19日、宮を抵抗勢力の多い大和の飛鳥岡本宮から近江大津宮へ遷した。671年に天智天皇が没すると、天皇の子の大友皇子(弘文天皇)が大津宮を嗣いだが、壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に敗れ、勝った大海人皇子は皇位継承し天武天皇となり飛鳥に飛鳥浄御原宮を造営したため、大津宮はわずか5年余りしかつかわれなかった。現在は、国指定の遺跡として整備されている。

[所在地:滋賀県大津市錦織]

アクセス>JR湖西線大津京駅下車徒歩10分

 

内裏正殿建物復元図

 

2013/09/12 訪問

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 疑問 Rの最寄りの駅名大津宮ではなく大津京でしたなぜ? 

 理由  大規模な条坊制をともなったものを「京」と言うが、大津宮は、「京」といえる程の規模ではない。

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 壬申の乱・瀬田川の戦い 弘文元年(672年)

 天智天皇後の皇位争いで、近江朝、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)が、近江国の瀬田川で戦い、大津宮陥落。大友皇子自害。翌年、大海人皇子は飛鳥浄御原(あすかきょみがはら)宮で即位し天武天皇となる。              

 近江神宮・・・大津宮の北側にあります。

  創建は、意外と新しく、昭和15年(1940年)で、第38代天智天皇を祀っている神社。


長岡宮跡 (784年~794年)

2013年09月14日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 長岡京は、平安時代の初期、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市)に置かれた都城。桓武天皇は、延歴3年(784年)11月11日に平城京から長岡京に遷都し、延歴13年(794年)10月22日に平安京に遷るまで都にした。長岡京遷都の理由として、①既存の仏教勢力や貴族勢力に距離を置く,②新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係,③父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人身一新等が理由と歴史学者は言っているが、平城京が廃都になった最大の理由は、人口が20万人と増えすぎ、物質の輸送に有利な水運の便を欠いたのと水不足による衛生上の問題が最大の原因であった。これに対し、長岡京の山崎津や淀津には、当時大洋や瀬戸内海を航行する船がそのまま遡航(そこう)してくることができた。また天皇の信任の厚い藤原種継の母や藤原小麻呂の妻の実家は、山城の葛野(かどの)郡や乙訓郡に居住する裕福な渡来系氏族秦氏で、この一族が遷都に協力を申し出て、誘致に努力した。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移転するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は、朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。しかし、785年9月には遷都の首唱者の藤原種継が暗殺され、これに関係したとされる桓武天皇の皇太弟早良親王の廃太子事件が起きた。ところが、完成近かった都も洪水や政争が続き、早良親王の怨霊に悩まされた桓武天皇によって,遷都わずか10年後の延歴13年(794年)に平安京へ都を遷すこととなったのである。現在、長岡宮跡は、国指定史跡となっています。

[所在地:京都府向日市鶏冠井(かいで)町]

アクセス>阪急電鉄京都線西向日駅下車徒歩5分

  

長岡宮朝堂院跡

 朝堂院は、宮の中心にある国家の政務・儀式を行う場所です。唐の長安城がモデルと言われ、東西に4つずつ、計8つの堂がありました。平成4年(1992年)、国の史跡に指定され、現在は、朝堂院公園となっています。

 

長岡宮概略図

長岡宮大極殿復元図・・・回廊に囲まれた殿舎が大極殿。

 大極殿は、朝堂院で行われる政治・儀式の際、桓武天皇が座る場所でした。昭和39年(1964年)国の史跡に指定されました。

長岡宮宝幢跡

宝幢(ほうどう)

 元旦や即位式にのぼり旗を立てる「宝幢」の赤い柱が大極殿の正面(南側)に復元されています。

 

  

2013/09/12 訪問


茨木城

2013年09月13日 | 大阪府の城郭・環濠

 建武の新政で楠正成の領地となり、建武年間(1334年~1336年)に楠正成によって築かれたとも言われているが、定かではない。南北朝の争乱が終り、室町時代になると地侍、土豪といわれる小領主たちが、領土支配のための城館を築き、地域の有力者と呼ばれる国人に成長する。15世紀前半には、摂津の国人として茨木氏の名が出てくる。永禄11年(1568年)城主茨木佐渡守は、摂津に侵攻した織田信長に降り領土を安堵された。しかし、茨木氏は、元亀2年(1571年)池田氏との戦に敗れ滅んだ。その後、天正5年(1577年)には荒木村重の家臣の中川清秀が7万石の城主で入城した。荒木村重の謀叛に際しては中川清秀は、はじめ荒木村重方に付いて城の防備を固めたが、織田信長方の説得により織田信長方に降りた。天正11年(1583年),賤ケ岳合戦では、柴田勝家方の佐久間盛政の猛攻を受けて奮闘の末に自決して果てた。中川清秀の後、茨木城は、嫡男中川秀政(5万石)が継いだ。天正13年(1585年),播磨三木城(6万5千石)に移る。中川氏転出後の茨木城は、豊臣秀吉の直轄となり、代官預かりとなる。関ヶ原の合戦の翌年の慶長6年(1601年),茨木城の新領主として片桐且元、貞隆兄弟が1万2千石で入城した。片桐且元は、元和元年(1615年)の大坂の陣の後、茨木と大和龍田4万石を領して茨木城を居城とするが同年没する。後継いだ片桐孝利は大和龍田へ、片桐且元の弟片桐貞隆は大和小泉に移り、茨木城は廃城となった。

[所在地:大阪府茨木市片桐町(茨木小学校)]

アクセス>JR東海道線茨木駅下車徒歩20分。又は阪急電鉄京都線茨木駅下車徒歩15分。

茨木城復元櫓門(木小学校の正門)

大和小泉の慈光院に移築された櫓門を瓦葺きで復元したのである。

茨木城搦手門(茨木神社の東門)

 茨木神社の東門が、茨木城の『搦手門』を移築したものである

茨木城櫓門(慈光院の山門)

 茨木城より移築して、屋根を書院に合わせて茅葺きに葺き替えて当院の山門にした。

  

茨木城址図(明治初年)

2013/09/12 訪城

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摂津の国人と配置図

茨木氏

 茨木(現在の茨木市片桐町・上和泉町他)。居館跡は、片桐且元の茨木城と同じ。細川氏被官。文明14年(1482年)に細川政元の攻撃を受け、庶流が家督を継ぐ。天文年間(1532年~1555年),茨木長隆は、細川晴元の代官として活躍。元亀2年(1571年)、池田氏との戦で敗れ滅亡した

中川 清秀 (1542~1583)

 摂津の人。荒木村重に属し茨木城主。天正6年(1578年)荒木村重の謀叛に従ったが、間もなく織田信長に降参。本能寺の変後、羽柴秀吉に合流して山崎の戦に参加。その後も豊臣秀吉に属し、賤ケ岳の戦に従事。佐久間盛政の攻撃を受けて討ち死にした。


池田城

2013年09月07日 | 大阪府の城郭・環濠

 池田城は、大阪府池田市の城山町周辺の標高50mの高台に、室町時代から戦国時代にかけて、旧豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた摂津の有力国人池田氏によって築かれた平山城で池田氏の居城です。築城当初は、主郭(本丸)と小さな曲輪の小規模の城であった。その後、池田城は、多くの落城の憂き目にあい、その都度堀を広げ、周りに土塁や連郭式の曲輪を設け防衛効果を高めていった。永禄11年(1568年)の織田信長の上洛後の摂津制圧に際して三好三人衆方の国人として、池田勝正は、憶することなくこれに立ち向かい抵抗したが、織田軍の攻撃を受け降伏する。その後、池田勝正は織田信長に登用され織田信長の家臣(6万石の池田城主)となった。その後、池田氏内紛に乗じて旧家臣の荒木村重が主君の池田氏を下剋上で倒し、池田城を支配し、果ては戦国大名まで成りあがった荒木村重が、伊丹城(有岡城)を居城としたため池田城は、廃城となった。現在は、池田城跡公園としてきれいに整備され,園内には、木造伝統工法の模擬櫓および模擬大手門等が復元されています。

[所在地:大阪府池田市城山町]

アクセス>阪急電鉄宝塚線池田駅下車徒歩15分

池田城の概要

模擬大手門(東門)

池田城址碑   ▼東門

 

模擬櫓(木造伝統工法造り)

模擬櫓からの眺め()   ▼模擬櫓からの眺め(城内)

 

模擬櫓からの眺め(城内)   ▼模擬櫓からの眺め(城外)

 

空堀                                  ▼空堀

 

             虎口門

 

             西門

 

 2013/09/06 訪城

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池田貞正、池田城に自刀  永正5年(1508年)      

 細川高国と細川澄元の家督争いに巻き込まれ、池田貞正は、細川澄元に加担する。結果、細川高国の軍勢に攻められ、池田城落城して当主池田貞正以下数十名が切腹、その後、池田貞正の嫡子池田久宗が池田城を奪回し、以後落城再建を繰り返す。  

摂津の国人と配置図

荒木村重 (1535年~1586年) 

 荒木村重は、丹波の波多野氏の一族です。摂津の池田知正の臣であったが、織田信長が足利義昭と対立した時、織田信長の下に馳せつけ、以後これに従う。その後、池田氏内紛に乗じて旧主君の池田氏を下剋上で倒し、池田城を支配し、更に天正2年(1574年)11月,織田信長の命により伊丹城を攻めて伊丹氏一族を滅ぼしました。織田信長から伊丹城を与えられ、入城後、有岡城と改名し、有岡城主で摂津一国を任せられた。以後織田信長の臣下として、毛利軍や石山本願寺攻めを担当。しかし、天正6年(1578年)11月、毛利氏に通じて謀叛を起こす。その後、有岡城は、約1ケ年織田信長の攻囲をうけ、翌年11月に落城した。その間、荒木村重は単身で尼崎へ逃れて、織田信長の誘降に応ぜず、ために有岡城落城。一族・家臣・小者に至るまでことごとく処刑された。後、豊臣秀吉のお伽衆として仕えます。茶道にもすぐれ堺に移り住み、天正14年(1586年)病死した。


難波宮跡(645年~793年)

2013年09月07日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 難波宮跡は、飛鳥時代・奈良時代の難波(なにわ)にあった宮殿の跡です。乙巳(いつし)の変で蘇我氏が滅亡したのち,孝徳天皇が、大化元年(645年)に難波に遷都し、652年に完成させた前期難波宮と、奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が、藤原宇合に命じて難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした後期難波宮が、ほぼ同じ場所で営まれていた。784年,桓武天皇により、長岡京に遷都された際、大極殿等の建物が長岡京に移築された。793年に難波宮が廃止される。現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり園内には、復元された前期難波宮の八角殿跡や後期難波宮の大極殿基壇などが復元されています。

[所在地:大阪市中央区法円坂1] 

アクセス>地下鉄(谷町線)谷町四丁目駅下車東へ徒歩約5分

前期難波宮

 前期難波宮は、全ての建物が、掘立柱構造で、屋根瓦を葺かない建物であった。

    

後期難波宮 

 後期難波宮では、天皇が祭りごとをする中心の建物として「大極殿」が建てられました。建物は、基石造りとなり、屋根には瓦が使用された。

         儀式

 

史跡難波宮跡の全景

史跡難波宮跡入口付近  ▼回廊跡

 

大極殿基壇       ▼八角殿跡

大極殿は、天皇が祭りごとする中心の建物

 

2013/09/06 訪問

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乙巳(いつし)の変  大化元年(645年)

 新興豪族の蘇我氏が、渡来人の東漢人のバックアップを受けて、587年最大豪族の物部氏を倒し、豪族たちを主導して飛鳥朝廷を確立していきました。蘇我氏の勢いに危機感を持った中大兄皇子は、飛鳥寺の蹴鞠の席で、中堅豪族の中臣鎌足と知り合い、大化の改新の盟約をする。中大兄皇子の命により巨勢臣徳陀(こせのおみとこだ)が蘇我氏の最大の軍事氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)を説得して中大兄皇子の味方に付けてから、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を暗殺した。入鹿一族は、屋敷に火を放って自殺した。ここに蘇我氏総本家は、滅亡した。

大化の改新  大化元年(645年)

 乙巳(いつし)の変のあと、外国にも対抗できる「天皇を中心とした新しい国づくり」をはじめようとした。

 1. 蘇我氏やこれに味方した豪族の影響を避け

 2. 新しい宮殿で、国内や外国に天皇の力を示し

 3. 海と川の水運のかなめの地で、人の往来や全国各地から品物を運んでくれる便利な所を求めて、都を『飛鳥』から『難波』に移しました。

 このようにして、新しい政治の仕組みを作り、古代における近代的な『国作り』を『難波宮』から始めました。これを『大化の改新』と呼ばれています。

◆大化の改新のポイント◆

①天皇や豪族が支配していた「人と土地」を天皇(国)が直接支配する。[公地公民の制]

②都と地方制度を定める。日本を国と郡に分割して統治する制度[国・郡制度]

③戸籍を作成し人口調査を行う。公地を公民に貸し与える制度[班田収授の法]

④税制を定める。公民に税や労役を負担させる制度[租庸調制]

⑤役人の仕事をする時間帯(日の出から正午まで)を定める。

⑥孝徳天皇が仏教を熱心に信仰した。