nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

七尾城

2018年03月17日 | 石川県の城郭・環濠

  石動山系北端の標高300mの尾根に築かれた七尾城。能登守護・畠山氏の居城で、16世紀前半には全国の戦国大名の本城の中でも5指に入る壮大な規模を誇った。7代畠山義総の死後、天文19年(1550年)、重臣遊佐続光と重臣温井総貞の対立で能登天文の内が発生して畠山氏が凋落に向かった。

  天正5年(1577年)上杉謙信に攻められ、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛らの裏切りにより七尾城は開城し、能登畠山氏は滅亡した。その後七尾城には、上杉氏の家臣である鰺坂長実が城代として入るが、天正7年(1579年)、遊佐続光が今度は上杉氏を裏切って七尾城城代の鰺坂長実を追放し、七尾城を占拠した。だが、その2年後の天正9年(1581年)には,織田信長の侵攻で能登は征服され、織田信長より能登一国を前田利家に与えられ七尾城に入城する。

 天正10年(16582年)前田利家は七尾城から小丸山城に移る、さらに天正11年(1583年)、加賀を与えられて金沢城へ移った。天正17年(1589年)には七尾城は役目を終え、廃城となった。

 昭和9年(1934年)、七尾城が国の史跡に指定された。現在、曲輪・石垣・土塁・空堀などが残っています。

[所在地:石川県七尾市古城町]

<アクセス>①JR七尾駅から市内循環バス『まりん号』で約15分「城史資料館前」下車。城史資料館から七尾城本丸跡まで徒歩約60分。

         ②JR七尾駅から七尾城跡(本丸駐車場)まで車で約15分(約7Km)

七尾城の概要

七尾城の縄張り概略図

七尾城中心部復元図

堀切リ(関東堀)

調度丸跡

 弓矢などの武具を備えた場所とされる。

本丸の石垣

本丸跡

本丸跡

七尾城本丸からの眺望

 本丸は標高約300mの尾根に位置し、北面に視界が開けている。眼下の海は七尾南湾で、その向こうには能登島が見える。

桜馬場跡

桜馬場跡

二の丸跡

二の丸の復元図

二の丸跡

2018/03/15 訪城


金沢城

2018年03月17日 | 石川県の城郭・環濠

 犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に、天文15年(1546年)、石山本願寺の支院金沢御堂が創建された。天正8年(1580年)、織田信長の命により柴田勝家・佐久間盛政が金沢御堂を攻略し、その地に佐久間盛政が尾山城を築いた。賤ケ岳の合戦で柴田勝家についた佐久間盛政が処刑され、前田利家に尾山城が与えられた。その後二の丸・三の丸などの曲輪を拡張し、総構を築いて加賀、越中、能登の3ケ国120万石にふさわしい天守のある近世城郭金沢城と城下町を整備した。慶長7年(1602年)天守は落雷で焼失したが、以後再建されることはなかった。

 明治4年(1871年)の廃城令で、金沢城の不要な建物や門などが取り壊されましたが、現在、金沢城公園として整備され、二の丸の菱櫓・橋爪・橋爪門続櫓・五十間長屋などが復元されています。

[石川県金沢市丸の内]

<アクセス>①JR金沢駅からバス

      ②JR金沢駅からタクシ約10分。

金沢城の概略図

石川門…金沢城の裏門である。  石川門の櫓門

 表門(中央)、二重櫓(左)、櫓門の屋根(右)

 

五十間長屋

 左右に長く延びる五十間長屋。二重の多門櫓で、左手は橋爪門続櫓、右手は菱櫓。

橋爪門続櫓        菱櫓

  

二の丸

 

極楽橋          三十間長屋

二の丸と本丸の間にある空堀に架かる橋

 

2018/03/16 訪城


小松城

2016年11月25日 | 石川県の城郭・環濠

 戦国時代の長亨2年(1488年)、加賀の一向一揆が守護富樫政親を滅ぼし、分家の富樫泰高を名目だけの守護とした。こうして、実質的に加賀を支配するようになった。加賀一向一揆は、ほどなく、隣国越前の朝倉氏と対立するようになった。小松城は、加賀一向一揆が自衛のために築いた城である。元和の一国一城令で廃城とされたが、寛永16年(1639年)、第3代金沢藩主・前田利常が隠居城とするために整備された。広大な池に小さな島が点在するような立地で、その島々を一つの曲輪とし、それぞれをつないで縄張りとした。本丸には石積みによる天守台が築かれ、数寄屋造の天守が建てられた。以後明治の廃城令まで存続した。現在、天守台の石垣だけが当時の面影を残す。

[所在地:石川県小松市丸の内]

アクセス>JR北陸線・小松駅下車徒歩約20分

小松城の概略図

石垣

 

              ▼天守台石垣

 

天守台石垣

 天守台は南辺10間余り,東辺9間余りである。

 

2016/11/16 訪城