nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

御着城

2014年05月26日 | 兵庫県の城郭・環濠

 御着城(別名、茶臼山城・天川城)は、永正16年(1519年),御着の茶臼山と呼ばれる5~6mの小高い丘上に、播磨守護赤松氏の家臣で姫路城代の小寺政隆によって築かれた平城で、赤松氏の一族、小寺氏の居城であった。亮禄3年(1530年),村宗の播磨侵攻で御着城が攻められ落城し、小寺政隆が自害する。しかし、亮禄4年(1531年)の中嶋の戦で村宗が戦死すると、小寺政隆の息子の小寺則職が御着城主に復した。そのころから、御着城を本城、姫路城を支城として、姫路城には家老の八代氏や黒田氏を城代として派遣していた。天正5年(1575年),織田信長軍の武将、羽柴秀吉が播磨に侵攻すると小寺則職の子、小寺政職は、当初織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏謀叛に同調し、毛利氏に鞍替えしたため、天正7年(1579年)羽柴秀吉軍2,000騎に攻められ落城した。その後、城割りが行われ廃城となった。現在は、本丸跡の一部が御着城公園になっています。

[兵庫県姫路市御国野町御着(旧・播磨国飾東郡)]

<クセス>JR山陽本線・御着駅下車徒歩約15分

御着城跡 案内図

御着城址碑

 

 

 

天川橋

  地形の中央部の低いところは、御着城の濠跡

黒田家の墓所(姫路市指定史跡)

 毎年,4月29日に黒田氏,小寺氏等の末裔達が集まり、先祖供養を行っておられます。

 

            ▼『天川城址、小寺城主之奥都城』の碑

昔、御着城が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)軍と戦い,戦死した

 御霊の菩提を弔うために建てたものである。

 

                                                       ▼小寺大明神

 

御着付近の史跡要図

2014/05/24 訪城


摂津・兵庫城

2014年05月26日 | 兵庫県の城郭・環濠

 兵庫城は、天正9年(1581年),織田信長軍の武将の池田恒興が、織田信長に謀叛をおこした荒木村重が籠る花隈城を落城させた(花隈城の戦)。その功により織田信長より兵庫の地を得て、その花隈城を廃し石材を転用して築かれた平城(海城)です。湊川の支流が縦横に走り天然の堀の役割を果たして、前面に港を持つ防御の拠点としての海城として築かれた。天正11年(1583年)池田恒興は、美濃国大垣城へ転封となり、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城した。元和元年(1615年9大阪城落城後は、尼崎兵庫一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城には、陣屋(兵庫津奉行所)が置かれた。明和6年(1769年)には、天領となり、陣屋が勤番所に改築された。明治以後、兵庫県庁がおかれ伊藤博文が初代知事となった。明治時代以降には兵庫港の大規模な改修や都市化により遺構は失われてしまった。現在、兵庫城址に案内看板と石碑が立っている。

[所在地:兵庫県神戸市兵庫区中之島(摂津国兵庫津)]

アクセス>JR西日本/神戸線・兵庫駅下車徒歩約15分

兵庫城址の案内板と石碑

 

 ▼兵庫新川運河

 

2014/05/24 訪城

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近くの『能福寺の兵庫大仏』と『平清盛塚』に参拝して帰りました

能福寺(能福護国密寺)      ▼兵庫大仏

 

兵庫大仏

 平成3年5月,多くの市民の強い要望により、市内の有力企業多数の協賛を得て実に47年ぶりに再建された真の「民衆立」の信仰大仏である。身丈11m、耳の長さ2.1m、蓮台3m,台座4m,地上よりの総高18m・重さ(蓮台共)60トンである。兵庫大仏は、奈良大仏・鎌倉大仏と共に日本三大佛に数えられている。

平清盛塚石造十三重塔(兵庫県指定文化財

清盛塚  

十三重塔             ▼平清盛像

 

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神戸事件   慶応4年・明治元年(1868年)

 徳川氏譜代の大名尼崎藩松平遠江守に備える為に、慶応3年12月下旬、備前藩主池田備前守(茂政)に、西宮警備を命じられ、翌4年(明治元年)正月元旦出動を命ぜられ、同5日までに 総勢2,000騎を繰り出した。その中軍の内・兵力約450騎及び大砲方を率いた一軍は、津高郡金川在住のの老臣、家老日置帯刀忠尚の軍勢で、陸路をとり、正月10日明石に宿営し、翌早朝出発して兵庫に入り、正午本陣に着いて昼食をとり、尚ほ進んで、三宮の森林にさしかかろうとした時に(午後2時),突如として備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったことに端を発した紛争で、アメリカ、イギリス、フランスの水兵・海兵が出撃。備前藩兵と銃撃戦。一時外国軍隊が神戸中心地を占領するまでに発展した事件。明治政府は、2月9日その隊列の隊長(第3砲隊長)であった備前藩士滝善三郎正信を兵庫県南仲町の永福寺で外国事務係・外国人代表の前で割腹自決させ、これによって解決を見た。備前藩家老日置帯刀忠尚は謹慎。この問題の行方によっては、神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態に進展する可能性があり、滝善三郎正信の犠牲によって危機回避がなされたことは、日本史上重大な事件であった。 


摂津・花隈城(はなくまじょう)

2014年05月25日 | 兵庫県の城郭・環濠

 花隈城は、永禄10年(1567年)、織田信長が、中国地方に勢力をのばす手段として、摂津の有力武将の荒木村重に命じて築かせた平城である。城の地点は、海に面して突き出したハナクマの名の通りの台地で、海陸の要害地である。天守閣、隅櫓を備え、東西約350m,南北約200mの城であった。のち天正6年(1578年)荒木村重が織田信長に叛いたため花隈城は、池田信輝らに攻められて、天正8年(1580年)8月2日ついに落城した。現在、花隈城の本丸跡に地下は駐車場、地上は花隈公園となっている部分に花隈城址と石碑がある。また模擬天守台、模擬石垣が復元されている。

[所在地:兵庫県神戸市中央区花隈町(花隈公園)]

<アクセス>JR西日本/神戸線・元町駅下車徒歩約5分

 

 

花隈城址碑

 

模擬天守台

 

             ▼模擬石垣

 

模擬石垣

 

2014/05/24 訪城


J.フロント リテイリング株式会社の株主総会

2014年05月22日 | 株主総会

平成26年(2014年)5月22日(木曜日)午前10時からの「J.フロント リテイリングの第7期定時株主総の中継に大阪心斎橋店 (北館14階大丸 イベントホール)に行ってきました。株主総会は、午前11時21分に閉会しました。

会社説明によると、当期は、売上高4.9%増、営業利益35.5%増、経常利益25.8%増、純利益159.1%増と全て増収、増益になりました。当期の配当金は、間11円(昨年比2円の増配)。

経済状況、社会の変化に機敏に対応できる社内づくりで、既存事業の収益力を上げる。当面は、営業利益500億円を目指す。

来期の配当金は、年間12円(1円増配)の予定(連結配当性向30%以上を基本方針としている)。

[株式併合の実地]・・・発行する普通株式について、2株を1株に併合する。単元株式数も1,000株から100株に変更する。当社株式の投資単位は、従来に比して5分の1の水準となる。株式併合の効力発生日は、平成26年9月1日

2014/5/22の株価終値は720円。株式の平均買値は430円で株価アップ率は67.4%。 

1株純資産=701.26円       PBR=1.03         PER=20.0

投資利回り=12円/430円=2.79%+株主優待 

    株式全株売却 譲渡差益37万円余


葛城高原のつつじ

2014年05月19日 | 紅葉

2014/05/18  奈良県御所市の葛城高原のツツジを見に葛城山へ登山に行ってきました。

      葛城山 標高959.7m 

<登山コース> 近鉄・御所駅⇒⇒奈良交通バス(約20分)⇒⇒葛城山登山口駅・・・櫛羅の滝・・・二の滝・・・葛城高原自然つつじ園・・・葛城山山頂

葛城登山口駅(ロープウエイ)葛城登山口駅の右手からスタート

 

櫛羅の滝(不動の滝)のコースを行く

   

櫛羅の滝(不動の滝)

 

もどって葛城山頂コースへ

  

二の滝(行者の滝)へ

 

二の滝(行者の滝)                          ▼来た道をもどる(目標位置4へ)

  

葛城山コースへ

 

 

 

葛城高原自然つつじ園

 

葛城高原つつじ園

 

 ▼葛城公園つつじ園

 

 ▼つつじ

 

            ▼かつらぎ高原ロッジ

 

            ▼葛城山頂(標高 959.7m

 

葛城山頂から大和三山を望む 

 

 帰りは、ロープウエイで下山する予定でしたが、人出が多く、ロープウエイの待ち時間が2時間以上のため、登って来た道を徒歩で下山しました。(下山に要した時間は約60分でした)


虎御前山城

2014年05月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 元亀元年(1570年)6月、姉川合戦において織田信長軍に敗退した浅井軍は、小谷山城に籠城。織田信長は、横山城に前線基地を置き、浅井氏攻略を計りましたが、元亀3年(1572年)7月以降は、小谷城の眼前にまで包囲網を縮小し、標高約230mの虎御前山に城を構え、持久戦に備えました。7月27日から築城を開始し、8月中に城は完成しました。虎御前山は、四方の見通しがきく独立丘陵で、小谷城のすぐ南面に位置するため最前線基地を築くのに適していました。虎御前山の尾根上には古墳が点在しているため、織田信長はこれらの古墳をうまく利用して砦を築きました。尾根の南から多賀貞能砦・蜂屋頼隆砦・丹羽長秀砦・滝川一益砦・堀秀政砦・織田信長本陣砦・木下秀吉砦・柴田勝家砦と虎御前山の稜線にそって砦が築かれてました。こうして最初の攻撃からおよそ3年の月日を要した小谷城攻略ですが、天正元年(1573年)8月浅井氏滅亡、小谷城落城後、虎御前山城は廃城となりました。現在、虎御前山の約2kmのハイキングコースが整備されています。

[所在地]滋賀県長浜市湖北町別所~中野町

アクセス>JR北陸本線・虎姫駅又は河毛駅下車徒歩約15分

虎御前山

虎御前山城略図

矢合神社

 

瀧川一益陣地跡

 

堀 秀政陣地跡

 

織田信長陣地跡          ▼織田信長陣地想定図

 

 ▼織田信長陣地略図

織田信長本陣跡より望む

 この織田信長陣営は、秀吉の砦以外はすべて小谷城を背(南向き)にして攻撃の構えがある。木下秀吉の砦が一番堅固であった

木下秀吉陣地跡(砦跡      大曲輪

 

土塁                 かざし堀

 

木下秀吉陣地跡(砦跡)より小谷山(小谷城跡)を望む

2014/05/09 訪城


丁野山城

2014年05月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 丁野山(よおのやま)城は、永正15年(1518年)、浅井亮政(すけまさ)が築いた城で、別名、岡山城ともいわれる。織田信長の侵攻に備えて、天正元年(1573年)浅井氏の援軍、朝倉方の堀江勘助、久保田勘十郎、平泉寺玉泉坊らの兵がはいる。織田信長に攻められ、8月13日落城。現在でも郭を取り巻く土塁がしっかり残っている。

[所在地]滋賀県長浜市小谷丁野町

アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩約15分

丁野山城略図

丁野山城跡

 

丁野山城跡

 

2014/05/09 訪城


中島城

2014年05月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 中島城は、小谷城の攻略が激しくなる天正元年(1573年)に,織田信長の侵攻に備えて、浅井氏の家臣の中島宗衛門直親が築城した。丁野山城と直線距離で約300mしか離れていないので、この城は、丁野山城の出城と考えられる。織田軍の攻撃で、天正元年(1573年)8月13日落城。現在でも郭を取り巻く土塁がしっかり残っている。

[所在地]滋賀県長浜市小谷丁野町岡山

アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩約15分

中島城略図

中島城跡

 

中島城跡

  

2014/05/09 訪城


近江の湖北の歴史散策

2014年05月11日 | 文化・歴史散策

2014/05/09  滋賀県の湖北の歴史散策に行ってきました。

[ハイキングコース]JR北陸本線・虎姫駅・・・五村別院・・・玉泉寺(元三大師)・・・虎御前山(信長軍の砦)・・・中島城跡・・・丁野山城跡・・・JR北陸本線・河毛駅

JR虎姫駅前

 

五村別院

 文禄元年(1592年)顕如の死により、教如は、本願寺第12世を継承したが、翌年,豊臣秀吉の命により隠居を命じられ、弟准如に譲る。しかし慶長2年(1597年)、教如支持の湖北門徒で地元の有力者の大村刑部により,教如を開基として本山として建立される。湖北の64ケ寺が賛同。教如はこの地で住民に支えられ、東本願寺の基礎を築きます。慶長7年(1602年)、徳川家康から新たに寺地の寄進を請け、京都六条鳥丸に東本願寺を建立(東西分派)。これにより、五村の御堂は、「五村懸所」または、「元の本山」と称されるようになったという。表門と本堂は重要文化財

五村別院・表門(重要文化財)五村別院・本堂重要文化財)

  

玉泉寺(元三大師)

 元三大師の生誕地(古代貴族の別荘地)。近江国浅井郡三川村(現在の滋賀県長浜市三川町) 元三大師(良源)は。『おみくじの元祖』として知られ、今も『元三大師おみくじ』をひくことができる。

安永9年(1780年)建立の玉泉寺の本堂は、大きな二重屋根が特徴。

                                         ▼元三大師御産湯井

 

虎御前山

 織田信長が小谷城の浅井長政を攻めるための拠点で、いくつかの砦跡が残ります。

虎御前山城略図

尾根にそって歩いていきます。

 

織田信長の陣地跡    ▼木下秀吉の陣地跡

 

中島城

中島城跡

 

丁野山城跡

丁野山城跡

 

JR北陸本線・河毛駅周辺図

 

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八相山(はっそうざん)の戦  観応2年(1351年)

 室町幕府で、二頭政治を行っていた足利尊氏と足利直義との間に不和が生じ、内部紛争が起こります。観応2年(1351年)夏、尊氏軍と直義軍が八相山で戦を交え、敗れた直義は、敦賀へ逃れました。翌年、尊氏に降伏しましたが、その直後謎の死を遂げています。直義の死は尊氏による毒殺説が有力です。

姉川の戦  元亀元年(1570年)

 元亀元年(1570年)2月,浅井長政が突然朝倉氏側に立って挙兵。朝倉攻めの織田信長が京へ脱出。同年6月浅井攻め。姉川で織田信長軍23,000騎、徳川家康軍5,000騎が浅井長政軍5,000騎、朝倉義景軍8,000騎激突。最初は浅井軍の優勢であったが、織田の援軍の徳川軍の奮闘で織田方の勝利に

小谷城の戦  天正元年(1573年)

 天正元年(1573年)8月織田信長の越前侵攻再開と小谷城攻め開始。浅井家中の重臣で山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)の内応等があり、織田信長軍、一乗谷の戦いで朝倉軍に大勝した後、浅井長政、久政父子の小谷城を猛攻し、朝倉氏、浅井氏両家が滅亡。お市の方と娘三人が浅井氏から織田信長に帰される。

織田信長から長浜城を賜り、長浜城主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、湖北の地から家臣にした主な家臣は

          ①石田三成(石田町)

          ②増田長盛(真宗寺)

          ③脇坂安治(脇坂谷)

          ④山内一豊(初所領之地)

          ⑤田中吉政(三川町)

          ⑥片桐且元(須賀谷町)である。

  関ヶ原の合戦には、石田三成、増田長盛、脇坂安治が西軍に。山内一豊、田中吉政、片桐且元が東軍に。脇坂安治は、途中で西軍から東軍に寝返った。


大和三山巡り

2014年05月07日 | 登山と渓谷

2014/05/06  大和三山(畝傍山・香具山・耳成山)巡りに行ってきました。

ハイキングコース]近鉄橿原線・畝傍御陵前・・・畝傍山・・・香具山・・・藤原京跡・・・耳成山・・・近鉄大和八木駅

 ▼橿原神宮

 

畝傍山略図

             畝傍山山頂

   

畝傍山(うねびやま)・・・標高199m、大和三山の中で最も高い。

 畝傍山山頂からの眺め

 

香具山 

 

香具山略図

  

香具山山頂       ▼香具山山頂からの眺め

 

香具山(かぐやま)・・・標高152m

 

藤原京跡        ▼耳成山

 

耳成山略図

  

耳成山山頂

  

耳成山(みみなしやま)・・・標高139m、三山の中で最も低い山。