勝龍寺城は、室町時代の初め延元4年・暦応2年(1339年)京都へ進行する南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築城したと言われている平城です。応仁の乱では西軍の畠山義就が修復している。天正元年、織田信長が室町幕府を滅ぼすと、元亀2年(1571年)勝龍寺城は、旧領主の流れを汲む細川藤孝に与えられ、二重の堀を持つ堅固な城に大改修をした。その後、藤孝は、天正9年(1581年)丹波宮津に移り、村井貞勝の家臣の矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となった。本能寺の変後、明智光秀の居城となるが敗れて落城し、廃城となる。現在は、勝龍寺公園として、隅櫓と高麗門等が、復元されている。
[所在地:京都市長岡京市勝龍寺町]
<アクセス>JR西日本東海道本線・長岡京駅下車徒歩約10分
▼勝龍寺城の概要
▼勝龍寺公園の櫓風管理棟 ▼板塀(鉄砲発射できる銃穴あり)
▼模擬隅櫓と堀跡
2013/04/27 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勝龍寺城の戦 永禄11年(1568年)
近江の観音寺城の戦を1日で勝利した織田信長率いる全軍50,000騎は、勝龍寺城を取り囲み攻略にかかかった。織田の大軍を前に、岩成友通は、降伏・開城する。畿内の広範囲を勢力範囲に置いていた三好三人衆であったが、近江守護の六角氏が、織田信長の上洛を防ぐと予想していたが、わずか1日で観音寺城が落城したため、援軍を送ることが出来なかったためである。その後、信長は、畿内の三好の城を次々と降伏させていき、三好三人衆を畿内から掃討し、阿波に追い出す。
山崎の戦 天正10年(1582年)6月13日夕刻から
本能寺の変後、明智光秀軍16,000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40,000騎とが、山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起をはかるべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ,自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や大和郡山の筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際には、11日間の天下人であった。
*明智光秀方の京都所司代から天正10年6月10日(山崎の戦の3日前)に河内国(河州)交野の倉治郷士に明智光秀将軍に加勢を求めて使者が持参した書状(発行は天正10年6月9日)が残されています。白銀100枚(現在の時価で5,000万円~1億円)も持参している。戦に勝利すれば領地を与えると書かれている。朝廷と縁ある倉治郷士は、明智光秀方にも豊臣秀吉方にも加勢しなかった。 [大阪府交野町史より]
□「洞ケ峠を決め込む」という言葉は、明智光秀に加勢を求められた筒井順慶が洞ケ峠まで出陣しながら日和見したことによるというが、事実は、明智光秀の方が6月10日に洞ケ峠まで出向いており、筒井順慶は、大和郡山城を動かなかったのである。
本能寺の変後、筒井順慶は、当初、明智光秀の近江の平定に加勢したが、豊臣秀吉の軍勢が東上すると、大和郡山城に軍勢を引き揚げたのである。明智光秀の使者・藤田伝五は、6月10日、筒井順慶の大和郡山城に軍勢の加勢要請に行っている。
小泉城は、室町時代に、興福寺衆徒で国人の小泉氏が、築城した平城です。長禄3年(1459年)筒井順永に攻められ落城。その後、文明7年(1475年)にも落城、天正8年(1580年)に織田信長の一国一城令により、城は、破壊される。その後豊臣秀長が大和国を治めた時、その家臣(家老)であった羽田長門が小泉城に入り外堀を造り、小泉氏の館跡を拡大する。慶長6年(1601年),豊臣家に仕えていた片桐且元の弟片桐貞隆が小泉城を含め15,000石で大名に加わる。そして大坂の役が終わると、今度は徳川家康から16,400石に加増され、元和9年(1623年)片桐貞隆は小泉城に戻ってきた。そして小泉城址に陣屋を構え、小泉藩祖となった。2代藩主片桐石見守貞昌は、茶人として有名で、茶道石川流の祖である。片桐氏は、初代貞隆から12代貞篤まで、代々小泉の地を離れることなく明治を迎えた。明治6年(1873年)の廃城令により城は取り壊された。
[所在地:奈良県大和郡山市小泉町]
<アクセス>JR小泉駅から徒歩10分
▼片桐城の石碑(小泉城の別名)
▼小泉城石碑(主郭跡)への入り口 ▼小泉城主郭跡
▼小泉城石碑 ▼外堀跡
2013/04/27 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慈光院は、寛文3年(1663年)当地の大名であった小泉藩2代藩主の片桐石見守貞昌(石州)が、父貞隆の菩提寺として自分の領地内に建立した臨済宗大徳寺派の寺院である。
[所在地:奈良県大和郡山市小泉町865]
▼茨木城楼門⇒茨木城より移築して屋根を書院とあわせて茅葺きに葺き替えて当院の山門とした。
▼書院(茅葺きの屋根)
▼庭園
書院で、抹茶とお菓子を頂きました。
2013/04/27 訪問
柳生宗矩は、寛永13年(1636年)、所領2000石から12500石に加増されて大名に列し、江戸常府大名となった。寛永15年(1638年)、柳生家菩提寺の芳徳寺を大和・柳生城の北側の曲輪に建立し、寛永19年(1642年)、宗矩は、大和・柳生城とは別に小高い丘の上一帯に居館としての陣屋を築きます。これが柳生陣屋で城とは谷を挟んで反対の南西側にありました。以後、柳生氏が12500石を領して明治まで続いた。現在は公園として整備されています。
[所在地:奈良県奈良市柳生町]
<アクセス>JR笠置駅から徒歩約60分(3.7km)
▼この丘の上一帯が柳生陣屋跡
▼柳生陣屋屋敷図
2013/04/20訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[問題]江戸時代の医者によると、家老は、どういう病気になることが多かったか?
[★模範解答は、最後にあります。]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼柳生家の系図
▼柳生新陰流の概要
▼柳生藩家老屋敷(奈良県有形文化財)
▼間取り図
▼家老小山田家の分家の屋敷[非公開]
2013/04/20 訪問
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[答]過労です。⇒家老(過労)と言いますから(笑)。
大和・柳生城は、築城時期は、定かではないが、戦国時代に大和・柳生荘の豪族だった柳生氏が山上に築いた山城です。柳生氏は関白藤原頼道が大和国四箇郷を春日大社に寄進した時、小柳生郷の荘官となり子孫が柳生氏(本姓は菅原氏)を称したのが始まりである。天文13年(1544年)に山中衆とともに柳生氏は、大和に勢力拡大をはかる筒井氏に抵抗したが、筒井氏の大軍に攻められ、善戦するも落城し、柳生氏は筒井氏に降った。織田信長の大和侵攻に功あって所領を得たが、豊臣秀吉の文禄検地で隠し田が露見して所領は没収された。文禄3年(1594年)徳川家康に見いだされ、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦功により柳生の旧領2000石を与えられ、柳生家を再興した。寛永13年(1636年)12500石に加増され、大名に列し、江戸常駐の定府大名となった。寛永15年(1638年)、城の北の曲輪に柳生家菩提寺芳徳寺を建立し,遺領から200石を寺領とした。さらに寛永19年(1642年)、山城の柳生城から今川で隔てた西の台地上に陣屋を築き居館とした。
[所在地:奈良県奈良市柳生町]
<アクセス>JR笠置駅から徒歩約60分(3.7㎞)
▼山上が主郭
▼芳徳寺は城の曲輪に建立されました。
2013/04/20 訪城
大和・新庄城は、築城時期は、定かではないが、布施氏によって屋敷山古墳の墳丘を利用して平時の居館として築かれた城砦である。布施氏は、その後、没落滅亡し、かわって慶長6年(1601年)に紀伊和歌山から桑山一晴が一万六千石で入府し、新庄藩となった。しかし、天和2年(1682年)に改易になり、その後、永井直園が新庄藩一万石の大名として入府し、文久3年(1863年)八代藩主永井直壮が櫛羅陣屋に移すまで存続した。現在、国の指定史跡となっている屋敷山公園の中にある屋敷山古墳が新庄陣屋のあった所で、入口に石碑と案内板が設置されている。
[所在地:奈良県葛城市藤井(屋敷公園)]
<アクセス>近鉄新庄駅から徒歩約15分(1.3Km)
▼新庄城虎口 ▼新庄城石碑
▼屋敷山古墳の墳丘を削って、かっては、大奥、御殿、物見櫓、等が並んでいた。
▼古墳の堀は、そのまま水堀とした。
2013/04/14 訪城
南朝皇居は、元、吉水院(きっすいいん)と称し、今から約1300年前の白鳳年間(650~654年)に役行者の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗・金峯山寺の僧坊であった。延元元年=建武3年(1336年)京の花山院より免れた御醍醐天皇が吉野御潜幸になり吉水院宗信の援護のもと、ここを南朝の皇居(行宮)と定められたのである。
明治維新の廃仏稀釈で、明治政府から強制的に明治8年に神社(吉水神社)に変更させられた。 重要文化財の宝庫で、 南朝の古文書・楽器・武具等ゆかりの宝物が数多く残されています。
[所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山]
<アクセス>近鉄吉野駅からロープウェイ(5分)で吉野山駅(約5分)、吉野山駅から徒歩20分
▼吉水院の碑
▼南朝の皇居(行宮)
▼建武の中興によって鋳造された貨幣(時価1枚1億円の金貨)
2013/04/09 訪問
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吉野山の戦 元弘3年(1333年)
護良(もりよし)親王,金峰山寺僧兵ら1,000騎余で、吉野山で挙兵し、吉野山城(金峰山寺城)に龍城する。御家人の二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)率いる鎌倉幕府軍約60,000騎が押し寄せ、吉野山城炎上し、親王、紀州高野山へ落ち延びる。
吉野行宮への襲撃 正平3年(1348年)
四条畷の戦いで楠木正行を討ち取った婆沙羅大名の高師直率いる約60,000騎の軍勢が、吉野山に、押し寄せ、吉野行宮に火を放ったが、風に煽られ、蔵王堂はじめ多くの寺院宝塔が焼け、吉野山一帯は、焼け野原となった。後村上天皇は、賀名生(現在の五条市西吉野)に逃れた。
◆後醍醐天皇(1288年~1339年)
第96代天皇。鎌倉幕府の荒廃を見た天皇は、天皇親政復活のため、1324年、日野資朝・日野敏俊基らの側近と謀り、倒幕を計画するが、失敗する(正中の変)。1331年、再び計画が漏れて隠岐に島流しされたが、島前海賊衆の力で脱出し、1333年鎌倉幕府を倒して建武の政権を樹立した。しかし、軍功の恩賞は、武家より公家に配分が厚く、明らかに不公平と思われ納得できないと武士たちは、不平を鳴らし始めた。そして、足利尊氏が叛いたため、吉野に逃れて南朝をたてる。何度となく京都奪回をはかるが、1339年、後村上天皇に譲位後、都への思いを残しながら、大和国・吉野山でこの世を去る。
◆高 師直 (生年不詳~1351年)
南北朝時代の武将、元弘の乱以降、足利尊氏に従い、室町幕府創立に軍功があり、室町幕府でも足利尊氏の執事として権威を振舞いました。その後、尊氏の弟、足利直義と対立し、正平3年(1351年)足利尊氏とともに足利直義軍に敗れ、剃髪帰順して京に向かう途中、武庫川辺りで足利直義党の上杉能憲に弟高師泰とともに殺害されました。
田丸城は、南北朝動乱期の延元(1336年),御醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った公家の北畠親房が、愛洲氏や度会氏等の援助を得て、この玉丸山に平城を築いて南朝の拠点としたことが始まりとされる。南朝の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多木に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575年)織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には、三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年(1580年)には、この天守閣は炎上した。江戸時代には、紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は、代々城代を勤めた。城は、明治6年(1873年)に廃城となり、建物は取り払われた。昭和3年(1928年),国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、地元出身の村上龍平氏の寄付により町有となり、その残りの城地も町有化し、町民に開放された。三重県指定史跡で総面積は、166,000m2 である。
[所在地:三重県度会郡玉城町田丸]
<アクセス> JR参宮線・田丸駅から徒歩5分
▼内堀
▼本丸跡 ▼天守跡
▼二の丸跡 ▼搦め手の通路
2013/04/07 訪城
2013/04/02 奈良県宇陀市本郷の『又兵衛桜』を見に行ってきました。
<アクセス>近鉄大阪線・榛原駅下車南口から奈良交通大宇陀行のバスで大宇陀高校下車徒歩25分。
★桜の期間中は又兵衛桜までの奈良交通の直通バスあり。
▼又兵衛桜の説明
桜は、7分咲き~満開でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆後藤又兵衛 (1560年~1615年)
後藤又兵衛は、播磨国(兵庫県)別所氏の家臣の子で、黒田孝高に仕えた。叔父の藤岡九兵衛が黒田孝高に背いたため、共に追放されたが、後に、帰参がかない、黒田孝高の子、黒田長政の家臣となった。多くの戦で活躍して武名をとどろかせ慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の後、黒田長政が筑前(福岡県)52万石に封じられると、大名級の16,000石を食んだ。ところが、黒田長政とソリが合わず、慶長11年(1606年),黒田家を去って、浪人になった。ところが、豪傑だから欲しいが、禄高が安くないし、黒田長政への遠慮もあり、後藤又兵衛を召抱えようという大名はいなかった。結局、後藤又兵衛は、大坂城へ入り、冬の陣と夏の陣で奮戦して討ち死にした。ところが、奈良県宇陀市大宇陀本郷には、後藤又兵衛が、隠逸生活の後に一生を終えたという伝説が残っています。