2014/04/06 大阪府南河内郡太子町の『河内源氏ゆかりの地めぐり』に行ってきました。
<ハイキングコース>近鉄南大阪線・上ノ太子駅・・・壷井八幡宮・・・通法寺跡・・・源氏三代の墓・・・叡福寺・・・孝徳天皇陵・・・近鉄河内長野線・喜志駅
▼近鉄南大阪線上ノ太子駅
▼清泉「壷井」
▼壷井八幡宮
康平7(1064年)に源頼信の子・頼義が岩清水の神を私邸の東側に祭ったのが由来。戦国時代末までにたびたび兵火にかかり、八幡宮の一部を残し消失しましたが、江戸時代になって河内源氏の子孫である多田義直が柳沢吉保や隆光への働きかけにより再建されました。
▼通法寺跡
長久4年(1043年)に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まります。その後、前九年の役(1051年~1562年)で活躍した源頼義が浄土経に帰依し、阿弥陀仏を本尊として祭り、河内源氏の菩提寺として栄えました。南北朝時代には、戦火にあい建物を焼失しましたが、江戸時代になって源氏の子孫である多田義直が、柳沢吉保や隆光への働きかけによって再建されました。しかし、明治維新の廃仏毀釈命により現在のように、本堂の礎石や山門と鐘楼を残すだけとなりました。なお、境内の西側には源頼義の墓が築かれています。
▼通法寺山門 ▼通法寺概略図(江戸時代)
▼国指定史跡源頼義の墓(通法寺境内➜山門を入り左側) ⇓ここから山へ登る
▼国指定史跡源義家の墓
▼大僧正隆光の墓
隆光は多田義直の上表の時、柳沢吉保と共に尽力した人物で、将軍綱吉の学僧であり江戸護持院の住職をつとめ、いわゆる「生類憐れみの令」(1687~1709)を公布させた人物であった。そのため綱吉の死後は役目御免の扱いを受け自分が世話してきた通法寺の住職に左遷させられ、のち大和(現在の奈良市)の二条町付近の自宅で死去したが、この通法寺においても隆光の分骨所としての墓碑が残されています。
▼国指定史跡源頼信の墓
▼叡福寺
聖徳太子は生前、ここに自らの墓をつくり、推古天皇が寺を創建し、その後、聖武天皇が伽藍を建てるなど、歴史の天皇に崇拝をうけている。織田信長による兵火で焼失したが、江戸時代以降再建された。
▼叡福寺概略図
▼推古天皇皇太子聖徳太子の墓(叡福寺境内)
▼竹内街道・・・日本最古の官道です。
▼孝徳天皇陵 ▼近鉄長野線・喜志駅
竹内街道に造られた直径30mの円墳。
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◆源 頼信(よりのぶ)(968年~1048年)
源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。二十歳のとき中央官界に身を置き、藤原道兼や道長に仕えた。特に,長元元年(1028年)に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。また上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任しており、最後に河内国司となる。その時、河内国古市郡壷井里(現壷井・通法寺)に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになった。長九四年(1043年)には、頼義とともに観音堂(のちの通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰された永承三年(1048年)八十一歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られた。
◆源 頼義(よりよし)(988年~1075年)
源頼義は、父頼信、母修理命婦の長男として生まれた。平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、早くからその武勇を東国武士に知らしめていた。永承六年(1051年)「浮因の長」である安部頼良(のちの頼時)が反乱をおこした際、乱の鎮圧にあった。一旦は、頼時を従わせたが、その後頼時とその子真任がふたたび謀叛をおこしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平五年(1062年)ようやく乱を平定した。(前九年の役)。また頼義は前九年の後の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡宮を勧請し、通法寺の北側に壷井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。承保二年(1075年)七月十三日、八十八歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。
◆源 義家(よしいえ)(1039年~1106年)
源義家は父頼義、母平直家の娘の長男として生まれた。七歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。前九年の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。永保三年(1083年)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治三年(1087年)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった(後三年の役)。この功績から百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年(1092年)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。また、永徳二年(1098年)武将で、初めて院への昇殿(殿上人)を許された。晩年、康和三年(1101年)七月、次男対馬守義親が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106年)六月に事件を起こすなど、義家の中央界での地位があぶないものになっていた。最後は嘉承元年(1106年)七月、京の邸宅で死去しこの地に葬られた。
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