nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

八尾城

2014年04月24日 | 大阪府の城郭・環濠

 八尾城は、南北朝時代、八尾の土豪で八尾別当顕幸が築城して居城したと伝わる平城です。織田信長の石山本願寺攻めが終息すると、若江城から池田教正が移ってきた。天正12年(1584年)の長久手の合戦後、池田教正の美濃移封で廃城となった。八尾神社境内には矢尾城(八尾城)の石碑が建てられています。城跡は、現在の八尾神社周辺であろうと思われる説(西郷説)と現在の南本町から安中町あたりであろうと思われる説(八尾座説)が言い伝えられています。

[所在地:大阪府八尾市本町7(八尾神社)

<アクセス>近鉄大阪線八尾駅下車徒歩5分

八尾神社

 この地を本拠とした物部氏一族栗栖連がその祖神を祀ったものであろう。古くから西郷・木戸両村の氏神で明治41年(1908年)に八尾神社と改めた。八尾は、古くは矢尾とも書かれ、物部氏の一族で矢作りに従事した「矢作部」がいたといわれています。

 

矢尾城址碑(八尾城址碑)

 

            八尾神社

 

2014/04/23 訪城


東大阪の『旧大和川跡と江戸期の史跡探訪』

2014年04月17日 | 文化・歴史散策

2014/04/16  東大阪市の旧大和川跡と江戸期の史跡探訪に行ってきました

ハイキングコース>近鉄奈良線・河内花園駅・・・西庄寺・・・中村神社・・・西村家・・・六郷吟社句脾・・・吉原地蔵石仏・・・中甚兵衛顕彰脾・・・賽の神神社・・・近鉄奈良線・東花園駅

近鉄・河内花園駅おかげ燈籠

  

 

西庄寺・石造地蔵菩薩立像

 門前の地蔵堂内に菱江寺廃寺から掘り出されたといわれる舟形光背に半肉彫りした花崗岩製の地蔵菩薩がまつられています。市の文化財に指定されています

 

仲村神社

  若江郡の二十二座の一つで、江戸時代には「仲村宮」と呼ばれていました。

 

西村家

 江戸時代、中野村の庄屋をつとめた西村宗逸氏の家で、現在も九面の高札や、役人を送迎する提灯も残されています。

 

六郷社、西村宗逸が名付けた俳句会です

吉原石造地蔵菩薩立像

  西光寺門前の地蔵堂の中にあります。室町時代の初期の花崗岩の自然石の石仏です。大阪府の有形文化財です。

            中甚兵衛顕彰脾

 

 大和川だけでなく、河内平野のすべての水が終結し、大阪城の北で東から「淀川」に合流していた。これだけの水の、海への出口が、1ケ所しかなかったのである。大阪城の東の方は、南北方向で土地が一番低いところで、河内平野の排水のためにはスムーズに西に流れなければならないが、生駒山地から西への傾斜はほとんどないため、淀川への流入にも勢いがなく、時には逆流さえ起きた。これらの状況が洪水多発の1つの要因であり、大和川と淀川を切り離して、直接海に落とす考えをした

賽の神社   ▼花園中央公園

 

中甚兵衛(1639年~1730年)

 甚兵衛は、今米村の庄屋で、度々水害を引き起こしていた大和川の流れを柏原からまっすぐ西に付け替えるように、平野郷の代官(末吉孫左衛門)を通じて幕府に懇願し続け、大和川の流れを変える治水工事に奔走し、自ら工事の指揮を執って付け替え工事を完成させた人物です。付け替え後、多くの新田が開発されました。苗字帯刀を許され中氏と称した。その工事に対する功績に対し、従五位勲章が与えられたのを記念して、生地の旧春日神社跡に中甚兵衛顕彰碑が建立されています。

末吉家とは

 坂上氏の流れをくむ平野氏の一族で、平野郷の近在切っての豪族。大阪夏の陣で、豊臣家滅亡後、徳川家康から幕府代官に任命され、支配地は、平野、河内など2郡約5万石の幕府代官であるが、末吉孫左衛門の豪邸となると地方の小大名の城屋敷ほどありました。

□■□役高□■□

幕府代官の役高は、150俵~

幕府郡代の役高は、400俵~

 


二上山から『屯鶴峯』へ

2014年04月12日 | 文化・歴史散策

2014/04/12 二上山から屯鶴峯へ山登りに行ってきました。

<山登りハイキングコース>近鉄南大阪線・二上神社口駅・・・岩屋峠・・・二上山(雌岳)・・・屯鶴峰・・・近鉄大阪線・二上駅

二上神社口駅

 

鳥谷口古墳(奈良県指定史跡)

 

祐泉寺

 

 

岩屋峠        ▼二上山(雌岳)山頂

  

 

二上山(雌岳)からの眺め

  

 

            近鉄南大阪線に沿って歩

 

 

            屯鶴峯

         

 屯鶴峯(どんづる峯)、二上山の火山活動により火山岩が沈積し、1500万年間の風化・浸食を経て奇岩群となり、遠くから見ると松林に多くの鶴が屯(たむろ)しているところから名付けられました。

 

                                            ▼二上駅

  


河内源氏ゆかりの地巡り

2014年04月07日 | 文化・歴史散策

2014/04/06 大阪府南河内郡太子町の河内源氏ゆかりの地めぐりに行ってきました。

<ハイキングコース>近鉄南大阪線・上ノ太子駅・・・壷井八幡宮・・・通法寺跡・・・源氏三代の墓・・・叡福寺・・・孝徳天皇陵・・・近鉄河内長野線・喜志駅

近鉄南大阪線上ノ太子駅

  

清泉「壷井」

 

壷井八幡宮

 康平7(1064年)に源頼信の子・頼義が岩清水の神を私邸の東側に祭ったのが由来。戦国時代末までにたびたび兵火にかかり、八幡宮の一部を残し消失しましたが、江戸時代になって河内源氏の子孫である多田義直が柳沢吉保や隆光への働きかけにより再建されました。

 

通法寺跡

 長久4年(1043年)に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まります。その後、前九年の役(1051年~1562年)で活躍した源頼義が浄土経に帰依し、阿弥陀仏を本尊として祭り、河内源氏の菩提寺として栄えました。南北朝時代には、戦火にあい建物を焼失しましたが、江戸時代になって源氏の子孫である多田義直が、柳沢吉保や隆光への働きかけによって再建されました。しかし、明治維新の廃仏毀釈命により現在のように、本堂の礎石や山門と鐘楼を残すだけとなりました。なお、境内の西側には源頼義の墓が築かれています。

通法寺山門      ▼通法寺概略図江戸時代                 

 

国指定史跡源頼義の墓(通法寺境内➜山門を入り左側) ここから山へ登る

 

国指定史跡源義家の墓

 

                大僧正隆光の墓

 隆光は多田義直の上表の時、柳沢吉保と共に尽力した人物で、将軍綱吉の学僧であり江戸護持院の住職をつとめ、いわゆる「生類憐れみの令」(1687~1709)を公布させた人物であった。そのため綱吉の死後は役目御免の扱いを受け自分が世話してきた通法寺の住職に左遷させられ、のち大和(現在の奈良市)の二条町付近の自宅で死去したが、この通法寺においても隆光の分骨所としての墓碑が残されています。

国指定史跡源頼信の墓

 

叡福寺

 聖徳太子は生前、ここに自らの墓をつくり、推古天皇が寺を創建し、その後、聖武天皇が伽藍を建てるなど、歴史の天皇に崇拝をうけている。織田信長による兵火で焼失したが、江戸時代以降再建された。

 

叡福寺概略図

 

         推古天皇皇太子聖徳太子の墓(叡福寺境内)

 

        竹内街道・・・日本最古の官道です。

  

孝徳天皇陵           近鉄長野線・喜志駅

 竹内街道に造られた直径30mの円墳。

 

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源 頼信(よりのぶ)(968年~1048年)

 源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。二十歳のとき中央官界に身を置き、藤原道兼や道長に仕えた。特に,長元元年(1028年)に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。また上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任しており、最後に河内国司となる。その時、河内国古市郡壷井里(現壷井・通法寺)に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになった。長九四年(1043年)には、頼義とともに観音堂(のちの通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰された永承三年(1048年)八十一歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られた。

源 頼義(よりよし)(988年~1075年)

 源頼義は、父頼信、母修理命婦の長男として生まれた。平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、早くからその武勇を東国武士に知らしめていた。永承六年(1051年)「浮因の長」である安部頼良(のちの頼時)が反乱をおこした際、乱の鎮圧にあった。一旦は、頼時を従わせたが、その後頼時とその子真任がふたたび謀叛をおこしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平五年(1062年)ようやく乱を平定した。(前九年の役)。また頼義は前九年の後の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡宮を勧請し、通法寺の北側に壷井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。承保二年(1075年)七月十三日、八十八歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。

源 義家(よしいえ)(1039年~1106年)

 源義家は父頼義、母平直家の娘の長男として生まれた。七歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。前九年の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。永保三年(1083年)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治三年(1087年)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった(後三年の役)。この功績から百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年(1092年)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。また、永徳二年(1098年)武将で、初めて院への昇殿(殿上人)を許された。晩年、康和三年(1101年)七月、次男対馬守義親が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106年)六月に事件を起こすなど、義家の中央界での地位があぶないものになっていた。最後は嘉承元年(1106年)七月、京の邸宅で死去しこの地に葬られた。

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