nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

丹波・亀山城

2018年12月09日 | 京都府の城郭・環濠

 丹波・亀山城は、現在、宗教法人・大本の境内地となっています。歴史は古く天正3年(1575年)、織田信長から丹波攻略を命じられた明智光秀が、中世の砦跡を拡張して築城した平山城です。丹波を平定したものの、ここから兵を進めた天正10年(1582年)の『本能寺の変』はあまりにも有名です。

 明智光秀以後の城主は、羽柴秀勝・豊臣秀俊(後の小早川秀秋)など。江戸時代に入ってからは岡部長盛が城主となり、慶長15年(1610年)、徳川家康が命じた『天下普請』で普請に参加した外様大名・藤堂高虎による五重五階の層塔型天守・本丸・二の丸・三の丸を備えた近世城郭と城下町が整備されます。その後は、京都に隣接する山陰道の要衝として栄えました。

 明治維新で亀山藩は亀山県になり、明治11年(1878年)の廃城令で、丹波・亀山城は取り壊されます。建物の一部は寺院の山門などと再利用、石垣は京都鉄道(現、トロッコ列車)の鉄道工事用石材として大量に転用されたといいます。

 大正8年(1919年)、転売を経て荒廃した土地を大本が購入、石垣を積直し神苑として整備、『大道場』を開設しました。大正と昭和の大本弾圧事件で、敷地を没収され廃墟と化しますが、大東亜戦争後に返還され今に至っています。現在、天守台や石垣・内堀などが残る。[受付申し込みで、城址の一部が見学できます

【所在地:京都市亀岡市荒塚町内丸】

<アクセス>JR嵯峨野線・亀岡駅から徒歩10分

亀山城の縄張図

外側の堀

万祥殿東側の石垣

本丸南東隅の石垣

 

復元丹波・亀山城

2018/10/31 訪城

……………………………………………………………………………………………

本能寺の変  天正10年(1582年6月2日未明)

 当時、四国の長宗我部攻めのために摂津に集結していた織田信長の三男・織田信孝の軍団を除いて、織田軍団の有力部隊はいずれも近畿にはおらず、京都の織田信長父子は極めて無防備な状態であった。

 明智光秀は6月1日夜、近江・坂本城と並ぶ本城の一つ、丹波・亀山城を13000騎の軍勢で出陣。途中、老ノ坂を超えた香掛で食糧を使い、香掛から南へ行けば西国街道へ出るが、明智光秀は進路を東へ、すなわち京都へととった。織田信長に中国出陣の軍装を見せるためと偽り、桂川西岸で全軍が軍装を整えた際、はじめて『敵は本能寺にあり』との号令を発したという。午前2時に本能寺攻撃命令、午前4時本能寺襲撃命令を発したのである。

 本能寺の織田信長周辺には小姓衆を中心に100騎の供衆しかおらず、明智の大軍に襲撃された織田信長は、自身も武器を取って戦ったのち、寺に火を放って自刃した。異変を知った織田信忠も、宿所の妙覚寺を出て誠仁親王の二条城に入り、これもわずかな供回りと奮戦したのち自刃した。