新宮は、熊野国造の領地に属し、この地の熊野水軍といわれる海の領主を統括したのが熊野別当家である。その後、13世紀前半の承久の乱や14世紀の南北朝の争乱などで次第に熊野別当家の勢力は衰え、戦国時代末期には、堀内氏が新宮を領し、熊野水軍を統括するようになった。
堀内氏善は三鬼城、紀伊長嶋城を巡り伊勢の織田信雄としばしば対立するが、天正9年(1581年)熊野社領分の所領を与えられ、織田信長に仕える。天正年間に、新宮城築城を計画するが実現せず。織田信長の死後、豊臣秀吉に仕える。だが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦で西軍に属したため、所領を没収され、代わって、新領主は、紀州藩主浅野幸長の家老浅野忠吉に与えられ、浅野忠吉は、新宮城の築城を開始する。
新宮城は、熊野川河口に近い右岸に位置する小高い丘である丹鶴山に築くことになった。慶長7年(1602年)に城を築いたが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となるが、重要拠点であることから、元和4年(1618年)築城許可が下り、再び築城に着手する。翌年工事半ばで主家の浅野長晟が安芸広島(広島城)へ転封、家老の浅野忠吉も安芸三原(三原城)へ移った。
元和5年(1619年)、徳川頼宜(徳川家康の十男)が紀州藩主として入国して以後、付家老・水野重央(重仲)が3万5000石の城主となった。永野重央(重仲)は浅野氏の築城を継続し、2代目水野重良の時代の寛永5年(1633年)完成するが、3代水野重上が石垣などを造築し続け、寛文7年(1667年)に総石垣の近世城郭の新宮城(別名は丹鶴城、沖見城とも言う)を完成させる。以後、水野氏は代々居城として10代続いて明治維新を迎えた。
明治6年(1873年)の廃城令で、新宮城の天守などの建物が払い下げられ、取り壊される。構築のほとんどが破壊されてしまったが、曲輪跡や石垣が残されています。現在は丹鶴城公園として整備され、平成15年(2003年)に国指定史跡となる。
【所在地:和歌山県新宮市新宮7691-1】
<アクセス>JR紀勢本線・新宮駅から徒歩10分
▼新宮城縄張り図
▼公園入口(東側の公園入口)…右側の通路を進み、階段を登る
▼階段を登る ▼天守台と本丸跡
▼天守台の石垣 ▼本丸の虎口(枡形虎口)
▼本丸跡 ▼丹鶴姫之碑
丹鶴姫(たんかくひめ)は、鎌倉時代の女性で、源為義と熊野別当の娘の間に生まれた1女1男の女児で、弟は新宮十郎行家(源行家)です。丹鶴姫が丹鶴山に東仙寺を建立して住んでいたにために、別名丹鶴城となったようです。丹鶴山に新宮城を築城する時、東仙寺は移転した。
▼本丸跡 ▼井戸(本丸跡)
▼本丸跡からの眺め
▼鐘の丸跡 ▼鐘の丸跡
▼鐘の丸の虎口 ▼鐘の丸の虎口(枡形虎口)
▼松の丸跡 ▼松の丸跡
▼松の丸の虎口(大手門跡) ▼松の丸の虎口(枡形虎口)
▼松の丸から大手道への階段 ▼松の丸から大手道への通路
▼大手道の階段 ▼新宮城入口(西側の公園入口)
2019/07/13 訪城