nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

丹波・八木城

2019年12月03日 | 京都府の城郭・環濠

 建武2年(1335年)に内藤顕勝は戦功により、足利尊氏より船井郡を与えられ、八木の標高330mの城山(桂川西の丘陵上)に築城を開始したのが丹波守護代内藤氏の丹波・八木城です。規模は、東西約700m×南北約900mで、丹波地域で最大規模である。丘陵全域にわたり、複数の曲輪群が配置され一体となって機能している。本丸は、石垣造りであったようである。

 しかし、16世紀になると丹波で台頭した波多野氏や赤松氏に圧迫されるようになります。天文22年(1553年)内藤国貞が三好長慶と結んで八上城主波多野氏と対立中、波多野方の三好正勝・香西元成によって八木城を攻められ落城。内藤国貞は討死にした。その後、三好長慶の家臣で、松永久秀の弟松永長頼が八木城を奪還する。松永長頼は、内藤国貞の娘を娶って内藤宗勝と名を改め、八木城主となった。

 内藤宗勝により衰退していた内藤氏の勢力も回復したが、永禄8年(1565年)黒井城攻めで討死にしたため、八木城の城主は、内藤国貞の一子・内藤貞勝が継いた。織田信長が足利義昭を京都から追放し、足利幕府が崩壊すると、天正7年(1579年)6月、内藤有勝が城主の時、織田信長の武将・明智光秀によって丹波攻略が開始され、丹波・八木城は落城し、内藤氏は滅亡した。

 [所在地:京都府南丹市八木]

<アクセス>JR嵯峨野線・八木駅の西側、登山口まで徒歩約15分。

      登山口から丹波・八木城本丸(頂上)まで約30分。

丹波・八木城の縄張り図

春日神社         ▼天神口側の登山口前のトンネル

登山口           ▼九合目

本丸は左へ・妙見宮は右へ   ▼まもなく本丸

本丸           ▼本丸

本丸(頂上) 標高約330m ▼本丸の石垣

本丸からの眺め

2019/11/23訪城

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八木城の戦い  天正7年(1579年)

  織田方の明智光秀軍が、2000騎で丹波侵攻、対する内藤方の内藤有勝・内藤正勝が丹波・八木城に1000騎で籠城して防戦。内藤有勝、内藤正勝討死。6月27日、丹波・八木城は落城。内藤氏は滅亡した。


園部城

2019年10月24日 | 京都府の城郭・環濠

 大阪夏の陣から4年後の元和5年(1619年)、父・小出秀政の死後、但馬・出石藩藩主を継いだ小出吉親だが、和泉・岸和田藩藩主となっていた兄・小出吉英が但馬・出石藩へ戻されることになり、小出吉親は園部へと国替えとなった。園部藩が成立し、小出吉親は約26,000石の園部藩初代藩主となった。小出吉親は約2年間を費やして、小麦山の南東の麓に園部陣屋を築きました。そしてその後、幕末まで10代250年にわたり小出氏が陣屋の主であり続けた。

 しかし、慶応3年(1867年)10月、第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権を天皇に返上したものの、旧幕府勢力と長州藩・薩摩藩ら新政府との諍いは止められず、翌年、鳥羽・伏見の戦が勃発する。こうした状況下の明治元年(1868年)園部藩最後の藩主・小出英尚は明治新政府に対して陣屋の改修を願い出ると、京都防衛のためとして許され、櫓門3ケ所、巽櫓などの櫓が計5ケ所、さらに堀も造成され、陣屋は城としての体裁が整えられ、こうして園部陣屋は、わが国でいちばん最後に建てられた城、園部城となった。

 しかし、明治4年(1871年)の廃城令で、ほとんどの建物は取り壊されたが、現在本丸跡は京都府立園部高等学校・付属中学校の敷地となり、櫓門や巽櫓、石垣、土塁などが現存する。

【所在地:京都府南丹市小桜町】

<アクセス>JR山陰本線・園部駅から徒歩20分。

園部城址碑

櫓門

巽櫓

櫓門・巽櫓の概要

2019/10/20 訪城


丹波・亀山城

2018年12月09日 | 京都府の城郭・環濠

 丹波・亀山城は、現在、宗教法人・大本の境内地となっています。歴史は古く天正3年(1575年)、織田信長から丹波攻略を命じられた明智光秀が、中世の砦跡を拡張して築城した平山城です。丹波を平定したものの、ここから兵を進めた天正10年(1582年)の『本能寺の変』はあまりにも有名です。

 明智光秀以後の城主は、羽柴秀勝・豊臣秀俊(後の小早川秀秋)など。江戸時代に入ってからは岡部長盛が城主となり、慶長15年(1610年)、徳川家康が命じた『天下普請』で普請に参加した外様大名・藤堂高虎による五重五階の層塔型天守・本丸・二の丸・三の丸を備えた近世城郭と城下町が整備されます。その後は、京都に隣接する山陰道の要衝として栄えました。

 明治維新で亀山藩は亀山県になり、明治11年(1878年)の廃城令で、丹波・亀山城は取り壊されます。建物の一部は寺院の山門などと再利用、石垣は京都鉄道(現、トロッコ列車)の鉄道工事用石材として大量に転用されたといいます。

 大正8年(1919年)、転売を経て荒廃した土地を大本が購入、石垣を積直し神苑として整備、『大道場』を開設しました。大正と昭和の大本弾圧事件で、敷地を没収され廃墟と化しますが、大東亜戦争後に返還され今に至っています。現在、天守台や石垣・内堀などが残る。[受付申し込みで、城址の一部が見学できます

【所在地:京都市亀岡市荒塚町内丸】

<アクセス>JR嵯峨野線・亀岡駅から徒歩10分

亀山城の縄張図

外側の堀

万祥殿東側の石垣

本丸南東隅の石垣

 

復元丹波・亀山城

2018/10/31 訪城

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本能寺の変  天正10年(1582年6月2日未明)

 当時、四国の長宗我部攻めのために摂津に集結していた織田信長の三男・織田信孝の軍団を除いて、織田軍団の有力部隊はいずれも近畿にはおらず、京都の織田信長父子は極めて無防備な状態であった。

 明智光秀は6月1日夜、近江・坂本城と並ぶ本城の一つ、丹波・亀山城を13000騎の軍勢で出陣。途中、老ノ坂を超えた香掛で食糧を使い、香掛から南へ行けば西国街道へ出るが、明智光秀は進路を東へ、すなわち京都へととった。織田信長に中国出陣の軍装を見せるためと偽り、桂川西岸で全軍が軍装を整えた際、はじめて『敵は本能寺にあり』との号令を発したという。午前2時に本能寺攻撃命令、午前4時本能寺襲撃命令を発したのである。

 本能寺の織田信長周辺には小姓衆を中心に100騎の供衆しかおらず、明智の大軍に襲撃された織田信長は、自身も武器を取って戦ったのち、寺に火を放って自刃した。異変を知った織田信忠も、宿所の妙覚寺を出て誠仁親王の二条城に入り、これもわずかな供回りと奮戦したのち自刃した。


丹後・田辺城

2017年12月15日 | 京都府の城郭・環濠

 天正6年(1578年)、織田信長の命により細川藤孝と明智光秀が丹後に攻め入り丹後の守護大名の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧した。これにより細川藤孝は丹後南半国を与えられ、本城である宮津城を築城する。丹後・田辺城は、宮津城とほば同時期に築城された。

 慶長5年(1600年)、関ケ原合戦の際、当主の細川忠興は石田三成方の西軍の誘いを退け、徳川家康方の東軍に加勢したため、隠居していた細川藤孝は、自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、わずか500騎で丹後・田辺城に篭城し、石田三成方の西軍の大軍約15,000騎を迎え撃ち50日余りも善戦した。

 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの後、細川忠興は豊前国小倉に転封され、京極高知が宮津藩に入り、元和8年(1622年)に京極高知の遺言により、京極高知の三男京極高三が田辺藩(3万5千石)を立藩する。

 京極氏は三代続いた後、豊岡藩へ転封となり、寛文8年(1668年)に牧野氏が3万5千石で入封し、代々世襲し明治維新までの10代続いた。明治6年(1873年)、丹後・田辺城が廃城となる。

 城跡は現在、舞鶴公園として整備され、本丸付近に模擬隅櫓(彰古館展示室)と復興大手門(二階は資料室)が建つ。

[所在地:京都府舞鶴市字南田辺15-22]

<アクセス>JR舞鶴線・西舞鶴駅から徒歩約5分

丹後・田辺城城郭復元図

 

本丸に建てられた復興大手門

 平成4年(1992年)に建てられた復興大手門。二階は資料室となっています。

本丸模擬隅櫓

 昭和15年(1940年)、地元出身の実業家・有本国蔵氏の寄付により建てられた模擬隅櫓。建物の内部は彰古館展示室となっています。

 ▼復興大手門        ▼本丸模擬隅櫓

本丸石垣

  

2017/12/13 訪城


旧二条城

2015年06月24日 | 京都府の城郭・環濠

 『旧二条城』は、永禄12年(1569年),織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭のために築城した平城です。足利義昭の兄で13代将軍の足利義輝の御所を改修・拡張して再利用したために僅か70日で完成した。二重の堀、石垣、三重の櫓を備えていた大規模な城であった。徳川家康築城の二条城と区別するために『旧二条城』と呼ばれるようになった。天正元年(1573年),室町幕府滅亡にともない廃城となった。

[所在地:京都市上京区武衛陣町他]

アクセス>京都市営地下鉄烏丸線丸太町駅下車すぐ

旧二条城推定位置図

旧二条城跡の石碑 ▼この付近斯波氏武衛陣/足利義輝邸遺址碑

『旧二条城跡の石碑』の背後の解説板の解説文には別の場所にあった誠仁親王の下御所と混同するなど、間違いがある。

  

旧二条城移築石垣(地下鉄建設時に発見された石垣を移築復元したもの)

 

本能寺の変(1582年)後の京都御所付近の地図

2015/06/14 訪城


山崎城

2014年03月10日 | 京都府の城郭・環濠

  山崎城は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎の天王山にあった山城。天王山は、標高270.4mの低い山ながら摂津国と山城国を分ける位置にあり古来より交通、軍事軍事の上から重要視され、特に応仁・文明の乱の時には、戦がしばしばあり、山上に城も築城されました。さらに天王山の名を世に知らしめたのは、天正10年(1582年)の羽柴秀吉軍と明智光秀軍の山崎の合戦であります。この合戦によって勝利をおさめた豊臣秀吉は、天王山に築城し山麓にある宝積寺も含めて城郭とし、大山崎を城下町にしました。しかし天正11年(1583年)4月の柴田勝家との賤ケ岳の戦に勝利後、大阪城築城を開始し、大阪築城が本格化すると、天正12年(1584年)4月に山崎城は破却された。今も山中には門跡、堀跡、土塁跡、井戸跡石垣の跡等がいたるところに見られます。

[所在地:京都府乙訓郡大山崎町字大山崎]

アクセス>JR京都線・山崎駅から徒歩で約30分

山崎城の概要

天王山山頂(標高270.4m山崎城主郭跡

 

山崎城概略図

井戸跡                               ▼曲輪跡

 

2014/03/09  訪城

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山崎の合戦  天正10年(1582年)6月13日夕刻

  本能寺変後、明智光秀16000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40000騎とが山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は、一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起を図るべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ、自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際は11日間の天下人であった。


槇島城

2013年07月26日 | 京都府の城郭・環濠

  槇島城は、宇治川の中州に所在した。 この地には、槇島氏という豪族が、根を張り、城郭を築いていた。それが室町時代から安土桃山時代にかけて宇治に勢力を張った槇島氏の居城とされる槇島城です。槇島氏は、奉公衆として足利将軍家に仕えた。元亀4年(1573年),将軍足利義昭が織田信長に反旗を翻して槇島昭光を頼り、槇島城で挙兵、籠城した。そして城に籠った足利義昭は敗れ、槇島昭光とともに落ちのび、名実ともに足利幕府は滅んだ。伏見城築城後は、その戦略的価値を低下させ廃城となった。現在は、宇治川の流れも変わり、城域と推定される場所の一隅に「この付近、槇島城」という石碑が立っています。

[所在地:京都府宇治市槇島町]

アクセス>JR奈良線・宇治駅から徒歩

この付近槇島城の石碑(住宅地の公園内) ▼槇島城の場所

 

元亀4年(1573年)槇島合戦における織田信長軍の進路

2013/07/26訪城

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宇治川の戦  寿永3年(1184年)

 木曽義仲の追討で、源範頼、義経が上洛してきて、宇治川の渡河で、激突する。梶原源太景季と佐々木四郎高綱が激しい先陣争いをする。源義経、京都へ進撃する。木曽義仲は、敗れて大津打出浜へ退去する。

槇島合戦    元亀4年(1573年)

 第15代将軍足利義昭が織田信長に反旗を翻し、足利義昭から知らせを受けた摂津の伊丹氏等とともに槇島城で3,700騎で挙兵、籠城したが、織田軍に攻め落とされ、足利幕府は滅び去った。


上狛環濠

2013年05月22日 | 京都府の城郭・環濠

 室町時代に興福寺領だった上狛の大里を村と田畑を堀(水路)で仕切り、堀(水路)の内に土塁を築き,竹藪や雑木林を連ね城郭化した。その中に家々があった。集落内には、この村の武士の頭(国人)であった狛氏の居館(狛城)が文明年間(1469~1487年)に築城された。狛氏は、興福寺領狛野荘の下司・公文職として同荘を基盤に大きな勢力を持っていた。上狛環濠集落は、東西330m,南北360mで戸数約300戸の山科地域最大規模の環濠集落である。有名な山城の国一揆の舞台でもある。現在は、木津川市の市指定史跡となっている。                       

[所在地:京都府木津川市山城町上狛]

アクセス>JR奈良線・上狛駅から徒歩5分(西へ約300m)

上狛環濠集落の場所

 

上狛環濠集落の概要

上狛環濠集落を囲んだ堀(水路)

 堀(水路)は、農業用水路・排水路として利用された。    

 

上狛環濠集落を囲んだ堀(水路)

 

上狛環濠集落の街並み  ▼長屋門を設けた豪農の屋敷の民家が多い。

 

2013/05/21  訪城

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山城の国一揆     文明17年~明応2年(1485年~1493年)

 南山城地域における畠山義就と畠山政長の戦に対して、文明17年(1485年)12月11日に、石清水八幡宮で南山城の国人(土着の在地領主)は、両軍の撤兵を要求する決議を行い、両軍を撤退させることに成功し。文明18年(1486年)2月13日には、宇治の平等院に集まって自分たちの地域の法律、「国中掟法」を定め、国人や農民による自治が始まった。国一揆は、明応2年(1493年)9月11日、稲屋妻城の陥落をもって終結する。

[畿内を中心とする主な国一揆]

 和泉の国一揆 1473年~1492年

 摂津の国一揆 1478年~1482年

 山城の国一揆 1485年~1493年

 丹波の国一揆 1489年~1492年

 

土一揆国一揆の違い✡

 土一揆は、土地を取り上げるな、借金の証文をほごにせよ、といった徳政を要求し、農民や運送労働者が実力行使に出るもので、徳政を勝ち取れば静まる。

 国一揆は土一揆と違い、一定の地域が団結して外部権力の介入を拒み、自分たちの利益を守ろうとする運動で、国人と呼ばれる土着の武士たちが表面に立って指導した一揆です。

狛氏(こまし)・・・室町時代から戦国時代に、現在の京都府木津川市山城町上狛を本拠とする国人(土豪)でした。狛氏は、奈良興福寺領の狛野庄の荘官である下司(げし)をつとめるとともに、一方では、室町幕府の管領細川氏の被管となり、応仁、文明の乱には、東軍細川勝元方に武士として参加した。


福知山城

2013年05月03日 | 京都府の城郭・環濠

  福知山城の建築年代は定かではないが、室町時代に福知山地方の国人の塩見頼勝が、築城したのが始まりと言われています。塩見頼勝は後に姓を横山に改めたため、横山城と呼ばれていた。

 その後、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波国征討戦を開始、これに敵対した赤井・波多野・塩見等の国人衆を滅ぼした。これを期に丹波国に属していた国人衆は皆、光秀に降伏し、天正7年(1579年)丹波国平定が成った。明智光秀は丹波国を平定すると、近世城郭として改修され、これを福知山城と改名する。

 天正10年(1582年)明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒したものの、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れ、福知山城も秀吉の属城となった。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、有馬豊氏が61,000石で福知山に入府し、現在のような城郭と城下町を完成させる。2年後、有馬豊氏の父則頼の遺領2万石を継承し81,000石の大大名になった。しかし元和6年(1620年)12月、豊氏は久留米藩に加増転封され、その後、城主は、岡部氏・稲葉氏・松平氏とかわり寛文9年(1669年)6月朽木氏が32,000石で入城し以後幕末の明治2年(1869年)に至るまで約200年の長きにわたり朽木氏が福知山域を統治した。

 明治6年(1873年)の廃城令で建物や堀、石垣等破壊されたが、福知山民の寄付などにより昭和61年(1986年)模擬天守・小天守等が復元されています。               

[所在地:京都府福知山市字内記5番地]

<アクセス>JR福知山駅から徒歩約20分

福知山城の概要

 

 

模擬天守 

模擬小天守

 

 

 

 

 

2013/05/03 訪城

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丹波国(京都府・兵庫県)・・・・・丹波は、古より京都へ向かう要衛であり、鎌倉末期には足利尊氏がここで倒幕の兵をあげた。織田信長は明智光秀に丹波を平定させた。

足利尊氏、挙兵  元弘3年(1333年)

  足利尊氏は、幕府執権北條高時の命を受け反乱分子を押さえる為に、鎌倉を出陣してから各地の自領の兵を集めて丹波国・亀山の篠村に集結。ここで鎌倉に反旗を決断し亀山篠村八幡宮で挙兵、尊氏率いる討幕軍約20,000騎は、京都市中の六波羅探題軍約60,000騎を攻め鎌倉方は近江へ敗走する。

波多野氏、八上城に拠る  大永6年(1526年)

  多気郡の土豪波多野氏、守護細川氏に叛き八上城に拠る。丹波国内に有力国人衆が割拠する。

八上城の戦  天正6年(1578年)

  織田信長方の明智光秀が、応仁の乱後、波多野氏が入城していた東丹波の波多野秀治、秀尚を攻める。光秀は、母を人質に波多野兄弟を安土城に伴う。だが、織田信長は、波多野兄弟を処刑にする。八上城方も、光秀の母を処刑にする。天正7年(1579年)明智光秀の大軍に包囲され大激戦の末、八上城は落城した。


勝龍寺城

2013年04月28日 | 京都府の城郭・環濠

   勝龍寺城は、室町時代の初め延元4年・暦応2年(1339年)京都へ進行する南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築城したと言われている平城です。応仁の乱では西軍の畠山義就が修復している。天正元年、織田信長が室町幕府を滅ぼすと、元亀2年(1571年)勝龍寺城は、旧領主の流れを汲む細川藤孝に与えられ、二重の堀を持つ堅固な城に大改修をした。その後、藤孝は、天正9年(1581年)丹波宮津に移り、村井貞勝の家臣の矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となった。本能寺の変後、明智光秀の居城となるが敗れて落城し、廃城となる。現在は、勝龍寺公園として、隅櫓と高麗門等が、復元されている。   

[所在地:京都市長岡京市勝龍寺町]

<アクセス>JR西日本東海道本線・長岡京駅下車徒歩約10分

勝龍寺城の概要

 

 

 

勝龍寺公園の櫓風管理棟   板塀(鉄砲発射できる銃穴あり)

 

 ▼模擬隅櫓と堀跡

 

2013/04/27 訪城

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勝龍寺城の戦 永禄11年(1568年)

  近江の観音寺城の戦を1日で勝利した織田信長率いる全軍50,000騎は、勝龍寺城を取り囲み攻略にかかかった。織田の大軍を前に、岩成友通は、降伏・開城する。畿内の広範囲を勢力範囲に置いていた三好三人衆であったが、近江守護の六角氏が、織田信長の上洛を防ぐと予想していたが、わずか1日で観音寺城が落城したため、援軍を送ることが出来なかったためである。その後、信長は、畿内の三好の城を次々と降伏させていき、三好三人衆を畿内から掃討し、阿波に追い出す。

山崎の戦 天正10年(1582年)6月13日夕刻から

  本能寺の変後、明智光秀軍16,000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40,000騎とが、山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起をはかるべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ,自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や大和郡山の筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際には、11日間の天下人であった。

明智光秀方の京都所司代から天正10年6月10日(山崎の戦の3日前)に河内国(河州)交野の倉治郷士に明智光秀将軍に加勢を求めて使者が持参した書状(発行は天正10年6月9日)が残されています白銀100枚(現在の時価で5,000万円~1億円)も持参している。戦に勝利すれば領地を与えると書かれている。朝廷と縁ある倉治郷士は、明智光秀方にも豊臣秀吉方にも加勢しなかった。                                      [大阪府交野町史より]

 洞ケ峠を決め込む」という言葉は、明智光秀に加勢を求められた筒井順慶が洞ケ峠まで出陣しながら日和見したことによるというが、事実は、明智光秀の方が6月10日に洞ケ峠まで出向いており、筒井順慶は、大和郡山城を動かなかったのである。 

  本能寺の変後、筒井順慶は、当初、明智光秀の近江の平定に加勢したが、豊臣秀吉の軍勢が東上すると、大和郡山城に軍勢を引き揚げたのである。明智光秀の使者・藤田伝五は、6月10日、筒井順慶の大和郡山城に軍勢の加勢要請に行っている。


淀 城

2013年02月23日 | 京都府の城郭・環濠

 淀城は、宇治川、桂川の合流付近の川中島、現在の京阪電車淀駅の北西にあった梯郭式平城である。この城は、鶴松死後に捨丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった木村氏の連座とともに廃城とされた。安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた淀城(淀古城)は、現在の位置より北へ約500mの位置にあった。江戸時代に入り、伏見城の廃城により、その代わりとして元和9年(1623年)8月2代将軍秀忠は、淀藩へ2万5千石で入部を命じられた松平定綱に淀城の築城を命じて新たに築かせた。その後、松平定綱は備中国へ移封され、永井尚政が10万石で入部し城下町の拡張を行った。その後、石川、戸田、松平と変わり、享保8年(1723年)に春日局の子孫の稲葉正知が10万2千石で城主となったのち、幕末まで稲葉氏が城主をつとめた。淀藩は廃藩となり、城内の建物は、本丸の一部を除き破壊され、周辺の石垣や堀は取り除かれ埋め立てられた。  

[所在地:京都府伏見区淀]

<アクセス>京阪電鉄・淀駅下車徒歩約5分

淀城の概要

 

 

             稲葉神社

 

淀城の石碑

 

 

 

本丸石垣と堀跡

  

2013/02/22  訪城

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鳥羽・伏見の戦いと淀城

 慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いで淀城は旧幕府の守備隊としてこれにのぞみましたが、時の城主稲葉正邦が老中にもかかわらず、淀藩兵は淀城内にいて戦況を見守っていました。官軍が優勢とみると、淀城は敗走する旧幕府軍に対して、門を閉ざし寝返りました。淀城は大坂城とともに、西国に睨みを利かすために築城されたが、皮肉にも官軍の勝利に一役買うことになったのである。


二条城

2013年01月22日 | 京都府の城郭・環濠

 慶長8年(1603年)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の宿泊所として造営し、徳川三代将軍家光が、寛永3年(1626年)に完成させた平城。幕末には、徳川慶喜が、大政奉還を公表する場として利用された。総面積275,000m2建築面積7,300m2(文化財建造物) 平成6年(1994年)には、ユネスコの世界遺産に登録されました。                

[所在地:京都市中京区二条通り堀川西入ル二条城町]

<アクセス>地下鉄・二条城前駅下車徒歩約1分

二条城の略図

東南隅櫓        ▼東大手門

 

 

 

 二の丸庭園(特別名勝)

  

 本丸櫓門

 

 

2012/11/01 訪城


伏見城

2013年01月21日 | 京都府の城郭・環濠

  京都南部の小高い丘に築かれた平山城。豊臣秀吉が天正19年(1591年)に隠居所として築いた屋敷を、文禄3年(1594年)から本格的な平城にし、周りに城下町も整備した。関ヶ原の戦いの前哨戦では、城将の鳥居元忠は壮烈な討ち死にを遂げ、伏見城は灰塵に帰した。その後家康の命により、いったんは再建されているが、二条城の修築によって存在意義が薄れたこともあり、元和5年(1619年)には、廃城が決まり、翌年から城割りがなされ、元和9年(1623年)、廃城となった。本丸一帯は、明治天皇の伏見桃山陵が造営されたことから立ち入りはできないが、城の御花畑山荘跡は、現在、京都市により伏見桃山城公園として整備され、その一角に模擬大手門と模擬天守と小天守が造られています。          

 [所在地:京都市伏見区古城山]

<アクセス>JR桃山駅下車徒歩約15分

模擬大手門

模擬小天守()と模擬天守()

 

2012/04/08 訪城

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伏見城炎上  慶長5年(1600年)

  関ヶ原の前哨戦である。西軍40,000万余騎が伏見城を包囲して攻撃を開始する。包囲開始から14日目に、守将の鳥居元忠ら1,800騎は城を枕に討ち死にする。本来なら数日で落とせるはずの伏見城に14日もの期間をかけたため西軍のその後の美濃、伊勢方面に対する攻略が遅れる要因となった。

鳥居元忠  (1539~1600)

  徳川家康の幼少から仕えた家臣で、通称は彦右衛門尉。関ヶ原の戦いの直前、徳川家康から伏見城の城将として守備を任せられ、8月1日、落城とともに討ち死にした。鳥居忠吉の三男。