nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

津・城下町周遊散策

2013年01月30日 | 文化・歴史散策

2013/01/29 三重県の津市の城下町周遊のハイキングに行ってきました。

[ハイキングコース]近鉄名古屋線・津新町駅・・・津城跡(お城公園)・・・・・結城神社・・・阿漕塚(あこぎつか)・・・津観音寺・・・四天王寺・・・近鉄名古屋線・津駅

近鉄津新町駅                        津城の模擬三層櫓 

  

 ▼藤堂高虎像                           ▼内堀

               

結城神社

 南北朝時代に後醍醐天皇に仕えた武将、結城宋広公を祀る。

 

 

阿漕塚(あこぎつか)

 

寒松院

 

津観音寺         新しい五重塔

                    (三重県唯一の塔                 

 

四天王寺

 聖徳太子ゆかりの四天王寺境内には、芭蕉翁文塚や織田信長生母の墓があります

 


津城

2013年01月29日 | 三重県の城郭・環濠

 戦国時代の永禄年間(1558~1570)に、長野氏の一族の細野氏が小規模な安濃津城を築いたのが始まりです。永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻の翌年、織田信長の弟信包が入城し、信包は、城郭を拡充して本丸、二の丸、三の丸が配された輪郭式の平城にした。天正8年(1580年)には5層の天守閣も完成し、城下町が作られた。信長の死後、豊臣秀吉の家臣富田信広が5万石で入城。関ヶ原の合戦では、その子知信が東軍に属したため、西軍の毛利秀元・長宗我部盛視の30,000騎余の大軍に包囲される。籠城の兵は劣勢(1,300騎)であったが奮戦の末、木食上人の調停により開城した。関ヶ原合戦後、22万石で入封した藤堂高虎によって城は、復興されたが、天守は再建されなかった。その後、大阪の役の功により、元和元年(1615年)と元和3年(1617年)に5万石ずつの加増を受け、32万石の大大名となり、12代にわたり城下町として発達を遂げた。明治6年(1873年)の廃藩置県により、廃城となり取り壊された。現在は石垣の一部と堀、昭和33年(1958年)に復元された三重の隅櫓が津城の往時の面影を伝えている。

[所在地:三重県津市丸の内]

アクセス>近鉄名古屋線・津新町駅から徒歩10分

 

 

復興三重隅櫓

 

城と城下町図

 

城の縄張図                                                                     

 

藤堂高虎像       ▼本丸跡

 

埋門跡

 

2013/01/29  訪城

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平氏、伊勢・伊賀に勢力を拡大 承徳元年(1098年)

 平氏(平正盛)、安濃津を本拠に勢力を拡大する。正盛、伊賀山田、鞆田の私領を六条院白川法皇第一皇女に寄進して白川院政に近づく。正盛の孫が清盛(平清盛)です。

安濃津城の戦 慶長5年(1600年)

 関ヶ原の戦の前哨戦。石田三成が挙兵し、伏見城落城後、大阪方が伊勢に侵攻する。毛利秀元ら30,000騎の大阪方(西軍)に対して、近隣の徳川方(東軍)の援軍を含めわずか1,300騎で籠城戦を激闘する。奮戦の末、木食上人のすすめで富田知信が開城する。大軍相手によく戦った知信は戦後、家康から2万石の加増を受ける。


伊賀上野・ 城下町周遊散策

2013年01月25日 | 文化・歴史散策

2013/01/24  三重県の伊賀上野の城下町にハイキングに行ってきました。

[ハイキングコース] 伊賀鉄道・上野市駅・・・芭蕉翁生家・・・蓑虫庵・・・鍵屋ノ辻・・・上野公園(上野城跡)・・・伊賀鉄道・上野市駅

▼ 芭蕉翁生家       ▼寺町の街並み

 

 

蓑虫庵(県史跡・名勝)  ▼芭蕉堂

 

   

        ▼又五郎首洗いの池鍵屋の辻の石                                  

  

小田小学校本館(三重県指定文化財)

 

上野高等学校本館(三重県指定文化財)

 

伊賀上野城の大天守閣()と小天守()

 現在の模擬天守閣は、伊賀上野出身の政治家(衆議院議員)川崎克(かわさきこく)氏が、私財(20万円)を投じて昭和10年(1935年)に木造伝統工法によって再建させた。元厚生大臣の川崎二朗氏は、孫にあたります。


伊賀上野城

2013年01月24日 | 三重県の城郭・環濠

 伊賀盆地中央の台地に、天正13年(1585年)、大和郡山より伊賀に転封となった筒井定次によって築かれた平山城です。筒井氏改易ののち、藤堂高虎の所領となると5重の大天守が造営されるなど、堅固な城寒に姿を変えた。藤堂氏は、一族を城代家老として配置。廃藩置県まで、津藩藤堂家の支城として、伊賀一国の統治拠点としての役割を担いつづけた。現在の天守閣は、昭和10年(1935年)に当地出身の政治家の川崎克氏の寄付により、木造伝統工法によって建造された天守閣である。

[所在地:三重県伊賀市上野丸の内]

アクセス>伊賀鉄道・伊賀線上野市駅から徒歩8分

               

白鳳門

 

  

 ▼伊賀上野城の大天守()と小天守()

                         ▼旧筒井城跡 

  

 深い内堀と見上げるような高い石垣

  

 2013/01/24 訪城

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天正伊賀の乱 天正9年(1581年)

 天正7年9月、伊勢国の織田信雄が8,000騎で伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年、織田信長が、45,000騎の大軍勢で、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に殺戮した。伊賀再討は伊賀全土が焦土と化した。

筒井騒動 慶長13年(1608年)

 筒井順慶の養子、筒井定次が筒井家の家督を継いでから,筒井定次が、重臣の中坊秀祐を寵愛したため筒井氏内部では、家臣団の対立が表面化した。伊賀上野に国替え後、筒井定次とソリが合わず重臣の松倉秀政、島政清興(左近)等が筒井家を去り、筒井家の実権は中坊秀祐が掌握し、彼による横暴が行われていた。慶長13年(1608年)6月,中坊秀祐は、駿府城の徳川家康に対し、主君の筒井定次の悪政や鹿狩りに熱中しての倦怠等を訴えた。このために筒井家は改易され、上野藩は、廃藩となった。中坊秀祐は筒井氏改易後、徳川家康から幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられている。しかし中坊秀祐は慶長14年(1609年) 2月29日,京都・伏見で筒井定次の旧臣の山中氏によって暗殺された

伊賀上野鍵屋ノ辻の仇討 寛永11年(1634年)

 柳生流の刺客荒木又右衛門、義弟渡辺数馬主従の4人が河合又五郎、桜井半兵衛ら11人と死闘のすえ、大願を成就する。背景には外様大名と旗本の対立があった。赤穂浪士、蘇我兄弟と並ぶ日本三大仇討の一つです。


二条城

2013年01月22日 | 京都府の城郭・環濠

 慶長8年(1603年)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の宿泊所として造営し、徳川三代将軍家光が、寛永3年(1626年)に完成させた平城。幕末には、徳川慶喜が、大政奉還を公表する場として利用された。総面積275,000m2建築面積7,300m2(文化財建造物) 平成6年(1994年)には、ユネスコの世界遺産に登録されました。                

[所在地:京都市中京区二条通り堀川西入ル二条城町]

<アクセス>地下鉄・二条城前駅下車徒歩約1分

二条城の略図

東南隅櫓        ▼東大手門

 

 

 

 二の丸庭園(特別名勝)

  

 本丸櫓門

 

 

2012/11/01 訪城


鳥羽城

2013年01月22日 | 三重県の城郭・環濠

 九鬼嘉隆(くきよしたか)は、志摩国を平定して、文禄3年(1594年)に鳥羽湾を望む高台に位置する平山城の鳥羽城を築いた。寛永9年(1631年)九鬼守隆が没すると御家騒動(相続問題)が起き、翌年二家に分断され、鳥羽を去った。その後、内藤、土井、松平、板倉、稲垣と城主が変わり、幕末には、伊勢神宮を外国船の猛威から守るため、沿岸に多数の砲台を築かざるをえず、鳥羽藩の財政が圧迫されるという一幕もあった。明治6年(1873年)に廃城となった。           

 [所在地:鳥羽市鳥羽3丁目]

<アクセス>JR・近鉄・鳥羽駅南口から徒歩10分

鳥羽城の概要

 

 

2013/01/01 訪城

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九鬼嘉隆、伊勢の大湊で大型の鉄甲船6隻を建造  天正5年(1577年)

 第一次木津川の戦で、織田水軍が、毛利水軍に敗れたため、織田信長の命により、鉄甲船を建造し、摂津大坂の木津川に回航して河口を封鎖する。天正6年(1578年)の第二次木津川の戦で毛利水軍を撃破する。

田(た)城の戦   慶長5年(1600年)

 関ヶ原の戦の一環。徳川方に与した嫡子九鬼守隆(徳川方)と大阪方に与した父の九鬼嘉隆(大阪方)の戦いです。九鬼守隆は、功により志摩の領土を安堵された。敗れた九鬼嘉隆は、答志島へ逃れ自刃した。

鳥羽藩主、江戸の芝・増上寺で大名刺殺  延宝8年(1680年)

 藩主内藤忠勝(3万2千石)が将軍家菩提寺の芝・増上寺で、前将軍家綱の法要中に宮津藩主永井尚長(7万4千石)を刺殺する。法要勤務の上で両者が対立して、刃傷に及んだ。永井尚長は無嗣で除封。内藤忠勝は、切腹になりました。

九鬼嘉隆(1542~1600)

 志摩の人で、はじめ北畠氏に属す。織田信長に仕えて水軍の将。天正6年(1578)11月6日、毛利方軍船を木津河口で撃破、大阪湾の制海権を握った。後、堺に常駐。関ヶ原の戦の一環の田(た)城の戦では、大坂方に味方し、嫡子九鬼守隆(徳川方)と戦う。敗れて、答志島へ逃れ自刃した。


神戸(かんべ)城

2013年01月22日 | 三重県の城郭・環濠

 伊勢平氏の子孫の関氏の一族の神戸具盛は、戦国時代の1550年に神戸城を築いた。神戸氏は織田信長の侵攻にあい、織田信長の三男信孝を養子にする条件で和睦する。関ヶ原合戦後、一柳直盛が封じられたが、寛永13年(1636年)伊予西条に転じ、以後天領とされて城は破壊されてしまった。享保17年(1746年)に築城許可を得て、2年後に完成させた。現在は、城跡本丸跡等は、神戸公園となり、天守台が残っています

[所在地:鈴鹿市神戸5丁目]

<アクセス>近鉄鈴鹿線・鈴鹿市駅から徒歩20分

神戸城の概略

 

神戸城の略図

本丸跡                             ▼天守台

 

 

2011/11/01 訪城


桑名城

2013年01月22日 | 三重県の城郭・環濠

 天正10年(1513年)伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源と考えられる。天正2年(1574年)に織田信長がこの地を征し、武将の滝川一益が入府。その後豊臣秀吉の時代には支配者が目まぐるしく入れ替わったが、関ヶ原の戦い後、徳川四天王の本田忠勝が桑名10万石で入府し、城を約10年を要して大改修した。元和3年(1617年)忠勝の子忠政は播磨姫路へ移封になり、松平定勝が封じられる。松平氏は一度転出するが、文政6年(1823年)に再び桑名に戻り、明治まで居城にした。現在は、九華公園として、桜やつつじの名所である。  

 [所在地:三重県桑名市吉之丸]

<アクセス>JR関西本線・近鉄名古屋線・桑名駅東口から徒歩15分

桑名城の概略図

 

本田忠勝像

  

 

 

2011/11/01 訪城


松坂城

2013年01月22日 | 三重県の城郭・環濠

   蒲生氏郷が、天正16年(1588年)松ケ島城に入城したが、城が狭く、海岸に近すぎるので、古城砦のあった四五百森に大規模な要害の城を築城した。松坂城と名付けられた城は3層の天守もある平山城である。氏郷は2年後、会津に移り、そのあとへ服部一忠が入府した。元和5年(1619年)以後は、紀州藩領となり、城代が置かれた。現在は、松阪公園になり、本丸や二の丸、天守台に石垣が残っています。

[所在地:松阪市殿町]

<アクセス>JR・近鉄・松阪駅から徒歩約15分

松坂城の概要

松坂城の縄張り図

 

    

二の丸跡

  

                                            本丸下段跡

 

本丸跡

 

本丸上段跡       ▼松阪開府之碑

  

2013/01/01訪城

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伊勢暴動 明治9年(1876年)

 明治維新により新政府は次々と改革を進めていったが、その中に米の代わりに現金で納めるなどとした地租改正を行った従来の税収を維持するように地租を定められたため、農民の負担は軽くならず、各地で農民の不満が高まっていた。明治9年(1876年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発した暴動は、愛知、岐阜、堺県(現在の奈良県)まで拡大した地租改正反対一揆である。

 この伊勢暴動を受け、時の為政者、大久保利通は、地租改正がうまく進まなかったことに焦り、12月31日、閣議を招集、翌、明治10年(1877年)1月14日地租3%を2.5%に下げたのである。このため、国家予算の8割超を地租収入が占めていた明治政府は、1,000万円以上の歳入減という大打撃をこうむり、官僚の削減、役所の削減が断行された。死者35人、負傷者48人などを含む処分者50773人という多くの犠牲を払いながら民衆が新政府に勝ったのである。

  久保利通は、明治11年(1878年)5月14日、士族6名により、暗殺された。殺理由は、『法令の乱用による政府官史の私利私欲などです暗殺後、凶器を投げ捨てて、まっすぐ宮内省に駆けむかい、門前に立ち、大声で自分たちが大久保を殺害の下手人であると名乗りました。彼ら刺客は、さすが『武士』でした。


信貴山城

2013年01月22日 | 奈良県の城郭・環濠

  古代より大和と河内を結ぶ要所の標高433mの信貴山雄嶽を中心に築城された山城です。奈良県下最大規模を有する城郭です。中世には、護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点にするなど戦略的に重要な位置にありました。その後、戦国時代には、木沢長政が天文5年(1536年)に城を築き永禄2年(1559年)、松永久秀が大規模な城郭を再興。松永久秀は翌年築城の多聞城と合わせて大和支配の拠点とするが、天正5年(1577年)織田信長に反抗して信貴山城に籠城、敗死する。現在、本丸跡には、信貴山朝護孫子寺の空鉢堂が建てられています。

 [所在地:奈良県生駒郡平群町信貴山]

<アクセス>信貴山朝護孫子本堂付近から徒歩約30分

信貴山城の概要

      

信貴山城本丸跡       ▼本丸跡より展望風景

 

信貴山城の戦い  (学研「歴史群像シリーズ・風雲信長記」より)

2012/05/13 訪城

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信貴山城の戦い  天正5年(1577年)

 松永久秀が織田信長に対する二度目の謀反をする。織田信忠が40,000騎で信貴山城を包囲する。松永久秀は、8,000騎で籠城戦を展開するが、信貴山城方が裏切り松永久秀自害する。筒井順慶の大和支配回復する。

松永久秀(?~1577年)

 もと三好氏の臣だが、三好三人衆と対立し争いを続ける。永禄10年(1568年)入京した足利義昭に降って幕臣となり、大和一国の扱いを任された。しかし元亀3年(1572年)織田信長に反抗。翌年降参して許されたが、佐久間信盛の与力に格下げされる。天正5年(1577年)信貴山城に籠って再び、反抗する。織田信忠軍の攻撃を受けて10月10日自殺した。


大和布施城

2013年01月22日 | 奈良県の城郭・環濠

 築城時期は不明だが、戦国時代に、布施氏が葛城の金剛山地から東に派生した尾根の中腹、標高460m付近に詰めの城として築城した山城です。布施氏は、古代豪族置始連を祖とし、葛城一帯を領し興福寺一乗院門跡坊人の国民に列し、武士としての活動は、平安期から知られている。同じ坊人同志の誼で筒井氏とは早くから交流を保った。のちに布施氏は、筒井順慶の内衆に連なって一党は筒井氏の家臣となり、筒井定次の伊賀転封にも同行している。

[所在地:奈良県葛城市寺口布施]

<アクセス>近鉄新庄駅から徒歩約60分(3.5Km)

大和布施城の概要

城道(じょうどう)                                   ▼本丸(主郭)

 

本丸跡(主郭跡)                                       ▼本丸跡(主郭跡)よりの展望

 

2012/09/22 訪城


宇陀松山城

2013年01月22日 | 奈良県の城郭・環濠

 南北朝以来、春日神社国民で興福寺被官に列した有力国人の秋山氏が、標高470mの古城山上に本城として築いた山城(秋山城)です。天正13年(1585年)、羽柴秀長の大和郡山城入部により秋山氏は追放され、豊臣家の配下の大名の居城となり、城は大きく改修され城下町の整備も進められた。関ヶ原の戦い後入封した福島高時の時、城下町の名を松山と改めた。福島孝治が元和元年(1615年)に改易された時、城は破壊された。その後入封した織田信長の次男織田信雄の宇陀松山藩は城を使用することなく、麓近くに居館を構えた。その後、宇陀松山藩は、元禄8年(1695年)に改易になり以後、幕府領となった。現在は、空堀、曲輪跡、石垣などが残されています。

[所在地:奈良県宇陀市大宇陀春日]

<アクセス>近鉄榛原駅から『大宇陀』行きバスに乗り「西山』下車。徒歩約20分

宇陀松山城大手筋の西口関門

  

城下町『松山』の概要

宇陀松山城跡

 

 

天守郭             天守郭からの展望風景

 

2012/10/19 訪城

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宇陀くずれ 元禄7年(1694年)

 元禄7年(1694年)9月29日、織田信長から数えて五代目の松山藩主織田信武38歳の乱心により、重臣田中五郎兵衛・生駒三左衛門を切り殺すという事件がありました。一ヶ月後に信武は自害して果てました。同家は、織田信長の血統であるということを重んじられて信武の子・織田信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石に減らされた上で丹波国柏原藩へ減移封となりました。国主として扱われた待遇も、この時に剥奪されてしまった。なお、宇陀松山藩もこれをもって廃藩となった。


大和高取城

2013年01月22日 | 奈良県の城郭・環濠

  14世紀前半に、土豪の越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりです。標高584mの高取山の山腹に戦国時代、豊臣秀長が大和郡山の詰城として重臣の本田利久に大修復させ堅固な城として完成させた日本有数の山城です。文禄4年(1595年)増田長盛が大和郡山城に入場するが、本田氏はそのまま高取城主として残った。本田氏の断絶後、寛永14年(1640年)旗本の植村家政が大名に取り立てられて入城し、2万5千石の居城とした。3重の天守と小天守をもつ城であった。以後、明治維新まで植村氏が14代に渡って城主となった。明治6年(1873年)廃城となったが、高石垣は、完全な姿で残っている。

[所在地:奈良県高市郡高取町高取]

<アクセス>近鉄・壺阪山駅より徒歩約70分(3.8Km)

大和高取城の概要

  

大和高取城の縄張り図

 

大手門跡

 

本丸跡(郭内跡)

 

 

再現の大和高取城

2012/11/19 訪城

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大和永亨の乱 永亨2年~永亨12年(1430~1440年)

 一乗院衆徒(筒井氏派)と大乗院衆徒(越智氏派)の衆徒間の争いをきっかけに、大和の豪族たちが、筒井・越智の両派に分かれて抗争する。転戦の末、反幕府体制を目論んだ越智氏が、幕府介入により敗走する。

天誅組の変 文久3年(1863年)

 孝明天皇が攘夷祈願のため、大和行幸を決定する。土佐の脱藩志士らが大和で倒幕挙兵し、十津川郷士らと五條代官所を襲撃。さらに約1,100騎で高取城を攻撃する。高取城方約2,300騎は、大砲で反撃したので、攻撃は、失敗に終わり壊滅する。大和行幸は中止となる。(京では公武合体派の政変、三条実美ら七卿の長州落ちする。)


千早城

2013年01月21日 | 大阪府の城郭・環濠

 大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衛であった千早街道から登りつめた金剛山より西に、元弘3年(1333年)、楠木正成が築いた連郭式山城で、楠木城の詰め城です。建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となり城主は楠木正義、楠木正儀そして楠木正勝と続いていた。しかし南北朝時代末年となる明徳3年(1392年)楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城した。現在、千早城跡は、千早神社になっています。

  [所在地:大阪府南河内郡千早赤坂村大字千早]

アクセス>近鉄長野線・富田林駅から金剛バスで金剛登山口下車徒歩約20分

千早城の概要

金剛山山道入口

 

  わら人形の兵士

 

階段を登っていく

  

千早神社(千早城本丸跡)                 

 

2013/01/19 訪城

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赤坂城の戦  元弘元年(1331年)

 後醍醐天皇が京都から大和の笠置山に逃げ込み、笠置山挙兵に呼応して、楠木正成は赤坂城で500騎で挙兵するが、大軍の鎌倉幕府軍のために落城。最後は自害を装い行方をくらます。のち再起して赤坂城を奪還する。

護良親王挙兵  元弘2年(1332年)   

 後醍醐天皇の皇子、護良親王が挙兵し、各地の武士に令旨を出す。

千早城の戦  元弘3年(1333年)

 楠木方龍城軍約1,000騎は、吉野・十津川の郷士と連携を保ち、金剛山中の城寒群を駆使してゲリラ戦を展開して鎌倉幕府軍約20,000騎を翻弄させ、後醍醐天皇方の勝利の原動力になる。龍城100余日にして鎌倉幕府は滅亡する。

湊川の戦  延元1年(1336年)

 九州で30,000騎の軍勢と水軍を整え、再挙した足利尊氏・直義の軍討伐のために新田義貞10,000騎、楠木正成・正季500騎で戦うが、新田義貞が敗走したため、包囲され、兵力差を埋めることができず敗れてしまう。楠木正成は弟・正季と刺し違え、自害する。足利尊氏は、再入京する。

藤井寺の戦  貞和3年(1347年)

 南朝方の楠木正行が700騎で挙兵、楠木正行の奇襲で北朝方の幕府軍(細川顕氏)3,000騎は敗走する。

四条畷の戦  貞和4年(1348年)

 北朝方の幕府軍(高師直)60,000騎で、本格的に楠木正行討伐を開始する。楠木正行は3,000騎で四条畷で戦い戦死する。

楠木正成(生年不詳~1336年)

 金剛山のふもと、河内の赤坂を本拠とし、運送労働者を束ねていたため和泉、北紀伊にもかかわりをもつ土豪。1331年、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵。建武政権樹立に大きな勲功をあげ、天皇の信任も厚かった。足利尊氏が叛いたのちも、一貫して南朝方で戦い、九州から東上する足利尊氏軍と湊川で戦って戦死した。

高 師直 (生年不詳~1351年)

 南北朝時代の武将。元弘の乱以降、足利尊氏に従い、室町幕府創立に軍功があり、室町幕府でも足利尊氏の執事として権威を振舞いました。その後、足利尊氏の弟、足利直義と対立し、正平3年(1351年),尊氏とともに直義軍に敗れ、剃髪帰順して京に向かう途中、武庫川辺りで直義党の上杉能憲に弟、高師泰とともに殺害されました。


伏見城

2013年01月21日 | 京都府の城郭・環濠

  京都南部の小高い丘に築かれた平山城。豊臣秀吉が天正19年(1591年)に隠居所として築いた屋敷を、文禄3年(1594年)から本格的な平城にし、周りに城下町も整備した。関ヶ原の戦いの前哨戦では、城将の鳥居元忠は壮烈な討ち死にを遂げ、伏見城は灰塵に帰した。その後家康の命により、いったんは再建されているが、二条城の修築によって存在意義が薄れたこともあり、元和5年(1619年)には、廃城が決まり、翌年から城割りがなされ、元和9年(1623年)、廃城となった。本丸一帯は、明治天皇の伏見桃山陵が造営されたことから立ち入りはできないが、城の御花畑山荘跡は、現在、京都市により伏見桃山城公園として整備され、その一角に模擬大手門と模擬天守と小天守が造られています。          

 [所在地:京都市伏見区古城山]

<アクセス>JR桃山駅下車徒歩約15分

模擬大手門

模擬小天守()と模擬天守()

 

2012/04/08 訪城

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伏見城炎上  慶長5年(1600年)

  関ヶ原の前哨戦である。西軍40,000万余騎が伏見城を包囲して攻撃を開始する。包囲開始から14日目に、守将の鳥居元忠ら1,800騎は城を枕に討ち死にする。本来なら数日で落とせるはずの伏見城に14日もの期間をかけたため西軍のその後の美濃、伊勢方面に対する攻略が遅れる要因となった。

鳥居元忠  (1539~1600)

  徳川家康の幼少から仕えた家臣で、通称は彦右衛門尉。関ヶ原の戦いの直前、徳川家康から伏見城の城将として守備を任せられ、8月1日、落城とともに討ち死にした。鳥居忠吉の三男。