nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

淀 城

2013年02月23日 | 京都府の城郭・環濠

 淀城は、宇治川、桂川の合流付近の川中島、現在の京阪電車淀駅の北西にあった梯郭式平城である。この城は、鶴松死後に捨丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった木村氏の連座とともに廃城とされた。安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた淀城(淀古城)は、現在の位置より北へ約500mの位置にあった。江戸時代に入り、伏見城の廃城により、その代わりとして元和9年(1623年)8月2代将軍秀忠は、淀藩へ2万5千石で入部を命じられた松平定綱に淀城の築城を命じて新たに築かせた。その後、松平定綱は備中国へ移封され、永井尚政が10万石で入部し城下町の拡張を行った。その後、石川、戸田、松平と変わり、享保8年(1723年)に春日局の子孫の稲葉正知が10万2千石で城主となったのち、幕末まで稲葉氏が城主をつとめた。淀藩は廃藩となり、城内の建物は、本丸の一部を除き破壊され、周辺の石垣や堀は取り除かれ埋め立てられた。  

[所在地:京都府伏見区淀]

<アクセス>京阪電鉄・淀駅下車徒歩約5分

淀城の概要

 

 

             稲葉神社

 

淀城の石碑

 

 

 

本丸石垣と堀跡

  

2013/02/22  訪城

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鳥羽・伏見の戦いと淀城

 慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いで淀城は旧幕府の守備隊としてこれにのぞみましたが、時の城主稲葉正邦が老中にもかかわらず、淀藩兵は淀城内にいて戦況を見守っていました。官軍が優勢とみると、淀城は敗走する旧幕府軍に対して、門を閉ざし寝返りました。淀城は大坂城とともに、西国に睨みを利かすために築城されたが、皮肉にも官軍の勝利に一役買うことになったのである。


藤原宮(藤原京)跡(694~710)

2013年02月12日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 天武天皇のあと、即位4年(690年)、飛鳥浄御原で持統天皇が即位すると、即位8年(694年)より建設中だった藤原京に都を移した。藤原京は奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。藤原宮はその都の中心よりやや北寄りに配置した。藤原宮の大きさは約900m四方、周囲を約5mの大垣(高い塀)と濠で囲み、各面に三か所ずつ全部で12ケ所の門が設置された。大極殿などの建物は日本の宮殿建築では初めて唐風(中国風)の瓦葺で作られた。しかし,残念ながら今日のように衛生面と病理菌の発生の因果関係など、殆ど知る由もなかったために、疫病の巣窟となり、藤原京は、持統8年(694年)から和銅3年(710年)まで、持統・文武・元明天皇三代にわたる僅か16年の都で瓦解した。現在、藤原宮(藤原京)跡は、特別史跡として整備されている。

 [所在地:奈良県橿原市高殿町]

<アクセス>近鉄・大阪線耳成駅から徒歩30分

 

 

大極殿

 

 2013/02/10  訪問 


飛鳥から藤原宮跡散策

2013年02月11日 | 文化・歴史散策

2013/02/10 奈良県明日香村の近鉄飛鳥駅から藤原京跡へハイキングに行ってきました

[ハイキングコース] 近鉄吉野線・飛鳥駅・・・文武天皇陵・・・橘寺・・・川原寺跡・・・飛鳥寺・・・蘇我入鹿首塚・・・明日香文化財展示場・・・大官大寺跡・・・藤原宮跡・・・近鉄大阪線・大和八木駅

文武天皇陵文武天皇は天皇に即位されて10年(707年)に崩ぜられ、この地に葬られたのである。

 

橘 寺・・・もと用明天皇の別宮のあったところで、聖徳太子誕生の地である。

 

川原寺跡・・・川原寺は、斉明天皇が離宮として665年に造営された川原宮を寺としたもので、天武朝には勅願寺となり、我が国有数の大寺となった。

 

飛鳥寺(安居院)・・・蘇我馬子が588年に創立した日本最初の本格的寺院。飛鳥寺の蹴鞠の席で中大兄皇子と中臣鎌足が知り合い、大化の改新の盟約が成立したという。

 

蘇我入鹿首塚・・・豪華を誇った蘇我入鹿の野望も、中大兄皇子と中臣鎌足の暗殺の密謀の前についえ、入鹿の亡霊は怨念をはらすため、このあたりに青くもえた。飛鳥寺の西側約50mのところに五輪塔が、鎮魂と慰霊のため建てられ供養されている。

                               ▼明日香村埋蔵文化財展示場

              

大官大寺跡・・・大官大寺は九重の塔がそびえる大寺院だった。

 

藤原宮跡・・・持統8年(694年)~和銅3年(710年)の都城

 

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吉備氏の乱  雄略7年(463年) 

 古く岡山県西部から広島県東部にまたがる地は吉備(きび)と言われた。五世紀の吉備地方には、有力な豪族吉備氏がおり、たびたび大和朝廷に対して反乱を起こした。大和朝廷の勢力が北九州を押さえ、さらに朝鮮半島へ進出するためには、瀬戸内海沿岸の吉備氏のような勢力を完全に従える必要があった。雄略7年、吉備氏が新羅と結託して大和朝廷に反乱を起こしたが、反乱は、失敗した。次の天皇清寧(せいねん)は吉備氏を攻め、吉備を完全に平定し、吉備の所有する山部の民を没収した。

磐井の乱(いわいのらん)  継体21年(527年)

 継体21年、ヤマト王権軍は、新羅に奪われた南朝鮮南部を回復するため任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、九州地方北部の有力者の磐井(筑紫国造磐井)へ賄賂し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。近江毛野率いるヤマト王権軍60,000騎の進軍を筑紫君磐井(筑紫国造磐井)がはばんで交戦した。磐井は本拠地筑紫の国(のちの筑前・築後=福岡県)だけでなく、火の国(のちの肥前・肥後=長崎・佐賀・熊本三県)、豊の国(のちの豊前・豊後=福岡県・大分県)にも及んで勢力を張っており、この反乱は北九州一円を巻き込むこととなった。このため、継体天皇の命を受けた征討軍の物部麁鹿火(あらかひ)は、8月出発したが、その後、一年余りにわたり、両軍は戦いを続け、ようやく翌年の継体22年11月磐井は敗れ、惨殺された。この反乱が鎮圧されて以降、大和朝廷の北九洲支配は著しく進展し、強化された。この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがある。

丁未の乱(ていびのらん) 用明2年(587年)

 古代史の学者たちは、仏教の礼拝を巡ってと論じられているが、実際は、磐井の乱の鎮圧に功があった軍事をこととする氏族の物部氏と朝廷の財政管理を担当して力をつけた新興の蘇我氏との朝廷内における主導権争いである。大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が乱を起こしたため、587年7月、蘇我馬子は、群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定する。馬子は、諸皇族の皇子、諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。河内国の衛香川の河原で物部軍と交戦した。守屋の軍は、善戦したが、守屋の一族らは殺され、守屋の軍は敗北して離散した。厩戸皇子(のちの聖徳太子)は、四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は、馬子のものになった。馬子の妻が、守屋の妹であるので、物部氏の相続の権利があると主張したためである。また、半分は、官寺の四天王寺へ寄進された。この戦いに勝利した蘇我氏は、物部氏の廃墟の上に寺院建立をはじめ自己の政策を実現していくことになります。 しばらくは、蘇我氏の全盛時代となるのである。      [神祇を職とする中臣氏は、この戦では、物部守屋に味方し、敗北しましたが、58年後、乙巴の変(いっしのへん)・大化の改新を起こします。]

大化の改新   大化元年(645年)

 新興豪族の蘇我氏が、渡来人の東漢人のバックアップを受けて、587年、最大豪族の物部氏を倒し、豪族たちを主導して飛鳥朝廷を確立していきました。蘇我氏の勢いに危機感を持った中大兄皇子は、飛鳥寺の蹴鞠の席で、中堅豪族の中臣鎌足と知り合い、大化の改新の盟約をする。中大兄皇子の命より、巨勢臣徳陀(こせのおみとこだ)が蘇我氏の最大の軍事氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)を説得して中大兄皇子の味方に付けてから、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を暗殺した(乙巴の変)。蝦夷一族は屋敷に火を放って自殺した。ここに蘇我氏宗本家は滅亡し新政権が発足する。公地・公民・班田収授の法、国郡制度、庸、調の税制などを定めた改新の詔が公布された。     [27年後、中大兄皇子(のちの天智天皇)が亡くなると、今までの専制政治の不満と皇位継承争いで、内乱(壬申の乱)がおこります。]

壬申の乱   弘文元年(672年)

 天智天皇の専制政治への不満と皇位継承争いで、天智天皇亡きあと、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)が争い、大海人皇子が逆転勝利し、大海人皇子(天武天皇)による律令体制の強化。


伊勢亀山城

2013年02月06日 | 三重県の城郭・環濠

 伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城された。その後、関氏の時代に現在の位置に移された。元亀4年(1573年)織田信長により関盛信が追放されるまで関氏十六代の居城であった。天正18年(1590年)に岡本宗憲が22,000石で入城し、天守、本丸、二の丸、三の丸などを増築した。岡本宗憲は、関ヶ原の戦では西軍に属して戦い滅亡。その後、伊賀(伊勢)街道の要衛として目まぐるしく城主は入れ替わったが、延亭元年(1744年)石川総慶が城主になると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることになる。明治6年(1873年)の廃城令により、ほとんどの構造物は取り壊された。現在は、天守台、多聞櫓、石垣・堀など一部が残るだけである。    

[所在地:三重県亀山市本丸町]

<アクセス>JR関西本線・亀山駅から約12分

 

 

 ▼本丸高石垣と多聞櫓

 

 

復元された二の丸帯曲輪

2013/02/05 訪城


一身田寺内町(環濠)

2013年02月05日 | 三重県の城郭・環濠

 一身田は、30軒余の農村集落であったが、戦国時代の15世紀に専修寺が建てられてから、専修寺を中心に発展をとげ、16世紀からは町の周りに環濠を作り、防衛的な性格を帯びた環濠集落になった。一身田寺内町は、真宗高田派の総本山専修寺を中心に、末寺や商家、宿屋などが集まり、四方を堀で囲まれている典型的な城郭的都市(濠集落)であるその範囲は、東西約500m、南北約450m(面積約20.2ヘクタール)。落ち着いた街並である。  

[所在地:三重県津市一身田]

 <アクセス>JR紀勢本線・一身田駅より徒歩5分又は、近鉄名古屋線・高田本山駅より徒歩15分。

一身田寺内町(環濠集落)略図

環濠に囲まれた寺内町には、濠に橋を掛け、内側に門を建てた出入り口が三か所(桜門・黒門・赤門)ありました

 、京都方面の出入り口黒門、寺内町の総門で、伊勢方向への出入り口、赤門、江戸方面への出入り口でした。

 

環濠(毛無川)

 

東側の環濠  ▼西側の環濠 ▼南側の環濠 ▼北側の環濠

   

道標

 

専修寺

 通称、高田本山の名で知られている真宗高田派の総本山

    

唐門            ▼山門

 

如来堂(国宝)        ▼御影堂(国宝)

 

太鼓門・・・専修寺の東側にある左右に長屋がつく四重の櫓門

                    ▼一御田神社(神明造りの社殿)

 

2013/02/05  訪城


名張城

2013年02月03日 | 三重県の城郭・環濠

 土豪の砦があった跡に、天正13年(1585年)筒井定次から伊賀名張8,000石を与えられた松倉重政(勝重の子)によって居城として築かれた城です。その後、慶長13年(1608年)に定次が改易となった後は藤堂高虎の城となったが、元和3年(1617年)、一国一城令により廃城とされた。寛永13年(1636年)に伊予今治から高虎の養子である高吉(織田信長の重臣丹羽長秀の三男)が2万石の大名として入城し、名張藤堂家を起こした。そして旧名張城跡に、陣屋を築いた。藤堂高虎のあと実子高次が家督を継ぐと、高吉は藤堂藩の家臣となり、高吉の死後、次男以下三名に5千石が分知され1万五千石となり、名張藤堂氏11代の陣屋として明治維新をむかえた。明治6年(1873年)に、ほとんどの建物は、取り壊されたが、現在、陣屋(殿館)建物の一部が残っている。         

 [所在地:三重県名張市丸の内54]

アクセス>近鉄大阪線・名張駅から5分

              

             ▼名張藤堂家邸跡(三重県指定史)

 

                                             祝間 東より望む        

 

庭 園

 

旧正門(太鼓門)

 

 

2013/02/03 訪城

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藤原千方窟・・・朝廷に反抗した千方が平安時代に四鬼(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼)を従えここに立てこもったという。四鬼は、伊賀忍者の阻という伝説もある。

天正伊賀の乱 天正9年(1581年)

 天正7年9月、伊賀国の織田信雄が、8,000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年織田信長は、45,000騎の大軍勢で、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に殺戮した。天正9年の伊賀再討は伊賀全土が焦土と化した。