nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

大阪瓦斯株式会社の株主総会

2014年06月29日 | 株主総会

2014年6月27日(金曜日) 「株式会社大阪瓦斯の第196回定時株主総会」が開催されました。

当期は、売上高、営業利益、経常利益は増収増益だが、純利益は米国の上流事業での減損損失のため20.5%減益の417憶円。期末配当金は1株につき4.5円、中間配当は1株について4.5円支払い済のため、年間の配当金は1株当り9円(昨年比0.5円増配)です。

来期の年間配当金は1株当り9円(中間配当4.5円、期末配当4.5円)の予定!

2014/6/27の株価終値は422円。 株式平均買値は334円で、株価アップ率26.3%

1株純資産=384円    PBR=1.10             PER=13.4

投資利回り=9円/334円=2.69% 

   株式全株売却  譲渡差益89万円余     

 


株式会社関西電力の株主総会

2014年06月28日 | 株主総会

2014年6月26日(木曜日), 「株式会社関西電力の第90回定時株主総会」に神戸市中央区港島のワールド記念ホールに行ってきました。

当期は、電気料金の大幅な値上げで売上高は33,274億円(昨年比16.3%アップ)と増加したが,経常損失1,113億円、純損失974憶円と損失は大幅に減ったが、3期連続の大赤字。当期の配当金はゼロ(無配)とする。

来期も100%配当金は、ないでしょう!

関電の株主から次のような提案があった。

日本原子力発電に多額の費用(25年度の負担金は315億円)を払うのはおかしい。電気も発電もしない会社の日本原子力発電(株)との資本関係の解消

日本原燃に多額の費用を払うのはおかしい➜①と②を払わないと収支トントンになる

経営方針に「脱原発依存」を明記

コスト削減に努力して、電気料金の再値上げがないように

取締役及び従業員等について、国等からの再就職の受け入れはこれを行わない。通産省の役人(例:迎陽一常務取締役)、その子弟

八木社長の退陣

大阪府市エネルギー戦略会議委員の村上憲郎を社外取締役に選任

脱原発と安全性の確保

電気事業のうち、原子力事業は除くを付記する

危険でコストのかさむ「再処理禁止」の追記

脱原子力委員会の設置の新設

取締役の報酬個別開示と執務上状況の公開・・・など25項目は、全て否決されました。答えになっていない答弁も多数あったが、株主総会は会社の提案は全て可決、株主提案は、全て否決で、14時49分に閉会しました(昨年の閉会時間は14時50分)。 株主総会参加者は、わずか約800人でした。(昨年約1,200人、一昨年約3,600人)でした。

3番目に2階から発言した、筆頭株主の大阪市の橋下徹市長は、関電の発言時間3分を越えたために、森議長からの何回も質疑差し止め、関電OB等のヤジ(ヤジは質問開始からずーと)の中、約10分余りで

関電として原発撤退の方針を決めてほしい

壇上現役員は経営陣として失格。即刻退陣を求める

大阪市の保有する株式の売却を検討する内容を丁寧に説明をした

2014/6/26の株価終値は949円         株式の平均買値は1,887円       株価ダウン率50.2%

1株純資産=1,330円    PBR=0.71                PER= - - -

投資利回り=0円/1,887円=0.0%      

関西電力の全株式を売却 差損425万円余住友商事・キャノン等の高配当株式を購入


株式会社安永の株主総会

2014年06月25日 | 株主総会

2014年6月24日(火曜日) 「株式会社安永の第68回定時株主総会」に、三重県伊賀市緑ケ丘中町の本社厚生館2階会議室に行ってきました。株主総会は午前10時から始まり、最初に,当社は「今年の6月12日から東証1部になりました。」の報告がありました。発言者4名の質疑応答があり、議案の4案がすべて可決され、新しい役員2名の紹介をして、10時38分に閉会しました。

当期は、売上高は昨年比7.4%減少だが、営業利益、経常利益、純利益は全て増益。当期末配当金は1株につき5円。中間配当金は5円支払い済のため、年間配当金は1株につき10円に(昨年比1円増配です。  

来期の配当金は1株当り9円(中間は赤字のため4円、期末に5円)の予定。

2014/6/24の株価終値は618円。 株式の平均買値は390円で株価アップ率58.5%

1株純資産=912円        PBR=0.68         PER=82.4

投資利回り=10円/390円=2.56% +株主優待     

*2014/11/06付 配当金9円/1株を10円/1株に増配

  株式全株売却 譲渡差益43万円余


渡船を乗り継いでの大坂の低山巡り

2014年06月16日 | 文化・歴史散策

2014/06/15  渡船を乗り継いで、大阪市の低山を巡ってきました。

[ハイキングコース] JRゆめ咲線・桜島駅・・・天保山渡船場・・・天保山公園・天保山(標高4.5m)・・・八幡屋公園・グリーンヒルズ(標高22.1m)・・・甚兵衛渡船場・・・昭和山(標高33m)・・・落合下渡船場・・・天下茶屋・・・聖天山(標高14m)・聖天山公園・・・JR天王寺駅

天保山渡船場     渡船から見た阪神高速ブリッジ

 

天保山公園

 

天保山山頂 (標高4.53m) 👈日本一低い山

 

グリーンヒルズ(標高22.1m)

 

ジャカランダの花

 

ジャカランダの花

 

甚兵衛渡船場     ▼水門

 

            昭和山山頂(標高33m)

 

昭和山からの展望   ▼落合下渡船場

 

 

聖天山(標高14m)   ▼聖天山公園

 

あべのハルカス         ▼JR天王寺駅

  

大阪市の渡船場図

 


小谷城

2014年06月12日 | 滋賀県の城郭・環濠

  小谷城は、大永3年(1523年)頃に、初代浅井亮正が小谷山の南の尾根に築いた山城です。築城時は、現在の本丸跡よりさらに北の大嶽城が、本丸であった。二代、浅井久政、三代、浅井長政によって拡張を重ね多くの砦を持つ堅固な山城となった。元亀・天正の争乱で4年間織田信長に攻められ天正元年(1573年)8月28日落城した。その後、浅井氏の旧領のうち伊香郡・浅井郡・坂田郡は、羽柴秀吉に与えられた。羽柴秀吉は、小谷城を嫌い、天正3年(1575年)に今浜に新しい城を築城して居城(長浜城)した。そのため小谷城は城割りで廃城となった。現在、曲輪(郭)、石垣、空堀、土塁などが残っています昭和12年(1937年)に国の史跡に指定された。

[所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)]

アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩

JR北陸本線・河毛駅前の浅井長政と市の像    ▼正面の山が小谷山

 

小谷城とその支城・砦の配置図 

出丸跡     

 本丸などがある尾根の先端にあり、敵の侵攻に対しては最前線で、戦い、敵の侵入を食い止めるための砦である。敵の動きを見張る役目した。                             

 

出丸の略図

 

金吾丸跡

 大永5年(1525年)、浅井亮政を攻めるため六角定頼に味方した朝倉教影太郎左衛門尉が陣地を築いた所である。金吾丸の「金吾」は、左衛門尉のことである。

 

③番所跡             ▼番所略図

 本丸への入り口にあたり、通行する人を見張ったり、怪しい人を呼びとめて検問した所である。

 

番所からの眺め 中央の山が織田軍が布陣した『虎御前山砦』です

御茶屋跡            ▼御茶屋略図

 中央に土塁が見られ、その内部に御殿があった。

 

 ▼御茶屋跡

 

御馬屋跡          

 馬屋があったところです。                     

 

御馬屋略図

 

首据石                               

 天文2年(1533年)、京極氏の家臣だった今井秀信が六角氏に味方したため、浅井亮政が秀信を神照寺(長浜市神照寺)に呼び出して謀殺し、その首をこの石にさらした。      

赤尾屋敷跡

 浅井氏の重臣の屋敷跡で、天正元年(1573年)9月1日,浅井長政は、29歳でここで自刃した

黒金御門跡

 石段を上ったところに黒金御門があった。

 

桜馬場跡             ▼桜馬場略図

 南北に長く、東西二段からなっている曲輪(郭)跡である。 ここは、最も重要な「物見」の場所であった。                  

 

浅井長政と家臣の供養塔

 小谷城の戦で700名もの兵士が亡くなり、小谷城址保勝会が、浅井氏と家臣団の霊を慰めるため、昭和47年にこの供養塔が建立されました。

大広間跡

 小谷城の曲輪(郭)の中では、一番広いところ(約3,000m)であった。

 

本丸跡

 

本丸・大広間略図        ▼御局屋敷跡

 

大堀切跡

 本丸北側の下の大きくくぼんだところは、「堀切」で「大堀切」と呼ばれている

 

中丸跡             中丸略図      

 中丸は、三段からなる曲輪(郭)で、それぞれ上段から下段に向かい、また、虎口の左右から侵攻する敵を討つように造られている。           

 

京極丸跡               小丸跡

 

小丸・京極丸略図

 

 

山王丸跡            ▼山王丸略図 

 

六坊跡             六坊略図

 浅井氏の領国内にある寺院の出張所が置かれていた。                 

 

大嶽(おおづく)城跡

 小谷山の最高峰(標高495m)に、初代城主浅井亮政が最初に築いた城跡である。

 

大嶽城概略図

 

福寿丸跡            福寿丸略図 

 元亀3年(1572年)、に朝倉軍が最新の築城技術を駆使して手直しした城郭です。 

 

 

山崎丸跡            ▼山崎丸略図                      

 朝倉軍の築城技術によって改造された城郭。 

 

 

2014/06/10 訪城 

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姉川の戦     元亀元年(1570年)

 2月、浅井氏が突然朝倉氏側に立って挙兵。朝倉攻めの織田信長が京へ脱出。6月浅井攻めに着手、織田信長軍2万3千騎・徳川家康軍5千騎と浅井長政軍5千騎・朝倉義景軍8千騎が姉川で激突。援軍の徳川家康軍の奮闘で織田信長方の勝利。

小谷城の戦   天正元年(1573年)

 8月織田信長軍の越前侵攻と小谷城攻め。織田信長軍、一乗谷の戦いで大勝した後小谷城を猛攻し朝倉氏、浅井氏両家の滅亡。お市の方と娘3人が浅井氏から織田信長に返される。


大嶽(おおづく)城

2014年06月12日 | 滋賀県の城郭・環濠

 大嶽城は、大永3年(1523年),小谷山の最高峰(標高495m)に、初代浅井亮政が最初に築城した山城である。その後、主郭は、現在の「本丸」跡に移されたが、ここは朝倉氏の築城技術を取り入れて、強固な守りの城に改造された。土塁に囲まれた主郭の周囲には、横堀や段々状の曲輪(郭)が造られている。しかし、天正元年(1573年)8月12日,小谷山の北側にあった焼尾砦の主将、浅見対馬守が織田信長に寝返ったため、大嶽城は、落城した。現在、土塁、石垣が残っています。

[所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部]

アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩

険しい尾根を登って行く。

 

 

大嶽城略図                 ▼大嶽城址碑

 

大嶽城主郭          小谷山山頂(主郭)

 

2014/06/10 訪城


木造城(こつくりじょう)

2014年06月10日 | 三重県の城郭・環濠

 木造城は、正平21年(1366年)に伊勢国司・北畠顕能の次男北畠顕俊が一志郡木造に築城した平城です。北畠顕俊は地名を取り木造氏と改め、初代城主として一志郡を支配しました。現在の木造城跡は、7代木造俊茂が亭禄元年(1528年)、古城の北約300mに新しく築いた新城です。城は、低湿地に囲まれた天然の要害で、多重に堀を巡らし守りに適した堅固な城であった。永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻してくると北畠家を離反し、木造具政は、北畠侵攻の案内役を務めます。信長の次男信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣事で和解した後は、木造氏は、織田(北畠)信雄の家老となり、9代木造具政が天正12年(1584年)に「小牧・長久手の戦」の局地戦の宮山城、戸木城の戦で織田軍の家老として奮戦しています。戦後に、戸木城に移ったことにより、木造城は廃城となった。現在、田園の真ん中に小高い丘が残っているだけですが、これが木造城の土塁の一部と思われます。城跡の南にある集落は、かっての武家屋敷の名残とされ、木造氏ゆかりの木造神社や引接寺があるかっての城下町である。

[所在地:三重県津市木造町字城]

アクセス>近鉄名古屋線・桃園駅下車徒歩約30分

田園の中の小高い丘に石碑と案内板が建っている。

 

木造城址碑

 

2014/06/08 訪城 

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戸木(へき)の戦  天正12年(1584年)

 織田信雄と豊臣秀吉の抗争で、絶縁。「小牧・長久手の戦」の局地戦。豊臣秀吉方、松ケ島城主・蒲生氏郷と織田信雄方戸木城主・木造(こつくり)長政が激突。豊臣秀吉と織田信雄、徳川家康が和議。のち織田信雄没落。関ヶ原の戦で、木造長政は織田秀信(西軍)に従う。


斎宮城

2014年06月10日 | 三重県の城郭・環濠

 斎宮城は、室町時代の後半、戦国時代の頃、斎宮の住人、野呂三郎が築城した平城です。野呂三郎は、弘治元年(1555年)12月に南伊勢のあぶれ者数百人と結託して、勝手に借物を破ろうと企て、徳政の乱(つまり徳政一揆:負債の破棄を要求する暴動)を働いた。一味の者どもがほら貝を吹き、ときの声を上げて、あちこちを焼き払い、斎宮城に立て籠もった。しかし、伊勢国司・北畠材親(きちか)配下の伊勢南部の武士によって討伐された。その後、廃城となった。現在、城跡は、明治39年(1906年)に始まる神社統合命により、明治44年(1911年),旧斎宮村にあった25社の神を合祀して誕生した竹神社となっている。

[所在地:三重県多気郡明和町斎宮字牛葉(竹神社)]

<アクセス>近鉄山田線・斎宮駅下車徒歩約5分

案内板             ▼斎宮城跡碑

 

竹神社(斎宮城跡)

   現在は、旧斎宮村にあった25社の神を合祀して、竹神社になっています。

 

2014/06/08 訪城


斎宮の花菖蒲

2014年06月09日 | 花見

2014/06/08 三重県明和町の参宮の花菖蒲を鑑賞に行ってきました。

[所在地:三重県多気郡明和町]

<アクセス>近鉄山田線・斎宮駅下車徒歩約25分

天然記念物・斎宮のハナショウブ群落

 この群生するショウブは、現在栽培されている花菖蒲の原種「ノハナショウブ」で平野に群生しているものは珍しく、昭和11年12月16日に国の天然記念物に指定されました。現在、約6アール余りの湿地に保護され、毎年6月に咲く紫紺の花は、昔の面影を偲ばせてくれます。

 

 

 

 

 現在、見頃です。


王朝絵巻「斎王群行」の『斎王まつり』

2014年06月09日 | 文化・歴史散策

2014/06/08 王朝絵巻「斎王群行」の『斎王祭り』に、三重県多気郡明和町に行ってきました。

<アクセス>近鉄山田線・斎宮駅下車すぐ

 斎王とは天皇の代わりに伊勢神宮の天照大神にお仕えしていた女性のことで、天皇の娘や姉妹などの中から未婚女性から選ばれ都から遠く離れた斎宮で暮らしていました。初代斎王は飛鳥時代の天武天皇の長女,大来皇女です。斎王の主な役目は年3回、10月の神賞祭と6月と12月の月次祭の時お参りすること。3泊4日をかけて伊勢へ赴き、天照大神に大玉くしを捧げるという祭祀を執り行ったのです。斎王が役目を終えるのは、天皇が次の天皇に位を譲った時や、天皇や斎王の身内が亡くなったとき、または斎王自身が病気にかかったときなどでした。長い人で50年も努めた斎王もいるとか。役目を終えるまで決して都へ帰れなかったのです。

禊の儀・出発式(上園芝生広場) 13:00~

 

斎王群行(上園芝生広場~斎宮歴史博物館まで)13:30~

 

 

                                             女別当の輿

 

 

            斎王の輿

 

斎王役(伊藤暁美さん)

  

 

            子供斎王の輿

 

  斎王祭りは、昭和58年、地元の婦人会の有志の皆さんが、しょうということで始まりました。今年は,「第32回斎王まつり」でした。この祭りの見所は、都から遠く離れた伊勢の地に群行された様子を再現した「斎王群行」です。現在「斎王まつり」は全員ポランティアの実行委員により運営されています。


観音寺城

2014年06月03日 | 滋賀県の城郭・環濠

 観音寺城は、湖東平野の中心部にある独立丘陵、標高432.9m、南北に伸びる繖山(きねがさやま)の南半分を中心に築かれた日本最大規模をほこる山城です。本格的に城郭としての整備を行うのは応仁の乱以降で、南腹の斜面に多くの廓(曲輪)を造り、家臣や国人領主の屋敷を配置した。天文年間には、城下町・石町も置かれ、日本最初の楽市令が敷かれた。さらに鉄砲の伝来による戦術の変化に対応し、1550年代には石垣を整備し、今日見られるような総石垣の城構えとなった。しかし、城の大きさの割に防御施設というほどのものが無く、それは六角氏が地元の有力国人の連合政権の上に成立していたためである。永禄11年(1568年)六角承禎が、織田信長の攻撃を受け、戦わず城を放棄したことにより、観音寺城は、落城。その後、永禄11年(1568年)廃城となった。、本丸、落合丸、平井丸、池田丸以外の郭は、ほとんど草木に覆われている。現在、観音寺城跡は、国の史跡になっています。

[所在地:滋賀県近江八幡市安土町大字石寺]

<アクセス>JR琵琶湖線・安土駅下車徒歩70分        

    安土駅(徒歩約40分)桑實寺(徒歩約30分)観音寺城本丸跡

    *()安土駅から、近くまでタクシーで行く方法、他のアクセスもあります。

観音寺城の概要

観音寺城跡略図

 

本丸の石垣      ▼本丸跡碑    ▼本丸跡中心部分

  

本丸の石垣                                   ▼本丸跡中心部分

 

本丸石垣

 

落合氏屋敷跡碑          ▼平井丸虎口 

  

食い違い虎口           ▼平井丸角の石垣

 

平井氏屋敷跡碑           ▼立派な石垣

 

池田氏屋敷跡碑            ▼本丸からの石垣の階段                

 

観音正寺への道         観音正寺境内

 

 現在の観音正寺の場所は、上御用屋敷であった。

                  ▼観音正寺本堂

 

2014/06/01 訪城   


近江の繖山(きぬがさやま)三角点巡り

2014年06月02日 | 文化・歴史散策

2014/06/01 滋賀県の繖山(きぬがさやま)三角点を巡るハイキングに行ってきました。

ハイキングコース>JR琵琶湖線・安土駅下車・・・桑實寺・・・観音寺城跡・・・観音正寺・・・繖山三角点・・・文芸の郷・・・JR琵琶湖線・安土駅

JR安土駅  ▼織田信長像  ▼繖山(地元では、「観音寺山」と言う

  

石段が400m続く

 

桑實寺(くわのみでら)   

 天智天皇の祈願寺院で、白鳳6年(678年)に天智天皇の四番目の皇女の病気を治すために創建。亮禄四年(1531年)室町幕府十二代将軍足利義晴が当時の細川氏の乱をさけて、当時の正覚院に三年間仮幕府を開いています。戦国時代にも全く戦火には、関係なく、桑實寺本堂(重要文化財)は、南北朝時代に建立されたままの姿です。 西国薬師霊場第46番札所です。                            

 

桑實寺から観音寺城跡・観音正寺までの道

 

桑實寺から観音寺城跡・観音正寺までの道

 

観音寺城跡       

 繖山山頂近くに築かれた近江源氏の嫡流で近江守護職である佐々木六角氏の居城。山腹に西国32番札所の観音正寺がある。          

                  ▼本城跡碑

  

本城跡中心部     ▼本丸の石垣

 

本城跡        ▼本丸の石垣

 

観音寺城石垣と門跡  落合氏屋敷跡

  

立派な石垣

 

 平井氏屋敷跡     ▼池田氏屋敷跡

 

          観音正寺への道

 

観音正寺

 聖徳太子の開基で、盛時には、寺坊33院(72坊,3院とも)といわれるほど、大きな勢力を誇っていた。鎌倉時代に、近江守護職となった佐々木氏は、この大伽藍をしばしば砦として利用したが、本格的な築城にともない、山下の観音寺山東の観音谷に降ろされた。観音寺城落城後、再び堂塔が営まれた。西国第32番札所でもある

 

 

観音寺正寺本堂

 

観音正寺からの眺め

ねずみ岩            ▼三角点へ

 

繖山(きぬがさやま)

 琵琶湖の東、湖東平野にある標高432.9mの山で、この山には、「観音寺正寺」や「観音寺城跡」があることから、地元では古くから「観音寺山」と呼んでいます。

繖山・三角点への道   ▼繖山山頂  ▼三角点

   

繖山・三角点からの眺め三角点から下山へ