nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

私部城(交野城)

2013年07月27日 | 大阪府の城郭・環濠

 私部城は、南北朝時代の文和元年(1352年),免除川の南側の南西に延びる丘陵に、安見清儀によって築城された連郭式平城です別名交野城とも呼ばれていました。安見直政の時、三好長慶に攻められ安見直政は逃れたが、永禄12年(1569年),織田信長が河内国を平定したため、安見直政は所領を回復し私部城を居城とした。安見直政病没後、天正元年(1573年),大和筒井順慶軍に攻められ落城。天正3年(1575年),織田信長の命により廃城になった。

[所在地:大阪府交野市私部]

アクセス>京阪交野線・交野市駅から徒歩10分

和部城(交野城)の概要

私部城縄張り図

二郭(字天守)跡

 

本郭(左側)と二郭右側)の間の空堀      ▼本郭

 

私部城址碑                      

 

2013/07/26訪城

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北田 好忠 (?~1573年)

 安見直政が病没したことを聞き、天正元年(1573年)私部城へ大和の筒井勢が攻めよせた時、安見直政の重臣、北田久左衛門尉好忠は、その落城の最後を飾った勇士である。北田氏は、家系図によると、北畠顕家から出ているが、南朝没落後、足利家の世となって民間に下り、その姓をはばかって、北畠のを除き北田と称した。いつの頃か安見家の客分となり、その武芸を望まれて、以来その重臣となった。

徳川家康の脱出行 天正10年(1582年)

 徳川家康一行が堺から京都に戻る途中、河内飯盛山付近で明智光秀に織田信長が殺害された本能寺の変の凶報を知る。ただちに、交野・星田の郷士、平井家に立ち寄り、たくさんのにぎりご飯と道案内役と剣客の護衛を得て,間道伝いに近江国の信楽庄から北伊賀の御斉(おとき)峠を越え、伊賀郡西山、上拓植を経て加太峠を越えて伊賀国の関に出る。船で、伊勢湾を横断し4日間で三河の岡崎城に無時戻った。[33年後の大阪夏の陣の時、5月5日に京都の二条城を出撃した家康は15,000騎の兵を従え交野・星田の郷士、平井家に本陣を置き宿泊している。]


槇島城

2013年07月26日 | 京都府の城郭・環濠

  槇島城は、宇治川の中州に所在した。 この地には、槇島氏という豪族が、根を張り、城郭を築いていた。それが室町時代から安土桃山時代にかけて宇治に勢力を張った槇島氏の居城とされる槇島城です。槇島氏は、奉公衆として足利将軍家に仕えた。元亀4年(1573年),将軍足利義昭が織田信長に反旗を翻して槇島昭光を頼り、槇島城で挙兵、籠城した。そして城に籠った足利義昭は敗れ、槇島昭光とともに落ちのび、名実ともに足利幕府は滅んだ。伏見城築城後は、その戦略的価値を低下させ廃城となった。現在は、宇治川の流れも変わり、城域と推定される場所の一隅に「この付近、槇島城」という石碑が立っています。

[所在地:京都府宇治市槇島町]

アクセス>JR奈良線・宇治駅から徒歩

この付近槇島城の石碑(住宅地の公園内) ▼槇島城の場所

 

元亀4年(1573年)槇島合戦における織田信長軍の進路

2013/07/26訪城

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宇治川の戦  寿永3年(1184年)

 木曽義仲の追討で、源範頼、義経が上洛してきて、宇治川の渡河で、激突する。梶原源太景季と佐々木四郎高綱が激しい先陣争いをする。源義経、京都へ進撃する。木曽義仲は、敗れて大津打出浜へ退去する。

槇島合戦    元亀4年(1573年)

 第15代将軍足利義昭が織田信長に反旗を翻し、足利義昭から知らせを受けた摂津の伊丹氏等とともに槇島城で3,700騎で挙兵、籠城したが、織田軍に攻め落とされ、足利幕府は滅び去った。


膳所城

2013年07月07日 | 滋賀県の城郭・環濠

   慶長5年(1600年)関ヶ原の戦に勝利した徳川家康は、翌年の慶長6年(1601年)東海道を制し湖上の船運を抑える目的で、大津城を廃し、現在の膳所城址公園(膳所崎)に四層四階の天守のある膳所城を築城させた。完成後は、戸田一西が30,000万石で入城した。その後城主は、ころころ変わったが、慶安4年(1651年)以後は、譜代大名の本多氏の世襲となり、60,000万石で、明治維新まで続いた。膳所藩の重要な任務として、京都の警備、特に禁中火番や洛中火消という消防活動が幕府から命じられ、幕末までその任務が遂行されていた。城は、湖中にせり出すように本丸、二の丸、三の丸が築かれた。明治6年(1873年)廃城となり、破壊されたが、現在、陸続きになった本丸址は、膳所公園として整備され、石垣がわずかに残っているほか、城門が、模擬再建されています。

[所在地:滋賀県大津市本丸町]

アクセス>京阪電鉄石山坂本線・膳所本町駅下車徒歩7分

                                          城門(模擬城門)

 

膳所城址碑

 

 

天守閣址

  

 

 2013/7/6訪城


大津城

2013年07月07日 | 滋賀県の城郭・環濠

   天正14年(1586年),豊臣秀吉は、坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに、現在の大津市浜大津に天守もある水城を築城させた。だが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では、大津城主の京極高次は、東軍(徳川方)に属し大津城に3,000騎で籠城した。防衛には、不向きな城であったが、奮戦し、7日間持ち堪え、9月13日西軍の立花軍が、二の丸を占領した時点で、高野山の客僧木食応其和尚の仲介で講和が成立した。9月14日に降伏開城した。京極高次は、近くの園城寺に入り,剃髪して、高野山に上った。西軍の15,000騎を大津城に釘付けにした。功績は、大きく、戦後、徳川家康は、京極高次に22,000石加増して若狭小浜城82,000石に転封させた。京極高次が若狭へ移りまもなくして、徳川家康は、大津城を廃城にした。

[所在地:滋賀県大津市浜大津5]

<アクセス>京阪電鉄石山坂本線・浜大津駅下車徒歩1分

大津城跡の石碑・・・・・京阪浜大津駅から琵琶湖側へ道路を渡ったところに設置されています。

 

大津城縄張り推定図

階段の下が大津城本丸址です。

 

2013/7/6 訪城

 

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壬申の乱 瀬田川の戦 弘文元年(672年)

 天智天皇後の皇位争いで、近江朝、大友皇子(天智天皇の子)軍と大海人皇子(天智天皇の弟)軍が、近江国の瀬田川で戦い、大津宮陥落。大友皇子自害。翌年、大海人皇子は、飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)宮で即位し、天武天皇となる。

木曽義仲、打出浜で最後の戦 元暦元年(1184年)

 源頼朝が、木曽義仲を追討のために、弟の源範頼、源義経を上洛させる。近江国の打出浜で木曽義仲軍約300騎と範頼、義経軍と最後の戦になり、義仲大津栗津で戦死(31歳)。

比叡山焼き討ち 元亀2年(1571年)

 浅井・朝倉に協力したことで、織田信長、比叡山延暦寺を30,000騎で焼き討ちする。そして、延暦寺の近江国の寺領を乗っ取る。

大津城の戦 慶長5年(1600年)

 関ヶ原の戦の前哨戦。大津城主で6万石の京極高次が、東軍(徳川方)に与したために、大津城に3,000騎で籠城。西軍(大坂方)15,000騎の攻撃を受ける。大津城は、関ヶ原の戦の前日の9月14日に落城。京極高次の正室(常光院)は、お市の方の三姉妹の次女。