私部城は、南北朝時代の文和元年(1352年),免除川の南側の南西に延びる丘陵に、安見清儀によって築城された連郭式平城です。別名交野城とも呼ばれていました。安見直政の時、三好長慶に攻められ安見直政は逃れたが、永禄12年(1569年),織田信長が河内国を平定したため、安見直政は所領を回復し私部城を居城とした。安見直政病没後、天正元年(1573年),大和筒井順慶軍に攻められ落城。天正3年(1575年),織田信長の命により廃城になった。
[所在地:大阪府交野市私部]
<アクセス>京阪交野線・交野市駅から徒歩10分
▼和部城(交野城)の概要
▼私部城縄張り図
▼二郭(字天守)跡
▼本郭(左側)と二郭(右側)の間の空堀 ▼本郭
▼私部城址碑
2013/07/26訪城
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◆北田 好忠 (?~1573年)
安見直政が病没したことを聞き、天正元年(1573年)私部城へ大和の筒井勢が攻めよせた時、安見直政の重臣、北田久左衛門尉好忠は、その落城の最後を飾った勇士である。北田氏は、家系図によると、北畠顕家から出ているが、南朝没落後、足利家の世となって民間に下り、その姓をはばかって、北畠の白を除き北田と称した。いつの頃か安見家の客分となり、その武芸を望まれて、以来その重臣となった。
徳川家康の脱出行 天正10年(1582年)
徳川家康一行が堺から京都に戻る途中、河内飯盛山付近で明智光秀に織田信長が殺害された本能寺の変の凶報を知る。ただちに、交野・星田の郷士、平井家に立ち寄り、たくさんのにぎりご飯と道案内役と剣客の護衛を得て,間道伝いに近江国の信楽庄から北伊賀の御斉(おとき)峠を越え、伊賀郡西山、上拓植を経て加太峠を越えて伊賀国の関に出る。船で、伊勢湾を横断し4日間で三河の岡崎城に無時戻った。[33年後の大阪夏の陣の時、5月5日に京都の二条城を出撃した家康は15,000騎の兵を従え交野・星田の郷士、平井家に本陣を置き宿泊している。]