nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

御室御所(仁和寺門跡)

2015年05月04日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 御室御所(仁和寺)は、平安時代、第58代光孝天皇が西山御願寺として着工されたのに始まります。仁和4年(888年)宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和寺を完成されました。宇多天皇は退位後、出家して仁和寺を住房とされ、真言密教の修行に励まれました。以来、明治維新まで皇子皇孫が仁和寺の門跡となられ、仁和寺は御室御所とも呼ばれました。現在、仁和寺は真言宗御室派の総本山であり、平成6年に国連の世界遺産に登録されました。

[所在地:京都市右京区御室大内33]

<アクセス>JR京都駅又は円町駅から市バス26系統、JRバス高雄・嵐山行でバス停「御室仁和寺」下車すぐ。

仁和寺の概要

仁和寺の略図

仁和寺御所址の碑 仁王門(重要文化財)

 

本坊表門(重要文化財)   ▼大玄関

 

勅使門          ▼白書院

 

シン殿の概要

シン殿より南庭をのぞむ  ▼シン殿

  

シン殿

 

シン殿

 

 シン殿より北庭をのぞむ  ▼中門(重要文化財)

 

▼金堂(国宝)           ▼五重塔(重要文化財)

 

2015/04/30 訪問


栗田御所(青蓮院門跡)

2014年11月06日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

  青蓮院門跡は、天台宗の祖、最澄が比叡山を開くにあたって造られた住坊(青蓮坊」が起源で、創建は、1150年、開基は行玄です。天台宗比叡山延暦寺の五ケ所門跡の一つとして、皇室と関わりが深く、高い格式を誇ってきました。別名を栗田御所といい、江戸時代には後桜町上皇の仮御所になっています。約6000坪の境内全域が国の史跡に指定されています。

[所在地:京都市東山区栗田口三条坊町69-1]

<アクセス>京都市営バス5・46・100系統「神宮道」下車徒歩3分または、地下鉄東西線「東山」下車徒歩5分 

 

栗田御所(青蓮院門跡)境内図

 

シン殿・・・重要な法要を行う。

   親鸞聖人が第三代門主磁円により得度を受けた場所でもある。  

 

 

庭園

 

 2014/11/5 訪問 

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 栗田御所(青蓮院門跡)からシャトルバスで「将軍塚・青龍殿」へ行きました。

 

 

将軍塚青龍殿

将 軍 塚

  延暦3年(784年),桓武天皇は都を奈良から京都南方の長岡に移しましたが、いろいろと事故が続きました。そこで和気清麻呂らは狩りに事よせて天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨、進言しました。天皇はその勧めに従って794年平安建都に着手したのです。天皇は、都の鎮護のために高さ2.5m程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ太刀を帯させ、塚に埋めるように命じました。これがこの地を「将軍塚」と呼ぶ由来になっています。国家の大事があると将軍塚が鳴動したという伝説が、「源平盛衰記」や「太平記」に残されています。今、この塚のほとりから眼下に京都の街を眺めるとき、栄枯盛衰の永い歴史が思い出されます。

 

将軍塚青龍殿

                                              ▼後継之松

 

将運塚からの眺・・・・京都タワーが見えます

将軍塚からの眺・・・京都御所が見えます

将軍塚からの眺め ・・・金戒光明寺が見えます

2014/11/5訪問


樟葉宮(507年~512年)

2014年09月22日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 武烈天皇の死後,継体天皇元年(507年)、継体天皇は、北河内の樟葉で即位されました。「日本書紀」によると、「天皇行至樟葉宮」とあり、その宮が樟葉宮です。継体天皇は、5年後に山背国筒城に移られましたが、5年間、樟葉宮が存在しました。樟葉宮跡と伝えられるのは、枚方市の交野天神社境内の東北方に当る小高い丘にある貴船神社の付近と伝えられています。現在、大阪府指定史跡になっています。

[所在地:大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社境内]

クセス>京阪線・樟葉駅下車徒歩約20分

 

階段の下にある石碑比付近継体天皇樟葉宮跡とある。

  

石碑には史跡 継体天皇樟葉宮跡伝承地とある。

 

宮跡と推定される場所には、枚方市指定文化財の船神社が祀られています。

2014/09/21 訪問


嵯峨御所(大覚寺門跡)

2013年12月05日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 延歴13年(794年)11月、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都する。桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため弟の嵯峨天皇に在位わずかで譲位するが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は動揺していた。遷都から20年を経て即位した嵯峨天皇は、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は、安定に見えた。一方、嵯峨天皇は都より離れた北野の地をこよなく愛され、壇林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立された。これが離宮嵯峨院である。嵯峨の地名は、唐(中国)の都・長安の北方にある景勝地、嵯峨山になぞられたものである。離宮嵯峨が大覚寺(正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡と称し、嵯峨御所とも呼ばれた。)となったのは皇孫である桓寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。明治初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。昭和13年(1938年)には、大覚寺御所跡として境内全域が国指定史跡に指定された。

[所在地:京都市右京区嵯峨大沢町4]

<アクセス>JR山陰本線・嵯峨嵐山駅から徒歩20分(1.3km)

                               表門(玄関門)

 

式台玄関               

心経前殿(御影堂)

正 寝 殿 ・・・重要文化財 桃山時代 木造入母屋造桧皮葺

五大堂の濡縁から東側の大沢池の景観

2013/12/03 訪問

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嵯峨天皇 (786年~842年、在位809年~823年)

 第52代嵯峨天皇は、桓武天皇の皇子で、能書家として弘法大師、橘逸勢とともに「三筆」の一人として数えられた。天皇は、退位後,離宮嵯峨院に移って崩御され、御陵も西北の山上に営まれている。離宮嵯峨院は、その後大覚寺となる。


飛鳥浄御原宮(672年~694年) ・ (伝飛鳥板葺宮)(643年~655年)

2013年10月08日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。宮域は、南北800m,東西500mの規模である。下層には、斉明朝の後飛鳥岡本宮、皇極・斉明朝の伝飛鳥板葺宮(でんあすかいたぶきのみや)など、宮が重なって置かれたこの地は、古代飛鳥の中心地。大化の改新で、蘇我入鹿が暗殺された場所でもある。藤原京に遷都後、飛鳥の地を懐かしく想い、歌を詠んだ志貴皇子の万葉歌碑がある。現在、史跡に指定されている。

[所在地:奈良県高市郡明日香村岡]

アクセス>橿原神宮駅からバス『飛鳥』下車(バス10分)

志貴皇子の万葉歌碑

 2013/10/08 訪問


恭仁京 (くにきょう) (740年~743年)

2013年09月25日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)10月、聖武天皇は、平城京を離れ、伊賀、伊勢、美濃、近江を行幸して、天平12年(740年)年12月5日、恭仁宮に入り遷都を宣言しました。山背国相楽郡の地を選ばれた理由は、左大臣・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されています。天平13年(741年)11月には、「大養徳恭仁大宮」という正式名称が決められ、大極殿は平城京から移築され、大宮垣が築かれ、そして宮殿が造られた。条坊地割りが行われたが、都として完成しないまま天平15年(743年)の末には、この京の造営は、中止されて、聖武天皇は、近江紫香楽宮に移り、さらに天平16年(744年)2月に難波京に遷都、さらに天平17年(745年)5月に都を平城京へ戻された。遷都後、宮城跡地は、山城国分寺として再利用されることになった。天平18年(748年)大極殿は、金堂に転用された。昭和32年(1957年)7月に「山城国分寺跡」として国の史跡に指定されたが、平成19年(2007年)2月6日には、なぜか? 史跡名称が、「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更された。現在は、広大な平原となっており、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残されています。

[所在地:京都府木津川市加茂町例幣]

アクセス>JR加茂駅西口より徒歩で約30分。

恭仁京大極殿址の碑  ▼大極殿(金堂)址

 

山城国分寺址恭仁宮址の碑 なぜか?恭仁宮址の文字が小さい!!

山城国分寺・七重塔跡の礎石

 

山城国分寺跡の広大な平原

山城国分寺の想像図・・・築地に囲まれているのが、金堂(大極殿)。右が七重塔。

2013/09/25 訪問

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藤原広嗣の乱  天平9年(737年)

 天平9年(737年),武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の藤原四兄弟がそのころ大流行した天然痘に冒され、相次いで没した。その後に台頭したのは、聖武天皇が抜擢した三羽ガラスの右大臣橘諸兄と大陸帰りの秀才玄坊・吉備真備であった。翌年末、藤原宇合の子藤原広嗣は、突如、大宰府の少弐に左遷された。このころの都の貴族にしてみれば、九州は僻遠の地であり、そこの官人になって下ることは、文字どおり「都落ち」であった。しかし、当時二十代の藤原広嗣は、失意に沈んでいるヤワな人間ではなかった。天平12年(740年)8月29日、太宰少弐藤原広嗣の上表文が都に届いた。そこには天変地異の続出は政治が悪いからだとし、玄坊・吉備真備を処分するよう書かれていた。続いて9月3日,大宰府管内九州三島の兵を動員して反乱を起こした情報が入り。聖武天皇は、直ちに大野東人を総司令官に任命して17,000騎の追討軍を編成して西下させた。追討軍と反乱軍の藤原広嗣の本隊10,000騎は、10月9日,豊前国(現在の福岡県)企求郡で会戦した。この時、追討軍に従軍していた勅使(天皇の使者)が藤原広嗣と舌戦し、藤原広嗣は答えに窮して引っこんでしまった。それで反乱軍は、動揺し、その後の戦いは、追討軍の完全な勝利に終わったのである。藤原広嗣らは、逃亡したが、10月23日,五島列島の僻島で捕えられ、11月1日には処刑された。藤原広嗣の乱は、聖武天皇の政治に対する大規模な反乱だったのである。


大津宮(667年~672年)

2013年09月14日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 大津宮は、667年に天智天皇が飛鳥から近江へ宮を遷して造営したものです。近江大津宮ともいわれている。660年、百済が新羅と唐の連合軍に攻められて亡んだ。百済は,倭国(日本)にとって同盟国であり、国外にある防波堤であったため、時の倭国(日本)の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、663年の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は新羅・唐連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。百済復興戦争の敗北は、対外関係上の猛威を抱えることとなり、九州北部から近畿にかけて多数の山城や防衛施設を設けた。そして、国外の猛威に対抗する政治体制を新たに構築するために、中大兄皇子は、667年3月19日、宮を抵抗勢力の多い大和の飛鳥岡本宮から近江大津宮へ遷した。671年に天智天皇が没すると、天皇の子の大友皇子(弘文天皇)が大津宮を嗣いだが、壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に敗れ、勝った大海人皇子は皇位継承し天武天皇となり飛鳥に飛鳥浄御原宮を造営したため、大津宮はわずか5年余りしかつかわれなかった。現在は、国指定の遺跡として整備されている。

[所在地:滋賀県大津市錦織]

アクセス>JR湖西線大津京駅下車徒歩10分

 

内裏正殿建物復元図

 

2013/09/12 訪問

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 疑問 Rの最寄りの駅名大津宮ではなく大津京でしたなぜ? 

 理由  大規模な条坊制をともなったものを「京」と言うが、大津宮は、「京」といえる程の規模ではない。

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 壬申の乱・瀬田川の戦い 弘文元年(672年)

 天智天皇後の皇位争いで、近江朝、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)が、近江国の瀬田川で戦い、大津宮陥落。大友皇子自害。翌年、大海人皇子は飛鳥浄御原(あすかきょみがはら)宮で即位し天武天皇となる。              

 近江神宮・・・大津宮の北側にあります。

  創建は、意外と新しく、昭和15年(1940年)で、第38代天智天皇を祀っている神社。


長岡宮跡 (784年~794年)

2013年09月14日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 長岡京は、平安時代の初期、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市)に置かれた都城。桓武天皇は、延歴3年(784年)11月11日に平城京から長岡京に遷都し、延歴13年(794年)10月22日に平安京に遷るまで都にした。長岡京遷都の理由として、①既存の仏教勢力や貴族勢力に距離を置く,②新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係,③父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人身一新等が理由と歴史学者は言っているが、平城京が廃都になった最大の理由は、人口が20万人と増えすぎ、物質の輸送に有利な水運の便を欠いたのと水不足による衛生上の問題が最大の原因であった。これに対し、長岡京の山崎津や淀津には、当時大洋や瀬戸内海を航行する船がそのまま遡航(そこう)してくることができた。また天皇の信任の厚い藤原種継の母や藤原小麻呂の妻の実家は、山城の葛野(かどの)郡や乙訓郡に居住する裕福な渡来系氏族秦氏で、この一族が遷都に協力を申し出て、誘致に努力した。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移転するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は、朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。しかし、785年9月には遷都の首唱者の藤原種継が暗殺され、これに関係したとされる桓武天皇の皇太弟早良親王の廃太子事件が起きた。ところが、完成近かった都も洪水や政争が続き、早良親王の怨霊に悩まされた桓武天皇によって,遷都わずか10年後の延歴13年(794年)に平安京へ都を遷すこととなったのである。現在、長岡宮跡は、国指定史跡となっています。

[所在地:京都府向日市鶏冠井(かいで)町]

アクセス>阪急電鉄京都線西向日駅下車徒歩5分

  

長岡宮朝堂院跡

 朝堂院は、宮の中心にある国家の政務・儀式を行う場所です。唐の長安城がモデルと言われ、東西に4つずつ、計8つの堂がありました。平成4年(1992年)、国の史跡に指定され、現在は、朝堂院公園となっています。

 

長岡宮概略図

長岡宮大極殿復元図・・・回廊に囲まれた殿舎が大極殿。

 大極殿は、朝堂院で行われる政治・儀式の際、桓武天皇が座る場所でした。昭和39年(1964年)国の史跡に指定されました。

長岡宮宝幢跡

宝幢(ほうどう)

 元旦や即位式にのぼり旗を立てる「宝幢」の赤い柱が大極殿の正面(南側)に復元されています。

 

  

2013/09/12 訪問


難波宮跡(645年~793年)

2013年09月07日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 難波宮跡は、飛鳥時代・奈良時代の難波(なにわ)にあった宮殿の跡です。乙巳(いつし)の変で蘇我氏が滅亡したのち,孝徳天皇が、大化元年(645年)に難波に遷都し、652年に完成させた前期難波宮と、奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が、藤原宇合に命じて難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした後期難波宮が、ほぼ同じ場所で営まれていた。784年,桓武天皇により、長岡京に遷都された際、大極殿等の建物が長岡京に移築された。793年に難波宮が廃止される。現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり園内には、復元された前期難波宮の八角殿跡や後期難波宮の大極殿基壇などが復元されています。

[所在地:大阪市中央区法円坂1] 

アクセス>地下鉄(谷町線)谷町四丁目駅下車東へ徒歩約5分

前期難波宮

 前期難波宮は、全ての建物が、掘立柱構造で、屋根瓦を葺かない建物であった。

    

後期難波宮 

 後期難波宮では、天皇が祭りごとをする中心の建物として「大極殿」が建てられました。建物は、基石造りとなり、屋根には瓦が使用された。

         儀式

 

史跡難波宮跡の全景

史跡難波宮跡入口付近  ▼回廊跡

 

大極殿基壇       ▼八角殿跡

大極殿は、天皇が祭りごとする中心の建物

 

2013/09/06 訪問

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乙巳(いつし)の変  大化元年(645年)

 新興豪族の蘇我氏が、渡来人の東漢人のバックアップを受けて、587年最大豪族の物部氏を倒し、豪族たちを主導して飛鳥朝廷を確立していきました。蘇我氏の勢いに危機感を持った中大兄皇子は、飛鳥寺の蹴鞠の席で、中堅豪族の中臣鎌足と知り合い、大化の改新の盟約をする。中大兄皇子の命により巨勢臣徳陀(こせのおみとこだ)が蘇我氏の最大の軍事氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)を説得して中大兄皇子の味方に付けてから、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を暗殺した。入鹿一族は、屋敷に火を放って自殺した。ここに蘇我氏総本家は、滅亡した。

大化の改新  大化元年(645年)

 乙巳(いつし)の変のあと、外国にも対抗できる「天皇を中心とした新しい国づくり」をはじめようとした。

 1. 蘇我氏やこれに味方した豪族の影響を避け

 2. 新しい宮殿で、国内や外国に天皇の力を示し

 3. 海と川の水運のかなめの地で、人の往来や全国各地から品物を運んでくれる便利な所を求めて、都を『飛鳥』から『難波』に移しました。

 このようにして、新しい政治の仕組みを作り、古代における近代的な『国作り』を『難波宮』から始めました。これを『大化の改新』と呼ばれています。

◆大化の改新のポイント◆

①天皇や豪族が支配していた「人と土地」を天皇(国)が直接支配する。[公地公民の制]

②都と地方制度を定める。日本を国と郡に分割して統治する制度[国・郡制度]

③戸籍を作成し人口調査を行う。公地を公民に貸し与える制度[班田収授の法]

④税制を定める。公民に税や労役を負担させる制度[租庸調制]

⑤役人の仕事をする時間帯(日の出から正午まで)を定める。

⑥孝徳天皇が仏教を熱心に信仰した。


吉野の南朝皇居(1336年~1348年)

2013年04月10日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

   南朝皇居は、元、吉水院(きっすいいん)と称し、今から約1300年前の白鳳年間(650~654年)に役行者の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗・金峯山寺の僧坊であった。延元元年=建武3年(1336年)京の花山院より免れた御醍醐天皇が吉野御潜幸になり吉水院宗信の援護のもと、ここを南朝の皇居(行宮)と定められたのである。

 明治維新の廃仏稀釈で、明治政府から強制的に明治8年に神社(吉水神社)に変更させられた。 重要文化財の宝庫で、 南朝の古文書・楽器・武具等ゆかりの宝物が数多く残されています。       

[所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山]

<アクセス>近鉄吉野駅からロープウェイ(5分)で吉野山駅(約5分)、吉野山駅から徒歩20分

 

吉水院の碑

  

        南朝の皇居(行宮)                      

 

建武の中興によって鋳造された貨幣(時価1枚1億円の金貨)

 

2013/04/09  訪問

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吉野山の戦 元弘3年(1333年)

  護良(もりよし)親王,金峰山寺僧兵ら1,000騎余で、吉野山で挙兵し、吉野山城(金峰山寺城)に龍城する。御家人の二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)率いる鎌倉幕府軍約60,000騎が押し寄せ、吉野山城炎上し、親王、紀州高野山へ落ち延びる。

吉野行宮への襲撃 正平3年(1348年)

  四条畷の戦いで楠木正行を討ち取った婆沙羅大名の高師直率いる約60,000騎の軍勢が、吉野山に、押し寄せ、吉野行宮に火を放ったが、風に煽られ、蔵王堂はじめ多くの寺院宝塔が焼け、吉野山一帯は、焼け野原となった。後村上天皇は、賀名生(現在の五条市西吉野)に逃れた。

後醍醐天皇(1288年~1339年)

 第96代天皇。鎌倉幕府の荒廃を見た天皇は、天皇親政復活のため、1324年、日野資朝・日野敏俊基らの側近と謀り、倒幕を計画するが、失敗する(正中の変)。1331年、再び計画が漏れて隠岐に島流しされたが、島前海賊衆の力で脱出し、1333年鎌倉幕府を倒して建武の政権を樹立した。しかし、軍功の恩賞は、武家より公家に配分が厚く、明らかに不公平と思われ納得できないと武士たちは、不平を鳴らし始めた。そして、足利尊氏が叛いたため、吉野に逃れて南朝をたてる。何度となく京都奪回をはかるが、1339年、後村上天皇に譲位後、都への思いを残しながら、大和国・吉野山でこの世を去る。

高 師直 (生年不詳~1351年)

 南北朝時代の武将、元弘の乱以降、足利尊氏に従い、室町幕府創立に軍功があり、室町幕府でも足利尊氏の執事として権威を振舞いました。その後、尊氏の弟、足利直義と対立し、正平3年(1351年)足利尊氏とともに足利直義軍に敗れ、剃髪帰順して京に向かう途中、武庫川辺りで足利直義党の上杉能憲に弟高師泰とともに殺害されました。


賀名生(あのう)皇居跡 (1348年~1392年)

2013年03月25日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 延元元年,北朝の建武3年(1336年)の12月21日、足利尊氏に都を追われた後醍醐天皇は、吉野へ向かう途中、同月23日に西吉野に立ち寄られました。天皇を手厚くもてなした地元の郷士「堀孫太郎信増」の邸宅は、その後、南朝三帝(後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)の行宮(あんぐう)となり皇居としての役割をはたします。1348年には、後村上天皇が、1373年には、長慶天皇が、1392年には、南朝最後の天皇後亀山天皇もこの行宮に入られました。南朝の忠臣北畠親房公も献身の甲斐なくこの地でお亡くなりになりました。ようやく南北朝が合一されたのは、尊氏の孫の足利義満が将軍になってからのことです。それから六百有余年、今も賀名生の地は南北朝の面影を漂わせています。茅葺きの、平屋建ての主屋は、全国でも最古に属する民家で重要文化財に指定されています。賀名生皇居跡は現在も堀元夫様が住居として使用されておられます

[所在地:奈良県五条市西吉野町賀名生1]

<アクセス>JR五条駅から五条西吉野線のバスで『賀名生和田北口』下車20分

 

  

                       

賀名生皇居跡(堀家住宅)

 

茅葺きの主屋(重要文化財)

2013/03/24 訪問

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北畠親房(1293~1354)

 南朝方の公家の重鎮。後醍醐天皇に登用されて大納言となり、一時、隠棲するが、建武の新政でカムバックし、1333年、陸奥の守に任じられた嫡男・顕家を補佐し、御醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州に下る。建武政権の崩壊後、京都に戻り、吉野に朝廷を開くことを企画して、南朝の指導的地位につく。常陸で南朝の勢力拡大に努めたが失敗し、吉野に戻る。この間「神皇正統記」を執筆して、南朝の正当性を主張した。晩年には南朝方は次第に追いつめられて、大和国・吉野の賀名生で孤独な死を迎える。

北畠親房公の墓・・・・・賀名生皇居跡から北に200m 


藤原宮(藤原京)跡(694~710)

2013年02月12日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 天武天皇のあと、即位4年(690年)、飛鳥浄御原で持統天皇が即位すると、即位8年(694年)より建設中だった藤原京に都を移した。藤原京は奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。藤原宮はその都の中心よりやや北寄りに配置した。藤原宮の大きさは約900m四方、周囲を約5mの大垣(高い塀)と濠で囲み、各面に三か所ずつ全部で12ケ所の門が設置された。大極殿などの建物は日本の宮殿建築では初めて唐風(中国風)の瓦葺で作られた。しかし,残念ながら今日のように衛生面と病理菌の発生の因果関係など、殆ど知る由もなかったために、疫病の巣窟となり、藤原京は、持統8年(694年)から和銅3年(710年)まで、持統・文武・元明天皇三代にわたる僅か16年の都で瓦解した。現在、藤原宮(藤原京)跡は、特別史跡として整備されている。

 [所在地:奈良県橿原市高殿町]

<アクセス>近鉄・大阪線耳成駅から徒歩30分

 

 

大極殿

 

 2013/02/10  訪問 


京都御所(1331~1869)

2013年01月20日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 延暦13年(794年)、桓武天皇による平安遷都から京都は皇城の地であった。鎌倉時代中期の元弘元年(1331年)光厳天皇がここに即位されて以後、明治2年(1869年)に明治天皇が東京に遷られるまで皇居とされた歴代の天皇がお住まいされた宮殿。築地塀で囲まれた京都御所の面積は、約11万m2である。

[所在地:京都市上京区]

<アクセス>地下鉄今出川駅⑥出口から徒歩約10分

 

宣秋門・・・春秋の一般公開の際に開かれる。

御車寄(みくるまよせ)             御車寄の玄関・・・昇殿を許された者が参内する時の玄関                                                                                 

                   

新御車寄(しんみくるまよせ) 

 大正14年(1915年)の大正天皇の即位礼に際し、建てられたもので、大正以後の天皇皇后両陛下の玄関である。

承明門                 

 

 

南 庭         建礼門(御所の正門)

 

紫宸殿(ししんでん  即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式高い正殿です。

                                        桧皮葺屋根の模型

 

 

御池庭・・・池を中心とした回遊式庭園です。

 

 

2012/11/01 訪問

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薬子の変 大同5年(810年)

 退位後に平城京へ移った平城上皇が、嵯峨天皇の政策に反発し、平城京遷都を建議する。嵯峨天皇は、坂上田村麻呂が派遣され平城上皇方の兵を阻止。藤原薬子は、毒薬で自殺、平城上皇は出家する

承和の変 承和9年(842年)藤原氏これから、朝廷内の有力貴族の排斥開始する。

 橘逸勢、伴健岑らが謀反のかどで流罪になり、皇太子恒貞親王も罪に問われ、縁者ともども配流となる。

応天門の変 貞観8年(866 年)

 応天門放火炎上の犯人として左大臣源信(みなもとのまこと)を訴えた大納言伴善男(とものよしお)が、逆に真犯人であると告発され、関係者一同流罪となる。伴氏は没落する藤原氏はさらに政権を固める。

安和の変 安和2年(969年)

 左大臣源高明が、右大臣藤原師伊の従者源満仲の密告により失脚、宮中は、大混乱になる。他氏を排斥した藤原氏は、以後内部で権力を争うようになる。

保元の乱 保元元年(1156年)

 後白河天皇方(源義朝、平清盛)と崇徳上皇方(源為義、源為朝、平忠正)の対立。院政をめぐる争いで、両派に与した源氏平氏の武士同士が戦する。源義朝が夜襲を献策して上皇方の集まる白河殿を攻撃し、勝利する。

平治の乱 平治元年(1159年)

 保元の乱後、源平の恩賞の片寄りと源氏方の不満より、源義朝と平清盛が争う。平清盛が勝利し、平氏の栄達(武士の台頭)、源氏の没落。

鹿ケ谷事件 治承元年(1177年)

 京都東山鹿の谷の俊寛の山荘で、後白河法皇の近臣、藤原成親・成経親子、平康頼、西光、中原基兼が中心となり平家打倒の陰謀を企てた。密告により、西光は斬首、成親は配流先で謀殺、成経、康頼、俊寛は九州の鬼界ケ島へ流罪となった。

宇治川の戦 寿永3年(1184年)

 木曽義仲の追討で、源範頼、義経が上洛してきて、宇治川の渡河で、激突する。梶原源太景季と佐々木四郎高綱が激しい先陣争いをする。義経、京都へ進撃する。義仲は敗れて大津打出浜へ退去する。

承久の乱 承久3年(1221年)

 源実朝の死を契機にした後鳥羽上皇による討幕の挙兵。執権北条義時追討の院宣に対して北条正子が激。宮方軍(後鳥羽上皇勢)が敗れ、後鳥羽、土御門、順徳3上皇を配流にする。宮方を監視するために、京都に六波羅探題が置かれることになった

元弘の乱 元弘元年(1331年)

 正中の変('1324年)に続き、御醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕計画が露見する。後醍醐天皇が、大和の笠置山に脱出して挙兵する。敗れて隠岐に配流される。(元弘3年、隠岐を脱出する。)

土岐康行の乱 明徳元年(1390年)有力守護の力を削いで、幕府権力の確立。

 足利将軍義満(三代)は、東海の主要拠点をおさえる土岐氏の勢力削減のため、兄弟の仲違いを誘う。さらに、幕府に反抗して挙兵した土岐康行を討った。

明徳の乱 明徳2年(1391年)有力守護の力を削いで、幕府権力の確立

 足利将軍義満(三代)は、惣領相続でもめる山名氏を親族同士で争わせ、さらに義満の挑発にのり京都に侵攻してきた山名氏清・甥の満(みつゆき)を倒す。山名氏の分国は、11ケ国から3ケ国に減る。

南北朝合体(1392年)

 足利将軍義満(三代)は南朝の後亀山天皇との間に和議を成立させ、三種の神器を取り戻し、南北朝を統一した。

今川貞世罷免 (1395年③有力守護の力を削いで、幕府権力を確立。

 九州探題として派遣され独自勢力を築いた今川貞世を足利義満は危ぶみ、その任を解いて左遷させる

応永の乱 (1399年)有力守護の力を削いで、幕府権力を確立。

 足利将軍義満(三代)は、大内氏の経済力を恐れ、圧力をかける。大内義弘は鎌倉公方・満兼(みつかね)らとともに挙兵し堺に龍城したが、討伐された。

嘉吉の変 嘉吉元年(1441年)

 播磨国守護の赤松満祐が、六代将軍足利義教を暗殺する。

応仁の乱 応仁元年(1467年)

 将軍家の後継争いに絡み管領の細川勝元派(東軍)と実力者の山名宗全派(西軍)が11年間対立して戦闘を繰り返した。(東軍20ケ国16万人、西軍20ケ国9万人を動員した。) 5月、上御霊社合戦。10月、相国寺合戦。その結果、京都市中は焼け野原になり室町幕府の権威は、失墜し、地方で下剋上の動きが拡大した。

 応仁の乱の終わりごろの文明8年(1476年)、後土御門天皇は、応仁の乱の戦乱による国土の荒廃と朝廷の衰微を興すため有名社寺に勅使卜部兼倶をつかわし、十六善神曼陀羅をかかげ,荘民を集めて、般若経の読誦をさせられた。すなわち、十六善神とは、夜叉が大将で、たくさんの家来を従えて、般若経読誦する人たちを戦乱などの危難から救うということになっている。

比叡山焼討ち 元亀2年(1571年)

 浅井・朝倉に協力したことで、織田信長、比叡山延暦寺を30,000騎で焼き討ちする。そして、比叡山の近江国の寺領を乗っ取る。

本能寺の変 天正10年(1582年)

 明智光秀は軍勢13,000騎で、織田信長の宿所の本能寺などを取り囲み、襲撃する。信長は本能寺に火を放ちで自刃。嫡子信忠も二条城で自刃。

山崎の戦 天正10年(1582年)

 本能寺の変、豊臣秀吉・織田信孝(40,000騎)と明智光秀(16,000騎)とが、山城・摂津の国境の山崎で行った合戦。明智方が敗れ、秀吉が勝利した

伏見城炎上 慶長5年(1600年)

 西軍が伏見城を包囲し、城を守る鳥居元とともに炎上した。慶長7年より復旧工事開始。

紫衣事件 寛永4年(1627年)

 幕府の許可なしに朝廷が授与した紫衣を幕府が剥奪した。沢庵をはじめとする高僧が幕府に抗議書を提出し流罪となった。後水尾天皇は幕府に反発し1629年に譲位する。

宝歴事件 宝歴8年(1758年)

 尊王論を奉じる竹内式部が逮捕され、式部派の公家17人も罷免される。

寺田屋騒動 文久2年(1862年)

 4月、尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らが寺田屋に集まり、幕府側の要人殺害を計画。藩主忠義の後見役島津久光の命を受けた奈良原喜八郎ら8人が襲撃して斬殺する。

池田屋騒動 慶応3年(1864年)

 6月、近藤勇率いる新撰組が池田屋で会合していた勤皇浪士肥後の宮部県蔵、長州の吉田稔麿ら20人捕縛。襲撃を逃れたのは、桂小五郎ら数人。

禁門の変 元治元年(1864年)

 前年の8月18日の政変により京都を追放された長州藩勢力が長州藩主父子の赦免請願と会津藩主・京都守護松平容保らの排除を目指して上京し、京都市中において会津藩・薩摩藩・大垣藩・桑名藩・新撰組(公武合体派)と市街戦を繰り広げた事件である。戦火により、京都市中藻戦火により、御所の南から東本願寺までの約3万戸が消失する大事件であった。大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢力は敗北し、尊王攘夷派は、急進的な指導者の大半を失い、その勢力を大きく後退させることになった。禁門の変後、長州藩は朝敵となり、8月に将軍家茂は中国・四国21藩に長州藩の討伐を命令じる。(第一次長州征討)

一次長州征討 元治元年(1864年)

 8月、将軍家茂、中国・四国の21藩に長州藩の討伐を命じる。

下関戦争 元治元年(1864年)

 木戸孝允(桂小五郎)ら長州藩士は、京都薩摩藩邸で、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛と会い、同盟を結ぶ

第二次長州征討 慶応2年(1866年)

 薩摩藩の出兵拒否を後押しに、西洋式武器の導入が奏し、幕府軍を破る。

大政奉還 慶応3年(1867年)

 徳川幕府15代将軍慶喜が、二条城で朝廷に大政奉還し、形成逆転を狙ったが、倒幕による王政復古の大号令で頓挫する。

坂本竜馬暗殺 慶応3年(1867年)

 坂本竜馬、中岡慎太郎、京都近江屋で、暗殺される。

鳥羽・伏見の戦 慶応4年(1868年)  

 朝廷が、王政復古を宣言する。薩長に討幕の密勅を下す。徳川15代将軍慶喜は、大阪城から海路江戸へ脱出朝廷は慶喜に追討令をだす。