nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

今治城

2015年04月09日 | 愛媛県の城郭・環濠

 築城の名手として名高い藤堂高虎は、関ヶ原の戦功で伊予(愛媛県)半国20万石を領し、慶長7年(1602年)に来島海狭を望む海辺に位置する地に築城を開始しました。約6年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に三重の堀に囲まれた今治城は完成しました。藤堂高虎は、その後、伊勢・伊賀(三重県)に転封で、今治城には養子の藤堂高吉が在城します。寛永12年(1635年)に伊予・松山城主・松平(本性は久松)定行の弟の松平定房が3万石で今治城主となり、明治維新まで続きました。明治の廃城令で城の建物は全て解体されましたが、城の中心部の石垣と内堀がほぼ完全に残っており、昭和28年(1953年)に愛媛県史跡に指定され、地元の企業・市民の寄付等で天守閣・櫓・城門などが再建されました。

 [所在地:愛媛県今治市通町]

アクセス>JR予讃線・今治駅から徒歩約20分

復興された天守閣

今治城の概要

今治城の略図

内堀・・・内堀で50m以上の幅があり、防備の弱い平城を守る幅の広い堀。

 

多門櫓(左)・鉄御門(中央)・武具櫓()の全景

鉄御門・・・扉や門柱に鉄板を張り詰めた厳重な門である。

 

武具櫓          土塀

 

本丸跡(吹揚神社)     ▼藤堂高虎公像・・・平服姿の騎馬像です。

 

天守閣

 

天守閣

 創建時の五層天守閣は、各階を順次小さくして積み上げる史上初の「層塔型」でした。従来の望楼型と比べて構造が単純で容易に建立できるため、その後の天守閣のモデルになりました。現在の天守閣は、本丸跡の北側に昭和55年(1980年)に五層六階の天守閣で再建されました。

天守閣からの眺め     ▼武具櫓・鉄御門・多門櫓

 

天守閣からの眺め     ▼山里門・山里櫓

 

2015/04/03 訪城


松山城(伊予国)

2015年04月09日 | 愛媛県の城郭・環濠

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦で徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった加藤嘉明は、慶長7年(1602年)に伊予正木(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある標高132mの勝山山頂に城郭を移すため工事に着手し、松山と命名した。しかし、完成まじかに加藤嘉明は会津に転封。替わって入封した蒲生忠知の代に松山城を完成された。嗣子なく蒲生氏が断絶したあと、徳川家康の甥・松平(久松)定行が入府。この時、5重から3重に改築された天守閣は、天明4年(1784年)落雷で焼失したが、安政元年(1854年)悲願の天守閣が再建された。現在、天守閣、一の門、戸無門等21棟の重要文化財をもつ四国最大の名城です。 

[所在地:愛媛県松山市丸の内]

アクセス> JR松山駅から伊予鉄道で道後温泉行きで約10分「大街道駅」下車徒歩5分

 本丸の建物位置図

南側から望んだ天守閣

隠門続櫓         ▼太鼓櫓

 

戸無門(右)と筒井門西続櫓(左) 筒井門

 

隠門

 

 

井戸           ▼本壇(天守閣を中心とした曲輪)の建築群

 

天守閣(右)小天守(左)

 天守閣は、三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。

 小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二の丸・三の丸方面を監視防衛する重要な位置にある。

 天守閣、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建築物軍はわが国の代表的な連立式天守を備えた城郭と言われている。

              ▼一の門

 

土塀・・・狭間(攻撃用の小穴)が設けられた戦闘的な土塀。

 

              ▼二の門

 

内庭からの天守閣(重要文化財)

大天守からの眺め

 

加藤嘉明公像

 加藤嘉明は豊臣秀吉家臣では珍しい三河出身者。関ヶ原の戦では東軍に属し、石田三成軍を破るなどの戦功で松山藩主となる。のち会津藩主。

 

2015/04/02 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

久万(くま)山百姓一揆  寛保元年(1741年)

 財政再建を目指す松山藩の椿紙の専売強行などに反対し、久万山の農民が大挙して大州藩領内に逃散した。藩主の頼みで久万大宝寺の住職斎秀が説得し、多くを帰村させた。松山藩、藩史上最大の一揆。


湯築(ゆづき)城

2015年04月08日 | 愛媛県の城郭・環濠

 中世の城郭である湯築城は、14世紀の前半、伊予国守護・河野氏によって標高71mの丘陵地に築城され、近世の城郭が持つ石垣や天守が無く、地形を利用した南北約350m,東西約300mの平山城であった。南北朝期から戦国期(14世紀前半~16世紀末)まで約250年間にわたって河野氏が居城としていました。湯築城を築いた河野氏は風早郡河野郷(旧北条市)を本拠とした一族で,源平合戦(1180年~1185年)で河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得ました。河野通盛の時(1335年頃)、風早郡河野郷から温泉郡湯築へと本拠を移した河野氏は以後、足利将軍家や近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を結びながら伊予を支配し続けた。天正9年(1581年)以後,四国制圧を狙う土佐国の長宗我部元親が中伊予に侵入し、城主・河野通直は、交戦した。天正13年(1585年)四国平定ををめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景率いる伊予侵攻軍に敗れ、城は開城。天正15年(1587年),福島正則が城主になるが、国分山城を居城としたため廃城となった。明治21年(1888年),県立道後公園として整備され、城郭の堀や土塁などの縄張り遺構が良好に残り城郭発達史からみても貴重で稀な中世の主要な守護大名の拠点城跡であることから、平成14年(2002年),国の史跡に指定されました。

[所在地:愛媛県松山市道後公園]

アクセス>JR予讃線・松山駅から伊予鉄道市内電車「道後温泉行き」で約20分、道後公園駅下車徒歩1分。

湯築城(道後公園)の概略図

 城の縄張りは、現在でも完全な形で残っています。二重の堀と土塁で囲まれています

湯築城を遠望

 

内堀

 丘陵部の麓には内堀が現存します。幅は約12m、深さは約2.5m、断面はU字型です。

 

土塀

 

武家屋敷1

ある日の武家屋敷

武家屋敷1

 家臣が生活した家臣団居住区には武家屋敷が立体復元されています。

主室の様子

台所の様子

湯築城と河野氏の歴史

河野氏の略系図

2015/04/03 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鳥坂(とさか)峠の戦   永禄11年(1568年)  

 河野軍と援軍の毛利軍が、鳥坂峠(西伊市)付近で、侵攻してきた土佐一条氏・宇都宮軍を撃破する。

道後湯築城の戦   天正13年(1583年)

 豊臣秀吉の四国征伐の命で毛利方の小早川隆景の軍勢が中伊予に侵攻し、湯築城で龍城戦を行う。1ケ月の籠城後、小早川隆景の降伏勧告で名族・河野通直(牛福丸)が開城する。

一遍   延応元年(1239年)~正応2年(1289年)

 延応元年(1239年)伊予国(現在の愛媛県)の豪族、別府通広の次男として生まれる。鎌倉幕府の有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国(岩手県北上市)に配流され没落。幕府方に着いた別府通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた時にはかっての勢いを失っていた。10歳で天台宗継教寺で出家、13歳になると法然の孫弟子に当る聖達の下で10年以上浄土宗西山義を学ぶ。その後,摂津の四天王寺、紀伊の高野山などで修業に励み、各地を念仏勧進し、時衆を率いて遊行を続け、民衆を踊念仏と賦算とで極楽浄土へ導いた。勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。鎌倉時代に、時宗を興した一遍は、鎌倉新仏教の開祖の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物である。


大州(おおず)城

2015年04月07日 | 愛媛県の城郭・環濠

 鎌倉時代末期に伊予国守護として国入りした宇都宮豊房が、元弘元年(1331年)に築いた城は、237年南伊予支配の拠点の城郭であったが、その後乱世を反映し、大野直之、小早川隆景、戸田勝隆らが相次いで城主に成りましたが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備を開始し、慶長14年(1609年)に淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この二人によって大州城は、近世城郭の完成をみる。大州は、かって「港」を意味する「津」を用いて大津と呼ばれていたが、脇坂安治が地名を大津から大州に変更した。そのために城の呼び名も大津城から大州城となった。その後、元和3年(1617年)に米子から6万石で加藤貞安が入城し、以後加藤氏が12代250年余りにわたり大州藩主として治政をおこない明治維新を迎える。明治の廃城令で、城内の大半の建築物は解体されましたが、地元住民の要望により本丸の天守閣・櫓は一部保存された。しかし天守閣は老朽化のために明治21年(1888年)解体されたが、平成16年(2004年)に地元の企業・市民の寄付等で伝統工法の木造で四層四階の天守閣が復元されました。

[所在地:愛媛県大州市大州903] 

アクセス>JR予讃線・伊予大州駅から徒歩約20分。

大州城

 大州城には天守閣に従う2基の格調高い櫓をはじめ4基の櫓が現存する。

大州城と城下町の略図

 

 

 

天守閣(右)と高蘭櫓(左)  ▼左から高蘭櫓、天守閣、台所櫓

 

高蘭櫓(左)と天守閣(右)

大州城の模型

天守閣からの眺め

 

2015/04/02 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

坂(とさか)峠の戦   永禄11年(1568年)

 安芸国の毛利氏の援軍を得た、中伊予(道後)の河野氏が、土佐国の一条兼定の援軍を得た西伊予(大州)の宇都宮氏が、鳥坂峠で激突。宇都宮氏側が敗れ、土佐国の名門一族の一条氏が滅亡。そして、土佐に長宗部氏が台頭し、伊予国侵攻が始まる。


宇和島城

2015年04月06日 | 愛媛県の城郭・環濠

 宇和島城は、中世に築かれた板島丸串城の跡に、藤堂高虎が、近世城郭として築いた。標高74mの丘陵の頂きに本丸を置き、それを囲むように二の丸、代右衛門丸、長門丸、藤兵工丸等の曲輪が配置された。城下は、東側に、西側は、海に接しているので海城でもある。元和元年(1615年)伊達政宗の長男の伊達秀宗が10万石で入城し、2代藩主・伊達宗利が老朽化した城の改修に着手し、寛文6年(1666年)に改修を完了した。その後、伊達氏が9代にわたって城主を務め続け、明治維新を迎えた。伊達秀宗は、伊達政宗の長男として生まれたが、伊達政宗の正室・愛姫との間に生まれた次男・伊達忠宗が伊達宗家の後継者となった。徳川秀忠は、幼い時から伊達家の人質として過ごした伊達秀宗の境遇を憐れみ、10万石の領地を与えた。明治の廃城令で建物の大半は撤去されたが、天守閣、大手門などが残された。昭和9年(1934年)天守閣と大手門が重要文化財に指定され、昭和12年(1937年)には、国の史跡に指定された。昭和20年(1945年)の米軍の大空襲により大手門が焼失。昭和24年(1949年)伊達家が、天守閣と城山の大半を宇和島市に寄贈し、現在は、宇和島市が管理している。

 [所在地:愛媛県宇和島市丸之内]

<アクセス>JR予讃線・宇和島駅から徒歩15分 

 ▼丘陵山頂に建つ宇和島城天守閣

宇和島城の概略

宇和島城の略図

桑折氏武家長屋門

 桑折氏は、伊達氏と血縁関係をもち、宇和島藩の家老である。

 

石垣

 

石垣                   城山郷土館

 

石垣

 

本丸櫛形門跡       ▼天守閣

 本丸への唯一の虎口。

 

天守閣(重要文化財)

 藤堂高虎が創建した天守を、江戸時代初期の寛文6年(1666年)に、宇和島伊達家2代伊達宗利が3重3階総塗籠式、層塔型に再建したのが現在の天守閣です。

天守閣よりの眺め

 

宇和島城の井戸

井戸跡

 

2015/04/02 訪城