15世紀中頃、三河国仁木氏の守護代で土豪の西郷氏によって矢作川と乙川の合流点にある龍頭山という丘陵を利用して築かれた平山城。当時は、龍燈山城と呼んだ。のちに家康の祖父である松平清康が、西郷信貞から奪い取り改修拡張整備して本格的な岡崎城にした。徳川家康は、ここ岡崎城で誕生した。当主が二代に渡って急死したことから、勢いを失った。そのため、松平竹千代(のちの徳川家康)は、今川方の人質となり、苦難の少年時代を過ごす。桶狭間の合戦によって今川義元が討ち死にすると、家康は岡崎城を取り戻す。以後、家康の長男信康、豊臣氏の家臣田中吉政等が城主となる。江戸時代には、譜代・親藩大名が城主を歴任し、本多氏5万石の時代に明治維新を迎えた。明治6年(1873年)の廃城令によって廃城となり、城内の天守以下の建物および土地を払い下げ、一切の建物を失ったが、現在、敷地は、龍城神社、岡崎公園として整備され、天守閣、東隅櫓、城門等が復元されている。
[所在地: 愛知県岡崎市康生町]
<アクセス>名鉄名古屋本線・東岡崎駅から徒歩約15分。
▼岡崎城の概略図
▼大手門
▼徳川家康公銅像 ▼松平元康の像 ▼本田平八郎忠勝公銅像
▼隅櫓
▼岡崎城天守閣
▼龍城堀 ▼東隅櫓
2013/6/23 訪城
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小豆坂の戦① 天文11年(1542年)
今川義元、松平広忠40,000騎で三河に侵攻する織田信秀を圧倒し、尾張攻略を図る。だが織田信秀4,000騎の不意打ち反撃にあい、今川方敗北。織田方勝利。
小豆坂の戦② 天文17年(1548年)
織田信秀4,000騎で、岡崎の松平広忠を攻撃する。松平広忠は、今川義元に救援を依頼する。雪斎和尚、朝比奈康泰能(やすよし)10,000騎で織田信秀軍を撃破。今川方の勝利。織田方との人質交換で、尾張熱田にいた松平竹千代(のちの徳川家康)が今川方へ。
三河一向一揆 永禄6年(1563年)
徳川家康の家臣・菅沼定顕が「不入」権を侵害して、一向宗の上宮寺から強制的に、糧米を徴発したことから領内に一揆が勃発。家康一族の大草松平、家康の諸将(酒井忠尚、本多
農民一揆勢約5,000人余が足助、挙母城下で打壊し。岡崎藩兵と尾張藩兵によって鎮圧される。
◆夏目吉信 (1518年~1572年)
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆側に加担、のち、徳川家康に許されて再出仕。元亀3年(1571年)の三方原の戦の時、幡豆郡六栗城主だった夏目吉信は、敗勢の中で決死の突撃をはやる家康に退却をすすめました。夏目吉信は、徳川家康が、肯かないと見ると、刀の棟で乗馬の尻を叩き、浜松の城へ向けて疾駆させた。そして自らは、寡兵を率いて敵中に入り、家康の名を大音声(だいおんじょう)に呼ばわりつつ、ついに身代わりとなって討ち死にした。
◆植村家政(家存) (1541年~1577年)
旗本先手の将(与力30騎)から家老職に進み、上杉謙信との同盟に力を尽くした三河統一期の功臣。植村氏は、美濃土岐氏の一族で岡崎北本郷に来住し植村を名乗り松平長親から代々従いました。家政(家存)の父は、清康、広忠の殺害者を討ち取りました。天正5年に死去。その子家次が家を継ぐが、信康事件によって、徳川家を離れる。のち、榊原康政の力添えで再出仕する。その後、子孫の植村家政は、寛永14年(1640年)大名に取り立てられ、25,000石で大和高取城へ入城して城主となりました。
◆本多正信 (1538~1616年)
幼児より家康に仕えていたが、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆側につき、上野城に立て篭もったため、三河より追われる。のち、姉川の合戦のとき、家康に許されて再出仕。天正10年以後の甲斐経営では、活躍目覚ましく吏僚としての力を発揮する。以後、帷幕の将として重用され、天正18年、上野八幡10,000万石、ついで、相模玉縄に配される。関ヶ原合戦後処理に敏腕をふるい、また、二元政治時代は、関東総奉行として行政手腕を発揮、その謀臣ぶりを示した。元和2年79歳で死去。