nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

日本水産株式会社の株主総会

2013年06月30日 | 株主総会

2013年6月26日(水曜日) 日本水産株式会社の第98期定時株主総会が開催されました。

当期は、売上高は、5,668億円(5.4%増加)したが、営業利益は、58億円(39%減),経常利益は、54億円(35%減),と黒字であるが、M&Aで買収した南米の子会社が早期に収益改善の見込みがないため撤退の特別損失が96億円発生して、当期純損失は、47億円の赤字で、中間配当に続き、期末配当もゼロ(0円)。年間配当金は、1株につきゼロ(0円)。配当金は、年間無配です。日本向けのチリ銀鮭の供給過剰の値崩れも、営業利益を下げた。来期も無配か? 持株も徐々に売却検討!

2013/6/26の株価終値は、186円。株式の平均買値は、239円で株価アップ率22%ダウン

 1株純資産=180円     PBR=1.03          PER=8.6

投資利回り=0円/239円=0.00%         

  全株式売却  譲渡差損9万円余

 


パナソニック株式会社の株主総会

2013年06月30日 | 株主総会

2013年6月26日(水曜日) パナソニック株式会社の第106回定時株主総会が開催されました。

業績は、2年連続の純損失7,500億円以上の巨額赤字。もちろん当期末の配当金はゼロ(0円)。配当金は、年間無配です。原因は、経営の大失敗だ!。だから、多くの社員をリストラしても巨額赤字( 2013年3月期決算純損失ワースト1)なのだ。持株は、徐々に売却を検討!

2013/6/26の株価終値は、741円。株式の平均買値は、1,034円で株価アップ率28%ダウン)

 1株純資産=546円     PBR=1.36      PER=29.5

資利回り=10円?/1,034円=0.96%        

[追記] 2013/08/29付 中間配当5円決定! 期末配当は未定だが期末も5円の年間10円か? 株価は2013/08/29の株価終値は、873円。

株価上昇後、全株式を売却 譲渡差益25万円余


株式会社サンマルクホールディングスの株主総会

2013年06月30日 | 株主総会

2013年6月25日(火曜日) 株式会社サンマルクホールディングスの第22期定時株主総会が開催されました。

当期業績は、順調に推移。期末配当金は、1株につき49円。中間配当は、1株につき49円支払い済のため、年間配当金は、1株につき98円。来期は、増収増益で最高益更新か!

2013/6/25の株価終値は、4,375円。株式の平均買値は3,095円で株価アップ率41.4%

1株純資産=3,060円    PBR=1.43      PER=12.7

投資利回り=98円/3,095円=3.17%+株主優待  

 全株式売却  譲渡差益18万円余


日本郵船株式会社の株主総会

2013年06月30日 | 株主総会

2013年6月25日(火曜日) 日本郵船株式会社の第126期定時株主総会が開催されました。

当期は、営業利益、経常利益、純利益が、昨年の全て赤字から全て黒字になる。純利益188億円。期末配当金は、1株につき2円

中間配当1株につき2円支払い済のため、年間の配当金は、1株につき4円。来期は、増収増益で純利益270億円の予定で、来期の年間配当金は、4円(連結配当性向25)を予定。 

1株純資産=383円    PBR=0.68    PER=16.0

2013/6/25の株価終値は、260円。株式の平均買値は、275円で株価アップ6%ダウン

投資利回り=4円/275円=1.45%+株主優待  

    株価上昇後、全株式売却 譲渡差益 31万円余


坂本城

2013年06月29日 | 滋賀県の城郭・環濠

 元亀2年(1571年)9月、比叡山延暦寺焼き討ち後、織田信長は、明智光秀に近江国滋賀郡を与え、京と比叡山延暦寺の抑えとして琵琶湖の南湖西岸に坂本城を築城させた。その後、明智光秀は、坂本城を拠点に西近江の平定を目指す。さらに丹波国平定後、亀山城主となったが、坂本城も、明智光秀の持ち城であった。天正10年(1582年)山崎の戦の敗戦後、羽柴秀吉方の堀秀政軍に城を攻撃され、明智一族の明智秀満が天守に火を放ち落城した。その後、城は丹羽長秀により再建されたが,天正14年(1586年)、羽柴秀吉の命により、坂本城主の浅野長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城となった。資材は、大津城の築城に使用された。現在、坂本城の一部は、坂本城址公園として整備され、明智光秀像が建てられています。

[所在地:滋賀県大津市下坂本]

アクセス>JR比叡山坂本駅下車徒歩10分

                                                                           坂本城址の石碑

 

明智光秀像(坂本城址公園に建)

 

 

                     坂本城本丸跡碑

 

坂本城址の石碑(二の丸址)

 

 2013/6/27 訪城

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比叡山焼き討ち 元亀2年(1571年)

 浅井・朝倉に協力したことで、織田信長、比叡山延暦寺を30,000騎で焼き討ちする。そして、延暦寺の近江国の寺領を乗っ取る

明智光秀 (1528年~1582年)

 足利義昭から禄をうける幕臣だが、永禄11年(1568年)織田信長入京以前に織田信長と主従関係を結んだ。次第に足利義昭より離れ、織田信長の重臣の一人となる。元亀2年(1571年)坂本城主。焼き討ちされた比叡山の旧領を与えられ、堅田衆や北山城の土豪たちを摩下に置いた。天正元年(1573年)足利義昭将軍追放後も、しばらく京都所司代村井貞勝を助けて京の政務にたずさわっている。天正3年(1575年)6月より丹波経略を命じられるが、丹波ばかりでなく、大坂・雑賀・播磨等へも出陣している。丹波平定は、天正7年(1579年)9月。翌年8月これを与えられ、亀山居城。丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶を与力とし、近畿管領ともいうべき地位にあった。天正10年(1582年)6月本能寺の変を起こして織田信長父子を殺し、最後山崎の戦いに敗れて土民に殺される。

天台真盛宗総本山  西教寺 ・・・・・・・ 明智光秀公と一族の菩提寺

 

 

西教寺の総門・・・・・明智光秀が坂本城の城門を移築した

 

西教寺本堂

2013/7/6 訪問


明石城

2013年06月28日 | 兵庫県の城郭・環濠

    明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国,但馬国への道が分かれ、海路で淡路島、四国へのルートがあり、古来より交通の要衛であった。そのために、徳川幕府は、西国の外様大名の抑えの城として,元和3年(1617年)、大阪の陣に戦功のあった譜代大名の小笠原忠真に普請費用として銀一千貫を与え、10万石規模の築城を命じた。本丸には、五重の天守閣が建てられる予定であったが、実現せず天守台のみが残った。寛永9年(1632年)小笠原忠真は、5万石を加増され15万石で豊前国小倉に移封になった。その後は、戸田氏、大久保氏、松平氏、本田氏と替わり最後は越前国大野から松平氏が入府して明治に至る。明治6年(1873年)の廃城令で、廃城となったが、明治16年(1883年)、明石町内有志により明石公園として整備された。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたが、現在、石垣、土塀そして2基の三重櫓が修復されています。

[所在地:兵庫県明石市明石公園]

<アクセス>JR明石駅から北へ徒歩5分

 

 

 

             坤櫓(左)  と 巽櫓(右)

 

坤櫓 (三重三階)国の重要文化財 巽櫓(三重三階)国の重要文化財

 伏見城の遺構と言われています    船上城の遺構と言われています

 

 

坤櫓(三重三階)     ▼巽櫓(三重三階)

 

帯郭と巽櫓

 

 2013/6/26 訪城

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明石城の戦  天文8年(1538年)

 尼子詮久(あきふさ) (のち晴久)の播磨攻略に対して、播磨守護赤松政村の家臣明石氏が叛き、赤松政村、淡路に敗走する。尼子氏、翌年から石見、安岐(毛利氏)を攻略する。          

中部幾次郎翁銅像


岡崎城

2013年06月25日 | 愛知県の城郭・環濠

 15世紀中頃、三河国仁木氏の守護代で土豪の西郷氏によって矢作川と乙川の合流点にある龍頭山という丘陵を利用して築かれた平山城。当時は、龍燈山城と呼んだ。のちに家康の祖父である松平清康が、西郷信貞から奪い取り改修拡張整備して本格的な岡崎城にした。徳川家康は、ここ岡崎城で誕生した。当主が二代に渡って急死したことから、勢いを失った。そのため、松平竹千代(のちの徳川家康)は、今川方の人質となり、苦難の少年時代を過ごす。桶狭間の合戦によって今川義元が討ち死にすると、家康は岡崎城を取り戻す。以後、家康の長男信康、豊臣氏の家臣田中吉政等が城主となる。江戸時代には、譜代・親藩大名が城主を歴任し、本多氏5万石の時代に明治維新を迎えた。明治6年(1873年)の廃城令によって廃城となり、城内の天守以下の建物および土地を払い下げ、一切の建物を失ったが、現在、敷地は、龍城神社、岡崎公園として整備され、天守閣、東隅櫓、城門等が復元されている。

[所在地: 愛知県岡崎市康生町]

アクセス>名鉄名古屋本線・東岡崎駅から徒歩約15分。

岡崎城の概略図

大手門

 

徳川家康公銅像  ▼松平元康の像 ▼本田平八郎忠勝公銅像

  

            隅櫓

 

 

 

 

岡崎城天守閣

龍城堀         ▼東隅櫓

 

 2013/6/23 訪城

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小豆坂の戦①  天文11年(1542年)

  今川義元、松平広忠40,000騎で三河に侵攻する織田信秀を圧倒し、尾張攻略を図る。だが織田信秀4,000騎の不意打ち反撃にあい、今川方敗北。織田方勝利。

小豆坂の戦②  天文17年(1548年)

  織田信秀4,000騎で、岡崎の松平広忠を攻撃する。松平広忠は、今川義元に救援を依頼する。雪斎和尚、朝比奈康泰能(やすよし)10,000騎で織田信秀軍を撃破。今川方の勝利。織田方との人質交換で、尾張熱田にいた松平竹千代(のちの徳川家康)が今川方へ。

三河一向一揆  永禄6年(1563年)

  徳川家康の家臣・菅沼定顕が「不入」権を侵害して、一向宗の上宮寺から強制的に、糧米を徴発したことから領内に一揆が勃発。家康一族の大草松平、家康の諸将(酒井忠尚、本多

  農民一揆勢約5,000人余が足助、挙母城下で打壊し。岡崎藩兵と尾張藩兵によって鎮圧される。

夏目吉信  (1518年~1572年)

  永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆側に加担、のち、徳川家康に許されて再出仕。元亀3年(1571年)の三方原の戦の時、幡豆郡六栗城主だった夏目吉信は、敗勢の中で決死の突撃をはやる家康に退却をすすめました。夏目吉信は、徳川家康が、肯かないと見ると、刀の棟で乗馬の尻を叩き、浜松の城へ向けて疾駆させた。そして自らは、寡兵を率いて敵中に入り、家康の名を大音声(だいおんじょう)に呼ばわりつつ、ついに身代わりとなって討ち死にした。

村家政(家存)  (1541年~1577年)

  旗本先手の将(与力30騎)から家老職に進み、上杉謙信との同盟に力を尽くした三河統一期の功臣。植村氏は、美濃土岐氏の一族で岡崎北本郷に来住し植村を名乗り松平長親から代々従いました。家政(家存)の父は、清康、広忠の殺害者を討ち取りました。天正5年に死去。その子家次が家を継ぐが、信康事件によって、徳川家を離れる。のち、榊原康政の力添えで再出仕する。その後、子孫の植村家政は、寛永14年(1640年)大名に取り立てられ、25,000石で大和高取城へ入城して城主となりました。

本多正信 (1538~1616年)

  幼児より家康に仕えていたが、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆側につき、上野城に立て篭もったため、三河より追われる。のち、姉川の合戦のとき、家康に許されて再出仕。天正10年以後の甲斐経営では、活躍目覚ましく吏僚としての力を発揮する。以後、帷幕の将として重用され、天正18年、上野八幡10,000万石、ついで、相模玉縄に配される。関ヶ原合戦後処理に敏腕をふるい、また、二元政治時代は、関東総奉行として行政手腕を発揮、その謀臣ぶりを示した。元和2年79歳で死去。


多聞山城

2013年06月17日 | 奈良県の城郭・環濠

 松永久秀が、永禄3年(1560年)に,東大寺大仏殿の北の眉間寺山(佐保山)に多聞山城(たもんやまじょう)を築いた。松永久秀の素性はあきらかでないが、松永久秀は、三好氏の当主三好長慶に仕え、しだいに頭角をあらわした。永禄2年(1559年)筒井順慶等の国衆を掃討し、翌年から5年の歳月をかけ城を完成させて、大和を支配した。城には、四重の天守が聳え、長屋状に塁上を巡る櫓があり、櫓の壁は漆喰で白亜に輝き、多数の銃眼が穿たれて、鉄砲隊を配置できるきわめて実践的な城であった。天正元年( 1572年)多聞山城は織田信長によって接収されたために、松永久秀は信貴山城に退きました。天正5年(1577年)に松永久秀が信貴山城で自害したのち、織田信長の命を受けた筒井順慶により、多聞山城は、取り壊され、城石は、大和郡山城の築城に使用されました。現在、本丸跡には、奈良市立若草中学校が、建っています。

[所在地:奈良県奈良市法連町]

アクセス>近鉄奈良駅から徒歩15分(1.2km)

多聞山城へのアクセス(略図)

多聞山城概略図

本丸(本丸跡には。現在、奈良市立若草中学校が建っています。)

 多聞山城跡碑(若草中学校内)

2013/06/17 訪城

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三好・松永の兵乱 永禄10年(1567年)

   筒井順慶、大和の支配回復のため、三好三人衆と松永久秀の多聞山城を攻める。松永久秀、三好三人衆の陣した東大寺大仏殿に夜討をかけて東大寺大仏殿炎上する。筒井順慶・三好三人衆敗北。大和の兵乱続く。


株式会社森精機製作所の株主総会

2013年06月17日 | 株主総会

平成25年6月17日(月曜日)午前10時からの株式会社森精機製作所の第65回定時株主総会に、奈良県大和郡山市井戸野町の奈良事業所2階会議室に行ってきました。

会社説明では、当期は、売上高・営業利益・経常利益・純利益全て、昨年比減益になったが、来期予想は、売上高・営業利益・経常利益・純利益は、全て増加する。社名も、近いうちに、DMG森精機株式会社に変更する。期末配当金は、1株につき10円。中間配当金は、10円支払済なので、年間配当金は、1株当たり20円です。

2013/06/17の株価終値1,149円。株式の平均買値683円。株価アップ率68.2%

1株純資産=938円            PBR=1.22            PER=18.0

 投資利回り=20円/683円=2.92%     

  全株式を売却(差益237万円)


幻の五新鉄道散策

2013年06月02日 | 文化・歴史散策

2013/06/02   奈良県五条市の幻の五新鉄道散策に行ってきました。

ハイキングコース奈良交通・城戸バス停下車・・・専用道城戸・・・賀名生・・・賀名生の里・歴史民俗資料館・・・専用道出口大川橋・・・新町通り・・・五条市民俗資料館・・・良交通・五条バスセンター

幻の五新鉄道の道路*は、一般車の通行は、NGです。バス専用道路です。ただし、徒歩はOKです。

 👉2014/10/01 からは、バスの通行も中止になりました。

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五新鉄道」は、国鉄(現在のJR)和歌山線の五条駅と紀勢線の新宮駅を結ぶ路線として1939年に着工。太平洋戦争で中断後、1957年に再開されたが、1980年の国鉄再建法成立を受けて建設中止になった。今でもトンネルや路盤が残っています。

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戸バス停             ▼専用道城戸バス停

                                                                                       幻の五新鉄道の散策スタート

  

 

 

 幻の五新鉄道の トンネルは、たくさんありましたが、トンネルの工期は、全て1958年~1959年でした。

  

賀名生(あのう)で寄り道する

歴史民俗資料館    ▼北畠親房公の墓(歴史民俗資料館から北へ200m

                                                                               北畠親房公は、後醍醐天皇の側近でした。

 

            西吉野第二発電所 (水力発電)

                                                                途中に発電所が2ケ所ありました

 

専用道出口大川橋  ここまでが幻の五新鉄道の道です。新町通り

  

松倉豊後守重政之碑

五條市民俗資料室(五條代官所の正門)

松倉重政 (1574~1630)

 松倉重政は、筒井家の家老の家柄であったが、筒井順慶の没後、天正13年(1585年),筒井順慶の養子、筒井定次が大和郡山城から伊賀上野城に転封となり、松倉重政も伊賀上野に従って行った。そして名張城を築城し8,000石の名張城主となったが、筒井定次とウマが合わず、豊臣秀吉の家臣となる。大和国吉野に8,000石を領した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、大和五條の二見城に10,000石で大名として入城し、城下町の整備をした。元和元年(1615年)大阪夏の陣の功により、元和2年(1616年)肥前島原城に43,000石に加増されて入城した。寛永7年(1630年)小浜温泉で急死。松倉重信の長男。

天誅組の変 文久3年(1863年)

 孝明天皇が攘夷祈願のため,大和行幸を決定する。土佐の脱藩志士らが大和で倒幕挙兵し、十津川郷士らと五條代官所を襲撃。さらに約1,100騎で高取城を攻撃する。高取方は、大砲で反撃したので、攻撃は失敗に終わり壊滅する。大和行幸は中止となる。(京では公武合体派の政変、三条実美ら七卿の長州落ちする。)