nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

今井町環濠(寺内町)

2014年11月30日 | 奈良県の城郭・環濠

   今井町は戦国時代の16世紀前半頃に一向宗(浄土真宗)の門徒が中心となって形成した寺内町です。1570年代には大阪の石山本願寺を中心とした一向宗門徒と織田信長との抗争が展開し、今井も本願寺側として織田信長勢に対抗しました。今井は1575年に織田信長に降伏しており,降伏時の赦免状が称念寺に残されています。降伏の際にその証として軍事的防衛の濠が埋められました。その後、天下を治めた豊臣秀吉の世には再び濠を巡らし、徳川家康の庇護も受け、江戸時代には町人の財産を守るための環濠集落の商業都市として発展を遂げていきました。「大和の金は今井に七分」と言われるほど繁栄しました。今井町には江戸時代の古い家屋や街並みが今も多く残されています。平成5年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

[所在地:奈良県橿原市今井町]

<アクセス>近鉄橿原線・八木西口駅下車西へ

今井・寺内町の概要 

称念寺の概要

称念寺(今井御坊)・・・今井町の中核となった寺院で寺内町の形成、発展を支える町政全般の拠点でありました。明治10年、明治天皇の畝傍御陵行幸のときの行在所となりました。

本堂は国の重要文化財である(現在解体修理中)

今井の街並み

 

今井の街並み

 

今西家住宅の概要

 ▼今西家宅(国の重要文化財)

今井の街並み

 

環濠の濠

 

現地調査より濠は、内濠と外濠が有り、外濠の幅は、11m~14mあった。

2014/11/30 訪問


米政府の大規模な慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず

2014年11月27日 | 慰安婦関連ニユース

米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず・・日本側の主張の強力な後押しに

  米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかになった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の売春制度の単なる延長とみていたという。調査結果は、日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される。

  日本に関する文書の点検基準の一つとして「いわるる慰安婦プログラム=日本軍統治地域女性の性的目的のための組織的奴隷化」にかかわる文書の発見と報告が指示されていた。だが、報告では、日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった。

  IWGは米専門家6人による日本部分のつ以下論文も発表した。論文は、慰安婦問題について(1)戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった売春制の延長だと見ていた。(2)その結果、米軍は慰安婦制度の実態への理解や注意に欠け、特に調査もせず、関連文書が存在しないこととなったーと指摘した。

  慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは「20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした」という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った 。(ワシントン駐在客員特派員・古森義久)                                                                           

[ソース:2014/11/27産経ニュース]

  

[ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)] クリントン政権時代に成立した「1998年ナチス戦争犯罪開示法」と2000年日本帝国政府開示法」に基づき、第2次大戦での日独両国の戦争犯罪の情報開示を徹底させる目的で2000年に始まった調査。国防総省、国務省、中央情報局(CIA),連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検し戦争犯罪に関する資料の公開を指示した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                                                               


宇治の紅葉

2014年11月23日 | 紅葉

2014/11/23 京都府宇治市にハイキングに行ってきました。

<ハイキングコース>JR奈良線・宇治駅・・・仏徳山展望台・・・朝日観音・・・天ケ瀬ダム・・・天ケ瀬吊橋・・・もみじ谷・・・平等院・・・JR奈良線・宇治駅

JR宇治駅         ▼仏徳山

 

宇治上神社                         

 

 仏徳山(大吉山)は、標高131mの山です。登山道は東海道自然歩道になっており、桜・山吹・もみじ等の木々が四季折々の風情を楽しませてくれる人気のある道です。展望台からは宇治川、中の島、平等院をはじめ宇治の街を一望することができます。展望台から興聖寺方面への道はハイキングコースにもなっています。

仏徳山展望台からの眺め

 

朝日観音         ▼朝日観音展望台からの眺め 

 

天ケ瀬ダム

 

天ケ瀬吊橋        ▼宇治川

 

もみじ谷

 もみじ谷は白川神社の境内から宇治川に抜ける渓谷で、東海自然遊歩道にも指定されています

 

              中の島公園

 

平等院

 


茶臼山砦

2014年11月20日 | 大阪府の城郭・環濠

 天文6年(1546年),細川晴元の家臣・山中又三郎が大塚城を築城したが、細川氏綱に攻められ落城した。その地に、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に徳川方総大将の徳川家康がここに本陣を構えた。翌年の大坂夏の陣の際には豊臣軍方の真田信繁(幸村)が陣を置いた。天王寺公園の北東側にある茶臼山古墳が砦跡です。

[所在地:大阪市天王寺区茶臼山町(天王寺公園内)]

アクセス>JR大阪環状線・天王寺駅下車北西へ徒歩約10分。天王寺公園内(有料施設)

茶臼山古墳跡(天王寺公園内)

 

茶臼山及び河底池碑

 

大坂の陣史跡茶臼山の碑

 

             ▼茶臼山頂上

 

2014/11/19訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

市立美術館の南側の黒田藩蔵屋敷長屋門の石碑(天王寺公園内)

 

黒田藩蔵屋敷長屋門(天王寺公園内)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真田幸村陣歿の地(安居神社)➜➜➜茶臼山砦跡の北約250m

真田幸村戦歿の地の碑 ▼疲れて休息している真田幸村(安居神社境内)

 

■□■真田幸村の最後 大坂夏の陣 安居天神■□■

https://www.youtube.com/watch?v=C2rZ5mSzN94

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大坂冬の陣   慶長19年(1614年)

 京都の方広寺の鐘銘事件を契機に開戦。徳川家康軍20万騎、豊臣秀頼軍10万騎が、激突。外堀(総堀)の埋め立てを条件に和議。

天王寺口の戦   慶長20年(1615年)

 慶長20年(1615年)5月7日正午過ぎ、赤備えの真田幸村率いる3500騎は徳川方の松平忠直率いる15000騎と衝突し、大坂夏の陣の最大の激戦がこの茶臼山付近で繰り広げられた。真田隊は徳川家康の本陣をめがけて一文字に三度の攻撃をかけたがあとわずかで手が届くところまで攻めるも、数に勝る越前勢の反撃により壊滅し、激戦後、真田幸村は茶臼山の北の安居神社で休息している所を越前兵により討ち取られた。

大坂夏の陣   慶長20年(1615年)

 慶長20年(1615年)、徳川家康、豊臣秀頼の大坂城退去、国替えを強請。豊臣秀頼が応じないため徳川家康軍15万騎と豊臣秀頼軍5万騎が、激突。大阪城炎上で豊臣家の滅亡。


正覚寺城

2014年11月20日 | 大阪府の城郭・環濠

 正覚寺城は、文明14年(1482年),河内守護の畠山政長が、河内国平野の正覚寺に陣を構えて畠山義就と対陣した。このことが正覚寺が城郭化する発端となった。畠山義就病死後は河内を平定に乗り出したが、明応2年(1493年),正覚寺合戦の際、畠山義就の子畠山義豊に敗れて自害し、正覚寺城は炎上し落城した。天正5年(1577年)、織田信長の石山本願寺攻めの際に織田信長が本陣を構えた場所でもあります。旭神社が城跡(本丸跡)です。ここから東に約200mに正覚寺跡や畠山政長の墓があります。

[所在地:大阪市平野区加美正覚寺1丁目(旭神社)]

アクセス>JR大和路線・平野駅下車東へ約600m。

旭神社

旭神社境内          ▼正覚寺城跡の碑(旭神社境内)

  

2014/11/19 訪城


真田丸出城(三光神社)

2014年11月20日 | 大阪府の城郭・環濠

 真田丸出城は、慶長19年(1614年)10月,大坂冬の陣に際し、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の総構の弱点を補うために総構の南側の笹山という小丘陵に築城した出城である。東側は、玉造方面へ続く水堀で囲まれ、構造は東西約180m、半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置し、三方に塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸出城は、破壊された。宰相山公園(三光神社付近)から西側(心眼寺付近)までが城跡です。

[所在地:大阪市天王寺区餌差町宰相山公園(三光神社)]

アクセス>JR大阪環状線・玉造駅下車徒歩約7分。

三光神社

 大坂冬の陣の際、真田幸村が大阪城からの抜け穴(地下道)を設けたことで有名な神社です。境内には抜け穴の史跡や真田幸村像が残されており、桜の名所としても知られています。

 

三光神社       ▼真田幸村像(三光神社境内)

 

真田丸のあった真田山に鎮座する三光神社境内にある

 大坂城へ通じていたと伝わる真田の抜け穴跡

 

三光神社

 

真田丸出城概略図

2014/11/19 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真田幸村 大坂冬の陣 真田丸攻防戦

http://www.youtube.com/watch?v=khaEKH29sMQ


野田城(摂津国)

2014年11月20日 | 大阪府の城郭・環濠

 野田城は、亮禄4年(1531年)細川高国と三好元長が対立した際、浦上掃部が、淀川河口の中州の高台にあたる野田の地に築城した。元亀元年(1570年)、畿内での勢力回復を図る三好三人衆等が在陣したほか、石山本願寺が打倒信長を揚げ武装蜂起した。天正4年(1576年)織田信長の猛攻により野田城は落城した。その後、織田信長の石山本願寺攻めのときには信長方の重要陣地となった。現在は市街地化されて、マンションの前に石碑がひっそりと建てられているだけである。

[所在地:大阪市福島区玉川]

<アクセス>JR大阪環状線・野田駅下車東へ徒歩すぐ。

野田城跡碑

石碑の側面           

 

2014/11/19 訪城


外務省がアメリカの教科書の是正要請

2014年11月18日 | 慰安婦関連ニユース

  米カリフォルニア州ロサンゼルス市や同市近郊の公立高校で使用されている世界史の教科書に、旧日本軍が慰安婦を「強制連行」したとする史実と異なる記述がされている問題で、外務省が同教科書の使用実態の調査に着手し、出版社に記述内容の是正を要請したことが,11月17日、分かった。執筆者にも修正を申し入れる方針だ。

  慰安婦問題に限らず、日本の近現代史では、後から創作された話が、世界では、「正しい歴史」として認識されるケースが、多々ある。代表例は、日本が東南アジア諸国や中国大陸で「侵略戦争を行った」という話である。

  これは、戦後占領政策の一部としてGHQ(連合国軍総司令部)が世界中に広めたプロパガンダである。

  慰安婦問題と同様、真実とは異なる嘘が今や「歴史的事実」として認識されている

GHQの最高責任者だったダグラス・マッカーサー元師自身が後に「日本の戦争は、安全保障(自衛)が動機だった。」と米上院の特別委員会で証言している。

  しきりに「侵略戦争」や「歴史認識」などの言葉を用いて日本を攻めている国は、GHQのプロパガンダの恩恵を最大限に受けた国である。戦後、アジア諸国で唯一、驚異的なスピードで復興をはたして先進国となった「優等生」は、近所の「不良」から見れば心底妬ましい存在であり、ゆすり・タカリの格好の対象だった。GHQの思惑通り、罪悪感を刷り込まれた優等生は、不良にせがまれて金を払い続けた。結果、不良は、少し裕福になったが、妬ましい優等生に対して感謝の気持ちなど持つはずがない。現在は、優等生が過去の真実を知り、「今までよくもやってくれたな!]と言い始めることを最も恐れている

  最初に嘘をついて、これを広めたのはGHQだ

だから、嘘が暴かれるのを、米国も喜びはしない。しかし、来年は、戦後70年だ。そろそろ日本は、近現代の間違った歴史認識の修正を堂々と主張すべきである。今こそ反撃せよ、安倍首相頼むよ!    

[ソース:産経新聞11/18;夕刊フジ11/18参照]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  

      "このような本もありす!"  定価:[本体790円]+税

 

朝日新聞が従軍慰安婦問題で激しく批判されているが、自分が反論できなくなったら、今度は、NYタイムズや東亜日報の名前を借りて日本を貶めている。そこまでして、朝日新聞は日本を貶めたいという憎悪に近い感情があるようだ。

  「朝日新聞本社ビル内」に「東亜日報の東京支社」と「NYタイムズ社の東京支社」がある。

  つまり、朝日新聞(日本)=東亜日報(韓国)=NYタイムズ社(米国)  

  記事は、共有   ズブズブの関係です。

 

 


平野郷環濠

2014年11月12日 | 大阪府の城郭・環濠

 平野郷は、平安時代に開かれ,戦国時代には、自衛のため、まちを環濠と土塁をもって二重に囲み、外敵の侵入を防いだ。出入り口13ケ所に構えられた門は、明治12年(1879年)まで存続していた。その規模は堺に次ぐ規模です。これが環濠自治都市・平野郷の成立である。町民会議でまちを運営する自治都市として栄えた。中世より、近世にかけて各地と交易した平野商人の活躍は、末吉家のように朱印船によって、海外に雄飛する大商人を生み出した。また、在郷町として綿、特に操綿の生産として全国になをはせた。幸い、今次大戦の戦火を免れ、現在も大都市大坂の中にあって、今なお環濠都市の面影が残る地域です。

[所在地:大阪市平野区]

アクセス>JR大和路線・平野駅南口下車南へ

 平野環濠概略図

杭全神社

 

平野環濠跡碑(杭全神社境内) ▼環濠の濠(杭全神社の東側)

 

全興寺(せんこうじ)

 

坂上氏の屋敷跡 泥堂口地蔵

  

大念仏寺

 日本仏教13宗の1つの融通念仏宗の総本山

 

平野郷絵図

2014/11/11 訪問


栗田御所(青蓮院門跡)

2014年11月06日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

  青蓮院門跡は、天台宗の祖、最澄が比叡山を開くにあたって造られた住坊(青蓮坊」が起源で、創建は、1150年、開基は行玄です。天台宗比叡山延暦寺の五ケ所門跡の一つとして、皇室と関わりが深く、高い格式を誇ってきました。別名を栗田御所といい、江戸時代には後桜町上皇の仮御所になっています。約6000坪の境内全域が国の史跡に指定されています。

[所在地:京都市東山区栗田口三条坊町69-1]

<アクセス>京都市営バス5・46・100系統「神宮道」下車徒歩3分または、地下鉄東西線「東山」下車徒歩5分 

 

栗田御所(青蓮院門跡)境内図

 

シン殿・・・重要な法要を行う。

   親鸞聖人が第三代門主磁円により得度を受けた場所でもある。  

 

 

庭園

 

 2014/11/5 訪問 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 栗田御所(青蓮院門跡)からシャトルバスで「将軍塚・青龍殿」へ行きました。

 

 

将軍塚青龍殿

将 軍 塚

  延暦3年(784年),桓武天皇は都を奈良から京都南方の長岡に移しましたが、いろいろと事故が続きました。そこで和気清麻呂らは狩りに事よせて天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨、進言しました。天皇はその勧めに従って794年平安建都に着手したのです。天皇は、都の鎮護のために高さ2.5m程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ太刀を帯させ、塚に埋めるように命じました。これがこの地を「将軍塚」と呼ぶ由来になっています。国家の大事があると将軍塚が鳴動したという伝説が、「源平盛衰記」や「太平記」に残されています。今、この塚のほとりから眼下に京都の街を眺めるとき、栄枯盛衰の永い歴史が思い出されます。

 

将軍塚青龍殿

                                              ▼後継之松

 

将運塚からの眺・・・・京都タワーが見えます

将軍塚からの眺・・・京都御所が見えます

将軍塚からの眺め ・・・金戒光明寺が見えます

2014/11/5訪問