筒井城は、室町時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井順永が、永亭2年(1430年)に、平地部に筒井氏の本城として築城した中世の城としては、比較的大きい堀のある平城です。その後、応仁の乱から戦国期を通じて、筒井城をめぐる攻防戦は数多かった。永禄2年(1559年),松永久秀が大和に入り、筒井順慶と死闘を繰り広げることとなります。筒井順慶は、松永久秀軍により二度も城を追われた。しかし、元亀2年(1571年)には奪回している。そして天正5年(1577年)の信貴山城の戦いで久松永久秀が滅亡し、筒井順慶が郡山城へ移った天正8年(1580年)に、城は織田信長の一国一城令により廃城となった。
[所在地:奈良県大和郡山市筒井町シロ畑]
<アクセス>近鉄橿原線・筒井駅下車徒歩約5分
▼筒井城碑 ▼南側の堀(レンコン池)
▼主郭跡 ▼大型の井戸(主郭跡) ▼東側の堀
2013/03/23 訪城
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奈良の土民(土・徳政)一揆 正長元年(1428年)
江洲で借金の破棄を求める一揆が起こり機内周辺に広がる(正長の大一揆)。大和では、奈良の般若寺,興福寺、元興寺等に波及して明応二年(1493年)頃まで騒ぎが続いた。
大和永亭の乱 永亭二~永亭十二年(1430~1440年)
一乗院衆徒井戸甘(筒井氏派)と大乗院衆徒豊田中甘(越智氏派)の衆徒間の争いをきっかけに、大和の豪族たちが筒井・越智の両派に分かれて抗争する。転戦の末、反幕府体制を目論んだ越智氏が、幕府軍の介入により敗走する。
三好・松永の兵乱 永禄十年(1567年)
筒井順慶、大和国の支配回復のため三好衆と松永久秀の多聞城を攻める。久秀、三好三人衆の陣した東大寺大仏殿に夜討をかけて大仏殿炎上。筒井順慶・三好三人衆敗北。大和の兵乱続く。
◆筒井順慶 (1549~1584)
代々興福寺一乗院の衆徒。長い間、松永久秀に対抗を続けるが、元亀3年(1572年)松永久秀が織田信長に反抗をしたのを機に織田信長に従う。大和守護塙直政に従属、その戦死後は、明智光秀が大和を管掌し、筒井順慶はその与力にすぎなかった。筒井家の所領は最盛期の天正11(1583年)年に約44万石であるが、これには魔下の国人衆の所領を合わせたものであり、筒井家の直轄する所領はもともと6万石であったが、天正5年(1577年)の松永久秀滅亡後にその所領に10万石を加え、さらに天正11年(1583年)の柴田勝家滅亡後に2万石加え18万石であった。