nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

龍田城

2015年12月07日 | 奈良県の城郭・環濠

   龍田城は、竜田川の東、白山神社の北東に位置する。室町時代に、一乗院方衆徒龍田氏が築城し、天正年間まで居城にした。慶長6年(1601年)に2万8000石の大名として大和国に入った片桐且元が陣屋を築いた。初代藩主・且元は、豊臣秀吉に仕えた賤ケ岳の七本槍の一人に数えられる武将。豊臣氏滅亡後、加増され4万石の大名になった。明暦元年(1655年)為次の没後、後継ぎないために元禄7年(1694年)片桐且元より数えて4代目で廃城となった。大和街道からやや南に下った場所にあるL字形の池が主郭の南と東側の堀跡である。主郭の東に残る池は外郭部を囲む堀跡で、北端は、大和街道に面していたと考えられる。現在、市街地化が進行し、曲輪などの詳細は不明である。

[所在地] 奈良県生駒郡斑鳩町龍田南5丁目

アクセス>JR王寺駅下車徒歩約25分

竜田川              橋を渡ると龍田城

 

片桐氏と龍田城(龍田藩)の概要

龍田城の縄張り図

▼龍田城址

 

竜田川・龍田城址は紅葉の名所でもある。

 

 

2015/12/06 訪城


椿井城

2015年05月01日 | 奈良県の城郭・環濠

   椿井城は、奈良県の矢田丘陵の南西端に位置し、南北方向の尾根上に約310m,東西約110mにわたって築城された山城で、郭(曲輪)が直線状に連続する連郭式山城です。南北に連続する郭と郭の間には、敵の侵入を防ぐ切堀が5ケ所設けられ、一番南側の堀切には土橋が設けられています。椿井城の堀切は主郭北側を除き、竪堀や横堀に展開しています。このような城郭の構造から南方からの攻撃に防御の重点が置かれていると考えられます。椿井城は、中世・戦国時代に、当時平群谷を支配していた嶋氏によって築かれたという説やそれより以前に椿井氏によって築かれたという説や信貴山城を居城とした松永久秀の勢力下で築かれた山城という諸説があります。現在、城跡には、郭(曲輪)や堀切などの城郭遺構が数多く残されています。

[所在地:奈良県生駒郡平群町椿井]

アクセス>近鉄生駒線・竜田川駅下車徒歩約30分

椿井城概略図

椿井城縄張り図

椿井井戸登城口より登城する      ▼宮裏山古墳

 

登山道               ▼南副郭

 

              土橋と堀切

 

南副郭(海抜217m)

 

石垣       ▼南郭(手前)と南副廓(遠方)                 ▼南郭 (海抜220m)

  

南郭

 

南郭からの眺め

   椿井城からは、平群谷を一望することができ、椿井城と対峙する信貴山城があった信貴山など生駒山系を見渡すことができます。

2015/04/29 訪城


今井町環濠(寺内町)

2014年11月30日 | 奈良県の城郭・環濠

   今井町は戦国時代の16世紀前半頃に一向宗(浄土真宗)の門徒が中心となって形成した寺内町です。1570年代には大阪の石山本願寺を中心とした一向宗門徒と織田信長との抗争が展開し、今井も本願寺側として織田信長勢に対抗しました。今井は1575年に織田信長に降伏しており,降伏時の赦免状が称念寺に残されています。降伏の際にその証として軍事的防衛の濠が埋められました。その後、天下を治めた豊臣秀吉の世には再び濠を巡らし、徳川家康の庇護も受け、江戸時代には町人の財産を守るための環濠集落の商業都市として発展を遂げていきました。「大和の金は今井に七分」と言われるほど繁栄しました。今井町には江戸時代の古い家屋や街並みが今も多く残されています。平成5年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

[所在地:奈良県橿原市今井町]

<アクセス>近鉄橿原線・八木西口駅下車西へ

今井・寺内町の概要 

称念寺の概要

称念寺(今井御坊)・・・今井町の中核となった寺院で寺内町の形成、発展を支える町政全般の拠点でありました。明治10年、明治天皇の畝傍御陵行幸のときの行在所となりました。

本堂は国の重要文化財である(現在解体修理中)

今井の街並み

 

今井の街並み

 

今西家住宅の概要

 ▼今西家宅(国の重要文化財)

今井の街並み

 

環濠の濠

 

現地調査より濠は、内濠と外濠が有り、外濠の幅は、11m~14mあった。

2014/11/30 訪問


中家住宅(平城式居館)

2014年09月29日 | 奈良県の城郭・環濠

 中家住宅は、大和川北岸に残る大和地方の典型的な大和棟の環濠屋敷で知られ、総面積3,500坪。屋敷は、二重の濠に囲まれ、内濠と外濠の間は、竹藪となり、外観は一見、古墳あるいは、神社の森を思わせる。南側の濠は消滅したが、中世土豪の平城式居館の姿をよく伝えている。中氏は、もとを足立氏と称し、伊勢の国鈴鹿の土豪から鎌倉末期に足利尊氏に従って大和に入り、窪田の姓を名乗ってこの地に居館を定めた。その後、明徳2年(1391年)には窪田中氏と改め、岡崎、笠目、窪田の地を拝領し、筒井に本拠を構えていた筒井一族より養子を迎えることで筒井氏一族の武士として活躍したが、筒井氏の伊賀国替えには同行せず、大和に残り大和郡山城に入った豊臣秀長に仕えた。秀長死後、文禄4年(1595年)、武士から帰農して、窪田村庄屋のみならず、幕府領年預(大庄屋)を長く勤め、275石にのぼる大和の地では例を見ない程の大地主となった。このため、武家造りと農家造りを合わせ持つ造りとなっている。主屋は万治二年(1659年)頃の創建と推定され、新座敷には安永二年(1773年)の棟札がある。その他、表門、米蔵、新蔵、乾蔵、米蔵及び牛小屋、持仏堂、庫裏、そして宅地、濠、竹藪が、昭和43年~53年に国の重要文化財に指定された。

[所在地:奈良県生駒郡安堵町窪田133番地]

アクセス>JR大和路線・法隆寺駅からかしの木台方面行バス乗車かしの木台下車徒歩約10分(ただしバスの本数が少ないのでタクシーが便利)

                 近鉄線の場合、最寄り駅は橿原線の平端駅

                 開館時間  午前10時~午後5時

        休館日     8/1~8/31     12/20 ~1/10        見学は電話にて事前に予約   

                 維持管理協力金…500

外濠(東側)              ▼外濠(北側)

 

                                                                  ▼内濠沿いの併の向うに新座敷が見える

 

                   ▼表門・・・内濠に万一の時には外せる板橋が架かる

 

主屋の正面  茅葺きの大和棟  ▼両脇が土蔵になった米蔵

 

米蔵(左)と乾蔵(右)       ▼持仏堂・・・中家が個人で持つ菩提寺(真言宗)

 

2014/09/28 訪問


十市城

2014年01月27日 | 奈良県の城郭・環濠

   十市城(とおいちじょう)は、地元の豪族十市氏が築いた中世大和における典型的な平城で、鎌倉時代後半から江戸時代にかけて居城しました。その規模は、東西約550m・南北約430mと推定されます。十市氏の出自は興福寺大乗院の国民(十市庄荘官)で戦乱の中、十市氏は筒井氏とともに成長しつづけ、天文14年(1545年)に死去した当主、十市遠忠の時代に最盛期を迎えます。松永久秀の大和入府後、十市氏は、松永・筒井の間で揺れ動き、家臣団も分裂。松永久秀が滅亡すると筒井氏に属したが、天正13年(1585年)筒井氏は伊賀に移封された。十市一族の多くがこれに従い、残った者たちは羽柴秀長に仕えた。現在、遺構はなく、主郭部分と推定される約70m四方の微高地の畑の片隅に「十市城之跡」の石碑が建っています。

[所在地:奈良県橿原市十市町城垣内]

アクセス>近鉄橿原線新ノ口駅から徒歩約15分(1.1km)

▼「十市城之跡」の石碑                      ▼石碑の裏側

 

十市城の主郭跡部分             土地改良の石柱

 

2014/01/27 訪城

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十市遠忠(1497年~1545年)

 十市遠忠は、興福寺大乗院の国民で、武勇に優れ、歌道や書道にも通じ、文武両道の武将として十市氏の最盛期を築いた。最大の領域は、十市郡・弐上郡等領有し、多くの与力衆を持つ6万石の大名であった。室は、筒井順興の娘である。


菟田の高城 (うだのたかぎ)

2013年10月09日 | 奈良県の城郭・環濠

   菟田の高城(うだのたかぎ)は、神武天皇が八咫鳥(やたがらす)に導かれて大和の国に進行した時に、軍の休息に築いたといわれるわが国最古の城跡。ここを大和侵攻の拠点とした。城といっても、石垣を積んだような城でもなく、礎石を持つ建造物跡もない。現在、城跡には、「神武天皇御東征 菟田高城」の碑があります。

[所在地:奈良県宇陀市菟田野佐倉]

アクセス国道166号線から「桜実神社」へ約300m入って来た時、神社の手前に北への細い道があり、そこを登ると木立の中にある「菟田の高城」に至ります。 

国道166号線          国道166号線から西に約300mで下の標識に来る。

 

ここまで、車で来られます。ここから徒歩で木立の中にに入ります。

 

 

菟田の高城跡

菟田の高城跡(郭内)

 

神武天皇御東征 菟田高城の碑

久米歌

2013/10/09  訪問


多聞山城

2013年06月17日 | 奈良県の城郭・環濠

 松永久秀が、永禄3年(1560年)に,東大寺大仏殿の北の眉間寺山(佐保山)に多聞山城(たもんやまじょう)を築いた。松永久秀の素性はあきらかでないが、松永久秀は、三好氏の当主三好長慶に仕え、しだいに頭角をあらわした。永禄2年(1559年)筒井順慶等の国衆を掃討し、翌年から5年の歳月をかけ城を完成させて、大和を支配した。城には、四重の天守が聳え、長屋状に塁上を巡る櫓があり、櫓の壁は漆喰で白亜に輝き、多数の銃眼が穿たれて、鉄砲隊を配置できるきわめて実践的な城であった。天正元年( 1572年)多聞山城は織田信長によって接収されたために、松永久秀は信貴山城に退きました。天正5年(1577年)に松永久秀が信貴山城で自害したのち、織田信長の命を受けた筒井順慶により、多聞山城は、取り壊され、城石は、大和郡山城の築城に使用されました。現在、本丸跡には、奈良市立若草中学校が、建っています。

[所在地:奈良県奈良市法連町]

アクセス>近鉄奈良駅から徒歩15分(1.2km)

多聞山城へのアクセス(略図)

多聞山城概略図

本丸(本丸跡には。現在、奈良市立若草中学校が建っています。)

 多聞山城跡碑(若草中学校内)

2013/06/17 訪城

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三好・松永の兵乱 永禄10年(1567年)

   筒井順慶、大和の支配回復のため、三好三人衆と松永久秀の多聞山城を攻める。松永久秀、三好三人衆の陣した東大寺大仏殿に夜討をかけて東大寺大仏殿炎上する。筒井順慶・三好三人衆敗北。大和の兵乱続く。


小泉城(片桐城)

2013年04月28日 | 奈良県の城郭・環濠

 小泉城は、室町時代に、興福寺衆徒で国人の小泉氏が、築城した平城です。長禄3年(1459年)筒井順永に攻められ落城。その後、文明7年(1475年)にも落城、天正8年(1580年)に織田信長の一国一城令により、城は、破壊される。その後豊臣秀長が大和国を治めた時、その家臣(家老)であった羽田長門が小泉城に入り外堀を造り、小泉氏の館跡を拡大する。慶長6年(1601年),豊臣家に仕えていた片桐且元の弟片桐貞隆が小泉城を含め15,000石で大名に加わる。そして大坂の役が終わると、今度は徳川家康から16,400石に加増され、元和9年(1623年)片桐貞隆は小泉城に戻ってきた。そして小泉城址に陣屋を構え、小泉藩祖となった。2代藩主片桐石見守貞昌は、茶人として有名で、茶道石川流の祖である。片桐氏は、初代貞隆から12代貞篤まで、代々小泉の地を離れることなく明治を迎えた。明治6年(1873年)の廃城令により城は取り壊された。     

[所在地:奈良県大和郡山市小泉町]

アクセス>JR小泉駅から徒歩10分

片桐城の石碑(小泉城の別名)

 

小泉城石碑(主郭跡)への入り口            ▼小泉城主郭跡

 

小泉城石碑             ▼外堀跡

 

 2013/04/27 訪城

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慈光院は、寛文3年(1663年)当地の大名であった小泉藩2代藩主の片桐石見守貞昌(石州)が、父貞隆の菩提寺として自分の領地内に建立した臨済宗大徳寺派の寺院である。       

[所在地:奈良県大和郡山市小泉町865]

   

茨木城楼門茨木城より移築して屋根を書院とあわせて茅葺きに葺き替えて当院の山門とした。

書院(茅葺きの屋根)

 

庭園 

 

書院で、抹茶とお菓子を頂きました

2013/04/27  訪問


大和・柳生陣屋

2013年04月21日 | 奈良県の城郭・環濠

 柳生宗矩は、寛永13年(1636年)、所領2000石から12500石に加増されて大名に列し、江戸常府大名となった。寛永15年(1638年)、柳生家菩提寺の芳徳寺を大和・柳生城の北側の曲輪に建立し、寛永19年(1642年)、宗矩は、大和・柳生城とは別に小高い丘の上一帯に居館としての陣屋を築きます。これが柳生陣屋で城とは谷を挟んで反対の南西側にありました。以後、柳生氏が12500石を領して明治まで続いた。現在は公園として整備されています。                                

 [所在地:奈良県奈良市柳生町]

アクセス>JR笠置駅から徒歩約60分(3.7km)

                   この丘の上一帯が柳生陣屋跡

 

 

柳生陣屋屋敷図

 

 

 

 2013/04/20訪城

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[問題]戸時代の医者によると、家老は、どういう病気になることが多かったか?

[模範解答は、最後にあります。]

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柳生家の系図

 

柳生新陰流の概要                       

 

柳生藩家老屋敷(奈良県有形文化財)

  

  

 

間取り図

 

家老小山田家の分家の屋敷[非公開]

 

2013/04/20 訪問

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[]過労です家老(過労)と言いますから()。


大和・柳生城

2013年04月20日 | 奈良県の城郭・環濠

 大和・柳生城は、築城時期は、定かではないが、戦国時代に大和・柳生荘の豪族だった柳生氏が山上に築いた山城です。柳生氏は関白藤原頼道が大和国四箇郷を春日大社に寄進した時、小柳生郷の荘官となり子孫が柳生氏(本姓は菅原氏)を称したのが始まりである。天文13年(1544年)に山中衆とともに柳生氏は、大和に勢力拡大をはかる筒井氏に抵抗したが、筒井氏の大軍に攻められ、善戦するも落城し、柳生氏は筒井氏に降った。織田信長の大和侵攻に功あって所領を得たが、豊臣秀吉の文禄検地で隠し田が露見して所領は没収された。文禄3年(1594年)徳川家康に見いだされ、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦功により柳生の旧領2000石を与えられ、柳生家を再興した。寛永13年(1636年)12500石に加増され、大名に列し、江戸常駐の定府大名となった。寛永15年(1638年)、城の北の曲輪に柳生家菩提寺芳徳寺を建立し,遺領から200石を寺領とした。さらに寛永19年(1642年)、山城の柳生城から今川で隔てた西の台地上に陣屋を築き居館とした。                                

[所在地:奈良県奈良市柳生町]

アクセス>JR笠置駅から徒歩約60分(3.7㎞)

 山上が主郭

 

 

芳徳寺城の曲輪に建立されました。

 

2013/04/20 訪城


大和・新庄城

2013年04月15日 | 奈良県の城郭・環濠

 大和・新庄城は、築城時期は、定かではないが、布施氏によって屋敷山古墳の墳丘を利用して平時の居館として築かれた城砦である。布施氏は、その後、没落滅亡し、かわって慶長6年(1601年)に紀伊和歌山から桑山一晴が一万六千石で入府し、新庄藩となった。しかし、天和2年(1682年)に改易になり、その後、永井直園が新庄藩一万石の大名として入府し、文久3年(1863年)八代藩主永井直壮が櫛羅陣屋に移すまで存続した。現在、国の指定史跡となっている屋敷山公園の中にある屋敷山古墳が新庄陣屋のあった所で、入口に石碑と案内板が設置されている。 

[所在地:奈良県葛城市藤井(屋敷公園)]

アクセス>近鉄新庄駅から徒歩約15分(1.3Km)

新庄城虎口                                      新庄城石碑                                                                                   

 

屋敷山古墳の墳丘を削って、かっては、大奥、御殿、物見櫓、等が並んでいた。

 

                       古墳の堀は、そのまま水堀とした

 

2013/04/14  訪城


筒井城

2013年03月23日 | 奈良県の城郭・環濠

  筒井城は、室町時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井順永が、永亭2年(1430年)に、平地部に筒井氏の本城として築城した中世の城としては、比較的大きい堀のある平城です。その後、応仁の乱から戦国期を通じて、筒井城をめぐる攻防戦は数多かった。永禄2年(1559年),松永久秀が大和に入り、筒井順慶と死闘を繰り広げることとなります。筒井順慶は、松永久秀軍により二度も城を追われた。しかし、元亀2年(1571年)には奪回している。そして天正5年(1577年)の信貴山城の戦いで久松永久秀が滅亡し、筒井順慶が郡山城へ移った天正8年(1580年)に、城は織田信長の一国一城令により廃城となった。 

 [所在地:奈良県大和郡山市筒井町シロ畑]

<アクセス>近鉄橿原線・筒井駅下車徒歩約5分

 筒井城碑        南側の堀(レンコン池)

  

主郭跡       大型の井戸(主郭跡)  東側の堀

  

2013/03/23 訪城

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奈良の土民(土・徳政)一揆  正長元年(1428年)

 江洲で借金の破棄を求める一揆が起こり機内周辺に広がる(正長の大一揆)。大和では、奈良の般若寺,興福寺、元興寺等に波及して明応二年(1493年)頃まで騒ぎが続いた。

大和永亭の乱  永亭二~永亭十二年(1430~1440年)

 一乗院衆徒井戸甘(筒井氏派)と大乗院衆徒豊田中甘(越智氏派)の衆徒間の争いをきっかけに、大和の豪族たちが筒井・越智の両派に分かれて抗争する。転戦の末、反幕府体制を目論んだ越智氏が、幕府軍の介入により敗走する。

三好・松永の兵乱  永禄十年(1567年)

 筒井順慶、大和国の支配回復のため三好衆と松永久秀の多聞城を攻める。久秀、三好三人衆の陣した東大寺大仏殿に夜討をかけて大仏殿炎上。筒井順慶・三好三人衆敗北。大和の兵乱続く。

筒井順慶 (1549~1584)

  代々興福寺一乗院の衆徒。長い間、松永久秀に対抗を続けるが、元亀3年(1572年)松永久秀が織田信長に反抗をしたのを機に織田信長に従う。大和守護塙直政に従属、その戦死後は、明智光秀が大和を管掌し、筒井順慶はその与力にすぎなかった。筒井家の所領は最盛期の天正11(1583年)年に約44万石であるが、これには魔下の国人衆の所領を合わせたものであり、筒井家の直轄する所領はもともと6万石であったが、天正5年(1577年)の松永久秀滅亡後にその所領に10万石を加え、さらに天正11年(1583年)の柴田勝家滅亡後に2万石加え18万石であった。


大和・高田城

2013年03月04日 | 奈良県の城郭・環濠

大和・高田城は、永亮4年(1432年),室町幕府第六代将軍 足利義教の命により、有井城主當麻為貞によって築かれた平城です。當麻氏(とうまし)は、一乗院方の国民です。高田城は室町時代後期、當麻氏が城主として君臨し、大和西部に大きな勢力を持ち、越智氏と勢力を競ったが、戦国時代になると、織田信長に従った筒井順慶の侵攻により、天正11年8月に高田城主一族は滅ぼされ、城も廃城となった。現在、遺構はないが、城は片塩小学校一帯に築かれ、片塩小学校の南側にある小公園に案内板と石碑が建っている。石碑の傍らには、樹齢計り知れない巨木が鎮座している。公園の南側にある當麻氏ゆかりの常光寺には、高田城主當麻(当麻)三河守為長公之墓がある。 

【所在地:奈良県大和高田市旭北町

<アクセス>JR高田駅から徒歩約6分(500m)

 

大和高田城跡                                           

 

石 碑                                                     公  園

                       

2013/03/03 訪城

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 大和・高田城の攻防戦 文安4年(1447年)

 文安4年(1447年)、當麻氏の大和・高田城(砦)は、越智・布施氏の軍勢に攻められ、五重の木戸を四重まで攻め落とされながらも撃退させた。


信貴山城

2013年01月22日 | 奈良県の城郭・環濠

  古代より大和と河内を結ぶ要所の標高433mの信貴山雄嶽を中心に築城された山城です。奈良県下最大規模を有する城郭です。中世には、護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点にするなど戦略的に重要な位置にありました。その後、戦国時代には、木沢長政が天文5年(1536年)に城を築き永禄2年(1559年)、松永久秀が大規模な城郭を再興。松永久秀は翌年築城の多聞城と合わせて大和支配の拠点とするが、天正5年(1577年)織田信長に反抗して信貴山城に籠城、敗死する。現在、本丸跡には、信貴山朝護孫子寺の空鉢堂が建てられています。

 [所在地:奈良県生駒郡平群町信貴山]

<アクセス>信貴山朝護孫子本堂付近から徒歩約30分

信貴山城の概要

      

信貴山城本丸跡       ▼本丸跡より展望風景

 

信貴山城の戦い  (学研「歴史群像シリーズ・風雲信長記」より)

2012/05/13 訪城

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信貴山城の戦い  天正5年(1577年)

 松永久秀が織田信長に対する二度目の謀反をする。織田信忠が40,000騎で信貴山城を包囲する。松永久秀は、8,000騎で籠城戦を展開するが、信貴山城方が裏切り松永久秀自害する。筒井順慶の大和支配回復する。

松永久秀(?~1577年)

 もと三好氏の臣だが、三好三人衆と対立し争いを続ける。永禄10年(1568年)入京した足利義昭に降って幕臣となり、大和一国の扱いを任された。しかし元亀3年(1572年)織田信長に反抗。翌年降参して許されたが、佐久間信盛の与力に格下げされる。天正5年(1577年)信貴山城に籠って再び、反抗する。織田信忠軍の攻撃を受けて10月10日自殺した。


大和布施城

2013年01月22日 | 奈良県の城郭・環濠

 築城時期は不明だが、戦国時代に、布施氏が葛城の金剛山地から東に派生した尾根の中腹、標高460m付近に詰めの城として築城した山城です。布施氏は、古代豪族置始連を祖とし、葛城一帯を領し興福寺一乗院門跡坊人の国民に列し、武士としての活動は、平安期から知られている。同じ坊人同志の誼で筒井氏とは早くから交流を保った。のちに布施氏は、筒井順慶の内衆に連なって一党は筒井氏の家臣となり、筒井定次の伊賀転封にも同行している。

[所在地:奈良県葛城市寺口布施]

<アクセス>近鉄新庄駅から徒歩約60分(3.5Km)

大和布施城の概要

城道(じょうどう)                                   ▼本丸(主郭)

 

本丸跡(主郭跡)                                       ▼本丸跡(主郭跡)よりの展望

 

2012/09/22 訪城