月山 富田城は、急峻な山である月山を中心とし、周囲の丘陵上にも曲輪や石垣、堀切、土塁などの防御施設を配した大規模な城郭です。
12世紀の後半、源頼朝が出雲守護として佐々木義清を任命したこととされますが、尼子家三代の戦国武将によって月山富田城は最盛期を迎え、江戸時代の初期まで月山富田城は多くの変遷を繰り返しました。尼子氏は大内氏、陶氏、毛利氏との戦を繰り返しながら、因幡、石見、備後など11カ国にも及ぶ広大な領地を拡大しました。
しかし、永禄8年(1565年)、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半ものあいだ月山富田城に立て籠っていたにもかかわらず、永禄9年(1566年)、月山富田城は毛利氏の手に渡ってしまいます。慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで徳川家康に敗れた毛利氏は月山富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉晴が出雲富田24万石の大名となって月山富田城に入りました。しかし山奥にある富田が出雲支配に不便なことから、堀尾氏は城を現在の松江城に移してしまいます。難攻不落と言われ、数々の武勇を生んだ名城月山富田城は、その後二度と城として使われることはありませんでした。慶長16年(1611年)堀尾吉晴の死去により、孫の堀尾忠晴が跡を継ぐ。堀尾忠晴が松江城へ本城を移し、廃城となりました。昭和9年(1934年)には、その歴史的価値が認められ、国の史跡に指定されました。
【所在地:島根県安来市広瀬町】
<アクセス>JR山陰本線・安来駅よりバスで約25分。
▼月山富田城の概要
▼月山富田城縄張図
▼山中御殿……菅谷口、塩谷口、御子守口といった主要城内道が合流する、城の中心的曲輪。
▼雑用井戸 ▼管谷口の虎口
▼親子観音 ▼七曲り……山中御殿から山頂への軍用道
▼矢吹井戸
▼三の丸
▼二の丸
▼本丸 ▼山中鹿介幸盛記念碑
▼勝日高守神社
▼土塁 ▼堀切
▼山中介鹿幸盛の説明
▼山中介鹿幸盛銅像
第2次月山富田城の戦い後、尼子再興を誓った山中介鹿幸盛は『我に七難八苦を与えたまえ』と三日月に祈ったという。
▼本丸からの眺め
▼復元月山富田城
2018/12/06 訪城
月山富田(がっさんとだ)城の戦 永禄9年(1566年)
山陽の雄毛利氏が中国の覇権を争う。毛利元就27000騎で尼子義久12000騎が守る城を包囲する。包囲戦の末、尼子氏降伏。毛利元就、尼子義久ら尼子一族を助命、寛大な処置を遇する。
布部山(ふべやま)の戦 元亀元年(1570年)
尼子氏の旧臣・尼子勝久・遺臣・山中介鹿幸盛(鹿之助)が主家再興のため隠岐で挙兵し、出雲新山城に拠って月山富田城を攻撃。毛利輝元25000騎で救援。月山富田城の守兵の奮戦と毛利輝元の援軍の奮闘で勝利。