nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

井伊谷城

2017年05月30日 | 静岡県の城郭・環濠

 井伊谷城は、この地の領主である井伊氏が井伊谷の集落の北側にある標高約115mの城山の山頂に築いた山城です。 単郭式の曲輪が築かれ、広さは約40m×50mの広さで周囲に土塁の痕跡が残る。

[所在地:静岡県浜松市北区引佐町井伊谷]

<アクセス>

天竜浜名湖鉄道・金指駅下車、遠鉄バス金指から(45)奥山行に乗り神宮寺下車、徒歩約30分

浜松駅バスターミナル15番乗り場から遠鉄バス(45)奥山行に乗り神宮寺下車、徒歩約30分

井伊谷城の概要

井伊谷城の縄張り

口(大手口)

 

曲輪の内部跡

 

2017/05/28 訪城


山中城

2017年03月21日 | 静岡県の城郭・環濠

  戦国時代の末期の永禄年間(1560年代)に、北条氏の本拠地である小田原城を守る箱根十城の山中城は、東海道を城内に取り込んでいた。 土で築かれた城は、障子堀、畝堀などの特殊な空堀を曲輪の周囲に堀り、厳重な防備を誇っていた。豊臣秀吉の小田原評定が始まると、城の防衛をさらに固めるが、天正18年(1690年)豊臣秀次率いる豊臣軍約7万騎の総攻撃を受け、北条軍は約4千騎余で必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で城は落とされた。その後、山中城は廃城となり、小田原城も開城し相模北条氏は滅亡する。現在、堀や土塁が良く残っており、屋根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた石を使わない土だけの山城は非常に珍しい。昭和9年(1934年)国の史跡として指定されています。

[所在地:静岡県静岡市三島市]

<アクセス>JR三島駅からバス約30分

山中城の概略図

              ▼本丸と北の丸にかかる架橋

 

  

              ▼畝堀

 

二の丸と西の丸の架橋

 

山中城の碑        ▼西の丸

 

障子堀

 堀底に畝のように堀残しの部分を設ける。1列に並んだものを畝堀、2列以上のものを障子堀という。敵によって堀底を道として利用されないための工夫でもあり、また落ちると、容易にはい上がれないようになっていて、まさに蟻地獄を思わせる

 

宗閑寺と武将の墓の概要

北条方武将の墓            ▼豊臣方武将の墓(一柳直末の墓)

 

2017/03/16 訪城


駿府城

2017年03月17日 | 静岡県の城郭・環濠

 室町時代の建武4年(1337年)、今川範国が、駿河国の守護に任ぜられ、以後駿河国は今川氏の領土の一つになります。

  今川氏全盛期の天文18年(1549年)9代今川義元の時代に、徳川家康は人質として19歳までの12年間,駿府で生活しています。永禄11年(1568年)10代今川氏真は甲斐の武田信玄に攻められて掛川城に落ち、駿府の城下町は焼き払われ、さらに天正10年(1582年)には徳川家康が駿府の武田勢を攻め、再び戦火に遭って駿府の城下町は、ほぼ壊滅したが、駿府を支配した徳川家康は天正13年(1585年)から居城として今川館の位置に,駿府城の築城を始め、天正17年(1589年)に完成させた近世城郭である。

 一時、豊臣秀吉の命で徳川家康は駿府を離れるが、豊臣秀吉亡き後、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いに勝利し、再び駿河を領有し、駿府城は徳川家康の隠居城として大改修された。三重の水堀をもつ輪郭式平城には六重・七階の天守が建てられた。明治維新の廃城令で、城内の建物はすべて払い下げられたが、平成元年(1989年)復元巽櫓、平成8年(1996年)復元二の丸東御門が完成し、平成24年(2012年)城跡は、「駿府城公園」に名称を変更した。

[所在地:静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1]

<アクセス>JR静岡駅から徒歩約15分

 ▼駿府城の概要

駿府城の概略図

 

 ▼二の丸巽櫓

 

 ▼東御門・高麗門      ▼櫓門南面(正面)

 

 ▼東御門(城内より)     ▼本丸掘

 

               ▼坤櫓

 

徳川家康像(駿府城本丸跡)

 

紅葉山庭園(駿府城公園内)

 

2017/03/15訪城


二俣城

2016年04月23日 | 静岡県の城郭・環濠

 二俣城は、16世紀初めに,二俣氏が、天竜川と旧二俣川で三方を囲まれた天然の要害の丘陵地に築いた山城です。永禄10年(1567年)以降は今川氏の城であったが、桶狭間の戦い後に徳川氏の城となり、元亀3年(1572年)武田氏が信濃から遠江に侵攻して奪い、さらに長篠の戦いの後、徳川氏が奪い返すなど、激戦が繰り広げられた。丘陵の上を階段状に曲輪が設けられ、城の中心である本丸や二の丸には、土塁や石垣がめぐらされ、本丸の奥には、天守台があります。城郭の基本的な姿は今川氏や徳川氏によって形づくられ、石垣や天守は、徳川氏が関東に移封後、豊臣方の堀尾氏によって築かれたものと思われます。慶長5年(1600年),関ヶ原の戦いの後に廃城となる。現在、二俣城の周囲には、二俣城の支城、または二俣城を攻めるために築かれた付城など、多くの城遺構が現存します。

[所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣]

アクセス>天竜浜名湖鉄道二俣本町駅下車徒歩約10分

二俣城の概要

二俣城をめぐる城郭群

二俣城の復元図

二俣城の縄張り

 主要部の本丸・二の丸を中心として尾根上に曲輪が連なる連郭式になっている。主要部は石垣造りであるが、堀切りや曲輪の形態は山城の様相である。

              二の丸大手口

 

二の丸          ▼土塁

 

本丸

 

天守台

 本丸の西側に天守台が現存している。天守台は、堀尾氏の時代(1590年~1600年)に築かれた。

 

天守台より見える天竜川

 

北曲輪・手前の橋の下は堀切り           

 北曲輪と本丸(手前)の橋は、廃城後、北曲輪に神社が出来てから設置された。    

              堀切り   

 

2016/04/17 訪城

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二俣城攻防戦(1)      元亀3年(1572年)10月

 元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃経由で遠江に侵攻し、武田勝頼の軍が二俣城を攻撃した。武田勝頼は力攻めをせず、二俣城の水の手を断つ作戦を開始した。徳川軍の城兵が崖に櫓を建てて、釣瓶で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を大量に流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2ケ月ほどで二俣城は落城した。

二俣城攻防戦(2)     天正3年(1575年)5月

  天正3年(1575年)5月,長篠の戦で武田勝頼に勝利した徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃を開始した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂・蜷原等5ケ所に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は、7ケ月で食糧が底をつき、城兵の安全な退去を条件に、ついに城代依田信蕃書は、二俣城を開城した。そして、二俣城には徳川家康の重臣、大久保忠世が入城した。

松平信康自刃事件   天正7年(1579年)9月15日

 大久保忠世が在城中に起こった事件として、有名な徳川家康の長男・松平信康自刃事件がある。一般には、松平信康と母築山御前が武田氏と通じていたことを理由に、織田信長が松平信康を切腹させるように命じたとされている。徳川家康はこれを受けて松平信康を天正7年(1579年)9月15日,二俣城で切腹させた。この事件は、松平信康自刃事件として知られています。

清龍寺・松平信康廟

 二俣城から峯続きで、北東約500mに清龍寺・松平信康廟があります。

 


浜松城

2015年01月08日 | 静岡県の城郭・環濠

  浜松城は、三方ケ原台地の東南端に築かれた平山城です。今川氏滅亡後、遠江を平定した徳川家康は、元亀元年(1570年),武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河から遠江へ移し、引馬城に入り新城の築城を開始する。この年の9月は普請も完了し、浜松城と名付け入城した。元亀3年(1573年),武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして徳川家康を挑発。挑発された徳川家康は浜松城から打って出たが、武田信玄に三方ケ原で大敗を喫した徳川家康は命からがら浜松城に逃げ込んだ(三方ケ原の戦い)。天正14年(1586年),徳川家康が駿府に本拠を移すと家臣の菅沼定政が城を預かる。徳川家康の関東移封後は、豊臣秀吉の家臣掘尾吉晴が入城したが関ヶ原の功績により出雲松江に移封となり、以後江戸時代は徳川譜代大名が交代で入城し、幕閣への登竜門[出世城]として意識された。浜松城は、明治維新後に廃城となり破壊された。城跡は、「浜松城公園」となり、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート制の復興天守閣が再建された。そして、昭和34年(1959年)には浜松市の史跡に指定された。

[所在地:静岡県浜松市中区元城町100-2]

<アクセス>JR浜松駅からタクシーで5分。又は

      JR浜松駅バスターミナルから遠江バスで市役所前下車徒歩約1分。

徳川家康の概説

              ▼天守門

 

                                                  ▼天守門

 

                ▼天守閣

 

浜松城の石垣(野面積み)

  浜松城の石垣は、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。表面にすき間があり、一見崩れやすいように見えますが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固です。浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の圭岩で浜名湖や佐鳴湖など水路を使って運ばれました。江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、現存する石垣としては、彦根城、竹田城、そして安土城にも用いられていたといわれています。

                                                  

 

城郭の全容

 

天守閣

天守閣からの眺め

 

本丸跡              ▼本丸跡に立つ徳川家康の像

 

徳川秀忠誕生の井戸 (遠江鉄道・遠州病院前駅から徒歩1分)

 

徳川家康の散歩道・・・・・ハイキングコースになっています。

2015/01/07 訪城

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三方ケ原の戦  元亀3年(1572年)

  武田信玄の徳川領侵攻で、徳川家康が、浜松城から打って出て戦った戦。武田信玄(25,000騎)は、魚隣の陣で、徳川家康(11,000騎)は鶴翼の陣で対峙。徳川家康軍撃破される。

浜松の百姓一揆  弘化3年(1846年)

  水野忠邦から家督を相続した嫡子忠清、出羽山形へ移封。この時、領民からの借上金を返済しなかったために一揆が起こる。

夏目吉信  (1518年~1572年)

  永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆方に加担。のち徳川家康に許され再出仕。元亀3年(1571年)の三方ヶ原の戦いの時、幡豆郡六栗城主だった夏目吉信は、敗勢の中で決死の突撃をはやる徳川家康に、退去をすすめました。夏目吉信は、徳川家康が肯かないとみると、刀の棟で乗馬の尻を叩き、浜松の城へ向けて疾駆させた。そして、自らは寡兵を率いて敵中に入り、家康の名を大音声に呼ばわりつつ、ついに身代わりとなって討ち死にした。

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<徳川家康の問題>

[1] 慶長8年(1603年)将軍に任じられた徳川家康は、拝賀のため朝廷に参内した。このとき家康は初めて土田孫三郎を伴って行ったが、この土田家以来、公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)という役職を世襲した。どんな役だったか。

     ①洗面・うがい用の水を用意する役。

     ②旅先での毒味役。

     ③儀式のときの小便器持ち。

[2] 徳川家康が三河で小勢力だったころ,近習の者が盛った飯のことでひどく怒った。どんな飯だったのか。

     ①麦飯の下に白米飯が入っていた。

     ②麦だけの飯だった。

     ③籾が付いたままの飯だった。

[3] 徳川家康が即刻切腹を命じたその男との因縁は?

     ①三河の譜代の家柄なのに武田に転職していた。

     ②駿府で人質だったころイジメられた。

     ③長男信康が信玄と密通したとされたときの武田側の窓口だった。

[4] 三方ケ原から逃げ帰った家康はどんな様子だったか?

     ①甲冑を後ろ前に着けていた。

     ②下半身がふんどしだけだった。

     ③クソを垂れ流していた。

 

[解答]

[1]③

[2]①

[3]②

[4]③


掛川城

2015年01月08日 | 静岡県の城郭・環濠

  掛川城は逆川沿いの小高い丘に位置する平山城。戦国時代の明応6年(1497年)~文亀元年(1501年),駿河の守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕によって築かれた。桶狭間の戦(1560年)で、今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568年),今川氏真は武田勢の侵攻を受け、歴代の本拠である駿府今川館を失うと、掛川城へ逃亡した。翌年の永禄12年(1569年)掛川城は、徳川家康に攻められ孤立無援の状態となったことから、今川氏真は、降伏を決意し開城しました。ここに今川家は滅亡した。

 徳川家康領有後、重臣石川家成が甲斐の武田氏の侵攻を防ぎました。天正18年(1590年)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東に移し、徳川家康旧領地には豊臣秀吉配下の大名を配置し、掛川城には、山内一豊が51,000石(のち59,000石)の大名として入りました。山内一豊は、多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて3層の天主閣をつくりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦の後、山内一豊は土佐一国を与えられ高知城に移っていきました。

 江戸時代には、徳川親藩の松平氏や江戸城を築いた太田道灌の子孫太田氏等11の大名家の居城として栄え、明治維新まで続きました。明治以降は、廃城令によって大半の遺構が撤去されたが、平成6年(1994年),掛川市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造工法の天守閣が復元された。幕末に再建された二の丸御殿(重要文化財)が現存する。

[所在地:静岡県掛川市掛川1138-24]

<アクセス>JR東海道本線・新幹線、掛川駅下車北へ徒歩約10分

太鼓櫓(右)と天守閣(左)         ▼復元された城門

 

太鼓櫓          ▼本丸から見た天守閣

                            

 

天守閣                                    ▼天守閣の構造

                              

狭間(さま)        

 城郭内の建物塀に設けられ、内側から鉄砲や弓矢で敵を攻撃するための穴で、掛川城天守閣では、一階に9ケ所、二階に14ケ所ありました。                                 

 

石落とし

 一階の床の一部を石垣の上に張り出せて、敵が攻めてきた時に床板を開け、そこから石を落としたりして攻撃するためのものです。

 

 

 

天主閣から見た眺め              ▼二の丸の御殿

 

御殿の概略図

御殿(国指定重要文化財)

  御殿は、儀式、公式な対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と城主の公邸が連結した建物です

 

              ▼御書院上の間

 

2015/01/07 訪城

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掛川城の戦い 永禄11年(1568年)

  徳川家康と武田信玄が今川領分割の密約によって、徳川家康が遠江侵攻。今川氏真、北条氏を頼り掛川城から伊豆へ退去。今川氏滅亡。

二宮金次郎   (1787年~1856年)

「勤労」、「分度(倹)」,「推護」を人々に勧めた。

 勤労とは徳に報いるために働く

 分度とは、収入の範囲内で支出を定めること。

 推護とは、勤労、分度をして、たまった物を将来のために残したり、人に及ぼしたりする事。

JR掛川駅前広場の二宮金次郎の像