nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

慰安婦強制連行は虚構・・・米国人ジャーナリスト 「韓国は中国の操り人形」

2015年01月31日 | 慰安婦関連ニユース

[河村直哉の国論] 

慰安婦強制連行は虚構・・・米国人ジャーナリスト「韓国は中国の操り人形」中国オウンゴール、米公文書に証拠なし

慰安婦問題を調査し、20万人強制連行説は虚構と主張するアメリカのジャーナリスト、マイケル・ヨン氏が、日本の媒体に相次いで登場している。

850万ページ・・・米文書に「奴隷化」見つからず

ヨン氏は、2007年にまとめられた「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」など、さまざまな資料を調査。IWGは2000年に始まり、アメリカ各省庁の文書850万ページが対象になった。調査するよう働きかけたのは、在米の反目的な中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」。ところが慰安婦の「奴隷化」を裏付けるような文書は一つも見つからなかった。

昨年11月、日本で最初にこのことを報じた古森義久・産経新聞ワシントン駐在客員特派員とヨン氏が、「Voice」2月号で対談している 

                 (http://www.php.co.jp/magazine/voice/)

 「日本軍が20万人のアジア女性を強制連行して性的奴隷にした」という主張はまったく根も葉もない幻だった。」と、ヨン氏は明快だ。

 女性を強制連行するなら拘束して輸送し食事も与えなければならないが、戦闘中の軍隊がそんなことをするか。故吉田精治が書いたような強制連行を済州島でしていたら目撃証言が残るはずだし、なぜ大規模な反乱がおきなかったのか。アメリカ戦時情報局の報告書には日本の将軍の平均年収が6600円の時代に慰安婦のそれは9000円だったとかいてある・・等々、ヨン氏は「強制連行」の虚構を斬っていく。アメリカ人がこのように公平に資料を見て、発信しようとしていることの意味は大きい。慰安婦問題の主戦場の一つはアメリカになっているからである。

孫子の兵法 「戦わずして」「走狗として」韓国を利用する中国

 ヨン氏の指摘で興味深いのは、慰安婦問題の背景に中国の存在を見ていることだ。「本当の主役は韓国でありません。慰安婦問題を地政学的、政治的問題の道具として利用しているのは中国です。いわば韓国は、中国の操り人形として利用されているだけなのです」。対談でこれまた明快にヨン氏はそう述べている。

 ほか、ヨン氏は、「ザ・リバティ」2月号のインタビューでも、「中国は歴史問題を使って、アメリカ、日本、韓国の仲を割り、協力しないようにしています。これは巨大な情報戦・諜報戦なのです」としている。

 こうした見解には筆者も同意見である。過去、何度か書いたことだが、中国には古典兵法以来の謀略の伝統がある。思考様式といってもよい。はかりごとにより敵を追い込む世論を作り、心理的に士気をくじき、戦わないで勝つことが、最上なのである。「兵とは詭道(きどう)なり」「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」とはすでに「孫子」にある。

 中国は歴史問題で韓国を走狗(そうく)として使ってきたといってよい。2年前、朴僅恵政権が発足する直前に中国はソウルに特使を送り、「中韓が(歴史問題で)はっきりとした態度を取り、立場を示さなければならない」などと、歴史問題での共闘を呼びかけた。韓国はけたたましく反日に走ったが、中国はしばらく静かに構えていた。大国に事(つか)える事大主義の伝統を持ち、反日をいわば国是とする韓国を、うまく使ってきたのである。

 自由主義国である韓国と日本が離反して都合がよいのはどの国か。共産主義国にほかならない。だが韓国にはそれが見えていない。さらにアメリカでも、歴史問題を反日世論を広めている中心は、先述の「世界抗日戦争史実維護連合会」という中国系組織である。日米韓を離反させようとする中国の思感を、日米韓の敏感な人間は読み取るべきなのだ。「親にしてこれを離す」、つまり敵が親しみあっているときはこれを分裂させる、ということも、「孫子」に書かれている。

「極左・反日・売国の朝日新聞は深刻な問題をもたらした

日本では、慰安婦についての報道で誤った事実を広め国民に名誉を傷つけたとして、史上最大の原告者約2万5千人以上が朝日新聞に謝罪広告などを求める集団訴訟起こした。 

  ■□■朝日新聞を糺す国民会議」■□■

(http://www.asahi-tadasukai.jp/)

 

訴訟とは関係ないが、ヨン氏は、「Voice」でこうも言っている。「「朝日新聞」は全世界を騙(だま)して、日本に深刻な問題をもたらしたままです。その通りだろう。さらにいえば、日本人が日本の中の左傾勢力の言い分などにごまかされず背筋を伸ばしていくことも、大切である。  (大阪正論室長)

                                                    ソース:産経ニュース


山背古道①

2015年01月28日 | 文化・歴史散策

2015/01/27 山背古道①[木津の旧街道から三角緑神獣鏡32面出土の椿井大塚山古墳へ]のハイキングに行ってきました。

[ハイキングコース]JR京都線・木津駅下車・・・大智寺・・・椿井大塚山古墳・・・湧出宮・・・橘諸兄公旧跡・・・井堤寺跡・・・JR京都線・玉水駅

JR木津駅         ▼大智寺

 

大智寺概要

木津川          ▼泉橋寺

 

泉橋寺概要

 泉橋寺は、別名「橋寺」とも言われ、行基が5畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)に造営した四十九院のひとつである。

泉橋寺の石造地蔵菩薩坐像

 石造地蔵菩薩坐像は、鎌倉時代に造られたもので、高さは約4.58m.丸彫りの石仏としては、日本一の大きさを誇っている。

          椿井大塚山古墳

                  築造期は3世紀末で、山城地方最大の前方後円墳である

 

湧出宮

  中世以来続く一連の宮座行事は、国の重要文化財に指定されています。

 

             拝殿・本殿

 

蟹満寺

 今昔物語集等に記載がある蟹の恩返しの伝承で有名である

 

              橘諸兄公旧跡

 

橘諸兄公  (684年~757年)

井堤寺跡

 橘諸兄が建立した寺院。東西南北とも約160mの規模を誇り,塔や金堂を中心に法隆寺式七堂伽藍の整った大きな寺院であった。

井堤寺跡        ▼井堤寺概略図

 


飯盛山城(別名:飯盛城)

2015年01月19日 | 大阪府の城郭・環濠

 河内と大和の間には、生駒山脈が南北に走り、これが国境になっている。飯盛山城は、その生駒山脈の北西支派に位置している飯盛山(標高約341m)に築かれた山城です。南北朝時代も四条畷合戦のさいに陣所として利用されたが、本格的な築城は戦国時代になってからである。天文年間に河内守護畠山義宣の家臣で守護代の木沢長政によってなされた。亨禄4年(1532年)木沢長政は主君の畠山義宣を裏切り、敵対関係の細川晴元につき、飯盛山城に籠城している。永禄3年(1560年)11月13日には、畠山高政の家臣で河内守護代の安見直政を城から追い払い、三好長慶が飯盛山城に入城した。この時から三好長慶は、大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になった。三好長慶は、飯盛山城、芥川城、高屋城と共に、畿内に勢力を拡大しようとした矢先に、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義輿が22歳で急死,ついで永禄7年(1664年)、実弟の安宅(あたぎ)冬康を自殺させると三好長慶自身も病にかかりまもなく病没。その後、三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めたが、織田信長の摂津、河内平定が行われると三好三人衆も織田の軍門に下り、河内・飯盛山城は、畠山昭高の所有となった。遊佐信教の反乱によって畠山昭高が殺害されると、織田信長の攻撃で遊佐信教は殺害され、天正4年1576年)に落城し、その後、廃城となった。峻嶮な山頂には、累々と70以上の曲輪が築かれ,所々に石垣が残っています。

[所在地:大阪府四条畷市・大東市]

アクセス>JR学研都市線・四条畷駅又は野崎駅下車徒歩約60分

飯盛山城址概略図

楠公寺の概略(飯盛山城の馬場跡に立つ楠公寺)

楠公寺(日蓮宗)

 

桜池

 

本丸跡          ▼飯盛山山頂 ▼飯盛山城址碑

   

本丸跡に建つ楠木正行の銅像

 

曲輪下にある石垣

 

曲輪下にある石垣

 

本丸跡からの眺め(中央はアベノハルカス)本丸跡からの眺め

 

2015/01/18 訪城

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四条畷の戦  貞和4年(1348年)

 北朝方の幕府軍(高師直)60,000騎で、本格的な楠木正行討伐を開始する。楠木正行は、3,000騎で四条畷で戦い戦死する。

飯盛山城の戦  天文元年(1532年)

 河内を巡る主導権争いで、守護代の木沢長政が守護の畠山義宣から守護職を奪い取る企てが発覚したことにより、畠山義宣は、三好元長の一族の三好勝宗の援軍で飯盛山を攻めたが、木沢長政からの援軍要請を受けた細川晴元によっての撤兵命令で三好勝宗は一旦兵を収めたが、翌年態勢を整えた畠山義宣、三好元長、三好勝宗で、飯盛山城を再攻、木沢長政も再び細川晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除できなかったので、細川晴元は、山科本願寺の法主証如に攻囲軍の畠山・三好軍の背後で一揆の蜂起を要請。このため三好元長、三好勝宗は討ち取られ、畠山義宣は自害。


四天王寺どやどや

2015年01月15日 | 文化・歴史散策

2015/01/14  大阪市天王寺区の四天王寺・六時堂での修正会結願法要どやどや(通称:どやどや)に行ってきました。

アクセス>JR環状線・天王寺駅下車北へ徒歩10分

四天王寺

 

四天王寺境内図

最初は、保育園児・幼稚園児です

  

 

二番目は、四天王寺羽曳が丘中高校生です。

 

 

 

お札取りは、赤組(今宮村)の勝ち、白組(天王寺村)の負けでした。

 

最後は、清風中高校生と清風南海中高生です。

 

 

 

 

お札取りは、白組の勝ち、赤組の負けでした。

 

白組退場         ▼赤組退場

 

 今年も、1/1~1/14の修正会は無事に終わりました。


浜松城

2015年01月08日 | 静岡県の城郭・環濠

  浜松城は、三方ケ原台地の東南端に築かれた平山城です。今川氏滅亡後、遠江を平定した徳川家康は、元亀元年(1570年),武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河から遠江へ移し、引馬城に入り新城の築城を開始する。この年の9月は普請も完了し、浜松城と名付け入城した。元亀3年(1573年),武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして徳川家康を挑発。挑発された徳川家康は浜松城から打って出たが、武田信玄に三方ケ原で大敗を喫した徳川家康は命からがら浜松城に逃げ込んだ(三方ケ原の戦い)。天正14年(1586年),徳川家康が駿府に本拠を移すと家臣の菅沼定政が城を預かる。徳川家康の関東移封後は、豊臣秀吉の家臣掘尾吉晴が入城したが関ヶ原の功績により出雲松江に移封となり、以後江戸時代は徳川譜代大名が交代で入城し、幕閣への登竜門[出世城]として意識された。浜松城は、明治維新後に廃城となり破壊された。城跡は、「浜松城公園」となり、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート制の復興天守閣が再建された。そして、昭和34年(1959年)には浜松市の史跡に指定された。

[所在地:静岡県浜松市中区元城町100-2]

<アクセス>JR浜松駅からタクシーで5分。又は

      JR浜松駅バスターミナルから遠江バスで市役所前下車徒歩約1分。

徳川家康の概説

              ▼天守門

 

                                                  ▼天守門

 

                ▼天守閣

 

浜松城の石垣(野面積み)

  浜松城の石垣は、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。表面にすき間があり、一見崩れやすいように見えますが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固です。浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の圭岩で浜名湖や佐鳴湖など水路を使って運ばれました。江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、現存する石垣としては、彦根城、竹田城、そして安土城にも用いられていたといわれています。

                                                  

 

城郭の全容

 

天守閣

天守閣からの眺め

 

本丸跡              ▼本丸跡に立つ徳川家康の像

 

徳川秀忠誕生の井戸 (遠江鉄道・遠州病院前駅から徒歩1分)

 

徳川家康の散歩道・・・・・ハイキングコースになっています。

2015/01/07 訪城

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三方ケ原の戦  元亀3年(1572年)

  武田信玄の徳川領侵攻で、徳川家康が、浜松城から打って出て戦った戦。武田信玄(25,000騎)は、魚隣の陣で、徳川家康(11,000騎)は鶴翼の陣で対峙。徳川家康軍撃破される。

浜松の百姓一揆  弘化3年(1846年)

  水野忠邦から家督を相続した嫡子忠清、出羽山形へ移封。この時、領民からの借上金を返済しなかったために一揆が起こる。

夏目吉信  (1518年~1572年)

  永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆方に加担。のち徳川家康に許され再出仕。元亀3年(1571年)の三方ヶ原の戦いの時、幡豆郡六栗城主だった夏目吉信は、敗勢の中で決死の突撃をはやる徳川家康に、退去をすすめました。夏目吉信は、徳川家康が肯かないとみると、刀の棟で乗馬の尻を叩き、浜松の城へ向けて疾駆させた。そして、自らは寡兵を率いて敵中に入り、家康の名を大音声に呼ばわりつつ、ついに身代わりとなって討ち死にした。

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<徳川家康の問題>

[1] 慶長8年(1603年)将軍に任じられた徳川家康は、拝賀のため朝廷に参内した。このとき家康は初めて土田孫三郎を伴って行ったが、この土田家以来、公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)という役職を世襲した。どんな役だったか。

     ①洗面・うがい用の水を用意する役。

     ②旅先での毒味役。

     ③儀式のときの小便器持ち。

[2] 徳川家康が三河で小勢力だったころ,近習の者が盛った飯のことでひどく怒った。どんな飯だったのか。

     ①麦飯の下に白米飯が入っていた。

     ②麦だけの飯だった。

     ③籾が付いたままの飯だった。

[3] 徳川家康が即刻切腹を命じたその男との因縁は?

     ①三河の譜代の家柄なのに武田に転職していた。

     ②駿府で人質だったころイジメられた。

     ③長男信康が信玄と密通したとされたときの武田側の窓口だった。

[4] 三方ケ原から逃げ帰った家康はどんな様子だったか?

     ①甲冑を後ろ前に着けていた。

     ②下半身がふんどしだけだった。

     ③クソを垂れ流していた。

 

[解答]

[1]③

[2]①

[3]②

[4]③


掛川城

2015年01月08日 | 静岡県の城郭・環濠

  掛川城は逆川沿いの小高い丘に位置する平山城。戦国時代の明応6年(1497年)~文亀元年(1501年),駿河の守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕によって築かれた。桶狭間の戦(1560年)で、今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568年),今川氏真は武田勢の侵攻を受け、歴代の本拠である駿府今川館を失うと、掛川城へ逃亡した。翌年の永禄12年(1569年)掛川城は、徳川家康に攻められ孤立無援の状態となったことから、今川氏真は、降伏を決意し開城しました。ここに今川家は滅亡した。

 徳川家康領有後、重臣石川家成が甲斐の武田氏の侵攻を防ぎました。天正18年(1590年)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東に移し、徳川家康旧領地には豊臣秀吉配下の大名を配置し、掛川城には、山内一豊が51,000石(のち59,000石)の大名として入りました。山内一豊は、多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて3層の天主閣をつくりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦の後、山内一豊は土佐一国を与えられ高知城に移っていきました。

 江戸時代には、徳川親藩の松平氏や江戸城を築いた太田道灌の子孫太田氏等11の大名家の居城として栄え、明治維新まで続きました。明治以降は、廃城令によって大半の遺構が撤去されたが、平成6年(1994年),掛川市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造工法の天守閣が復元された。幕末に再建された二の丸御殿(重要文化財)が現存する。

[所在地:静岡県掛川市掛川1138-24]

<アクセス>JR東海道本線・新幹線、掛川駅下車北へ徒歩約10分

太鼓櫓(右)と天守閣(左)         ▼復元された城門

 

太鼓櫓          ▼本丸から見た天守閣

                            

 

天守閣                                    ▼天守閣の構造

                              

狭間(さま)        

 城郭内の建物塀に設けられ、内側から鉄砲や弓矢で敵を攻撃するための穴で、掛川城天守閣では、一階に9ケ所、二階に14ケ所ありました。                                 

 

石落とし

 一階の床の一部を石垣の上に張り出せて、敵が攻めてきた時に床板を開け、そこから石を落としたりして攻撃するためのものです。

 

 

 

天主閣から見た眺め              ▼二の丸の御殿

 

御殿の概略図

御殿(国指定重要文化財)

  御殿は、儀式、公式な対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と城主の公邸が連結した建物です

 

              ▼御書院上の間

 

2015/01/07 訪城

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掛川城の戦い 永禄11年(1568年)

  徳川家康と武田信玄が今川領分割の密約によって、徳川家康が遠江侵攻。今川氏真、北条氏を頼り掛川城から伊豆へ退去。今川氏滅亡。

二宮金次郎   (1787年~1856年)

「勤労」、「分度(倹)」,「推護」を人々に勧めた。

 勤労とは徳に報いるために働く

 分度とは、収入の範囲内で支出を定めること。

 推護とは、勤労、分度をして、たまった物を将来のために残したり、人に及ぼしたりする事。

JR掛川駅前広場の二宮金次郎の像