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nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

高天神城

2025年02月23日 | 静岡県の城郭・環濠

 高天神城は、高さ132mの高天神山にある二つの峰に、切岸や横堀を構えた堅固な山城である。室町時代に今川氏が遠江侵攻の拠点として築いた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、小笠原氏興は高天神城に逃れる。永禄3年(1560年)、今川氏から独立した徳川家康はに遠江へ侵攻し小笠原信興(氏興の子)を寝返らせ徳川氏に臣従させると高天神城は徳川氏の城となる。

 元亀2年(1571年)、武田信玄の家臣の内藤昌豊が2万5000の兵で高天神城を包囲するが小笠原信興は武田軍を退ける。

   天正2年(1574年)5月12日、第一次高天神城の戦いで武田勝頼は城を2万5000の兵で包囲。約1か月に及んだ戦いの末、6月17日、ついに小笠原信興を降伏に追い込んだ。武田信玄が成しえなかった攻略に成功する。城番として横田尹松を配置。天正3年(1575年)、長篠・設楽原の戦いで武田氏は完敗。武田勝頼は横田尹松に命じ天神城を拡張する。また、戦上手な岡部元信が派遣され城番を交代した。

 徳川家康は、高天神城は要害堅固な山城なので、力攻めで短時間に落とすのは難しいと考え、天正4年(1576年)に、対の城として横須賀城を築かせ、大須賀康高を城番にした。また、高天神城の周り包囲する砦として小笠山砦(石川康通隊250人)が一番早く、そのあと、天正7(1579年)から翌年にかけて、獅子ケ鼻砦(大須賀康高隊250人)・中村砦(大須賀康高隊250人)・能ケ坂砦(本田康重500人)・火ケ嶺砦(大須賀康高隊250人)・三井山砦(酒井重忠隊250人)の5つが築かれ、合わせて『高天神六砦』と言われている。こうして、兵糧攻めで高天神城を落とそうと、城外から兵糧。弾薬の城内への運び込みを阻止する作戦に出た。

 天正8年(1580年)7月19日からの第二次高天神城の戦いでは、さらに徳川家康本体が9000の兵で高天神城を包囲。何か月にも及ぶ兵糧攻めで城内も兵が餓死し岡部元信も討死。武田勝頼に報告に向かった元城番の横田尹松を除いて全員命を落としたとされる。天正9年(1581年)3月22日、落城を機に高天神城は廃城となった。昭和50年(1975年)、高天神城は国の史跡に指定される。

【所在地:静岡県掛川市上土方嶺向3136外】

アクセス>JR掛川駅北口3番乗り場から静電ジャストライン・掛川大東浜岡線『浜岡営業  所行き』又は『大東支所行き』で『土方』下車、徒歩15分。

      JR掛川駅南口タクシー乗り場よりタクシーで約20分。

高天神城縄張図

高天神城入口       ▼土塁跡

 追手門の方から登城する。

三の丸          ▼三の丸

 武田勢による攻撃の際、小笠原与左衛門が三の丸の大将で城兵250人を従え守備していたことから小笠原与左衛門曲輪とも呼ばれる。

 

▼土塁           ▼御前曲輪・本丸へ

御前曲輪         ▼高天神城

    

本丸           ▼本丸

 東峯の最高所にあり、周囲を土塁を巡らし、御前曲輪・腰曲輪・的場曲輪などの曲輪で守りを固めている。

大河内政局石牢道入口   ▼大河内政局石牢(石牢)

 天正2年(1574年)、武田勢の攻撃による落城の際、徳川方の大河内政局が武田の軍門に下らなかったため激怒した武田勝頼が大河内政局を幽閉した石牢。

西の丸          ▼西の丸からの眺め

甚五郎抜け道の説明    ▼甚五郎抜け道(犬戻り・猿戻り)

 天正9年(1581年)、徳川勢の攻撃による落城の際、武田方の横田尹松が脱出した西峰の馬場平から東へ延びた尾根道。犬や猿も恐れを成して戻ってくるほど険しい尾根道。以後、『甚五郎抜け道』と呼ばれるようになった。

搦手門跡

 城山の南にある入り口。

2025/2/8 訪城


諏訪原城

2025年02月20日 | 静岡県の城郭・環濠

 天正元年(1573年)、遠江侵攻を目指す武田勝頼は、馬場信春に命じて遠江中部の要衝・高天神城攻めの陣城及び、徳川方の久野城・掛川城の牽制を目的に、大井川西岸の牧之原台地上に城を築きました。城内に諏訪大明神を祀ったことから、諏訪原城の名がついたと言われています。

 天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍が壊滅的な敗北を喫すると、徳川家康によって攻め落とされたのち、牧野城と改名され、巨大な馬出を増設、大手曲輪を拡張などの大改修を行い、駿河侵攻の前線基地とした。

 天正9年(1581年)、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡すると、この城の必要性は無くなり、その後、徳川家康の関東入国にともない天正18年(1590年)頃廃城となった。昭和50年(1975年)、諏訪原城は国の指定史跡となる。

【所在地:静岡県島田市菊川】

アクセス>JR東海道本線金谷駅下車 徒歩約25分

諏訪原城の縄割図

諏訪原城碑        ▼二の曲輪中馬出

二の曲輪北馬出      ▼二の曲輪

外堀           ▼家康時代の諏訪原城

2025/2/8 訪城


古宮城

2025年02月18日 | 愛知県の城郭・環濠

 古宮城は、武田信玄が三河進出の拠点とするため、三河国の北東山間部の作手盆地のほぼ中央部の小丘陵に、馬場信春に命じて、元亀2年(1571年)に堀と土塁で極めて巧みに構築された城を築城した。

 しかし、天正3年(1575年)の長篠の戦いの敗北で武田氏の勢力が著しく減退すると古宮城は廃城になったと思われる。

【所在地:愛知県新城市作手清岳字宮山】

アクセス>JR新城駅から車で約25分

古宮城縄張図

 城は東西約250m、南北200mで比高差は25mを測る独立丘陵地に所在している。

古宮城の説明板       ▼白鳥神社

主郭(東地区)        ▼土塁

 櫓台                                    ▼副郭(馬出)を囲む土塁

虎口            ▼土塁

 

             ▼主郭(西地区)・丸馬出

2025/2/8 訪城


横須賀城

2025年02月17日 | 静岡県の城郭・環濠

 天正3年(1575年)の長篠の戦いの敗北で武田氏の勢力が衰えたのを見て、徳川家康は高天神城攻略のための拠点として大須賀康高に奪還作戦の拠点となる城を築くよう命じた。こうして天正6年(1578年)に築かれたのが横須賀城です。

 天正9年(1581年)高天神城は落城した。高天神城攻略後はそのまま大須賀康高氏の居城となった。その後豊臣氏の家臣が城主となった織豊期に大改修がなされた。その後横須賀城は、幕末まで存続した。現在、国指定史跡の横須賀城跡公園になっています。

【所在地:静岡県掛川市西大渕4226

アクセス>JR東海道本線・袋井駅からバス20分『西田町バス停』下車 徒歩6分。

横須賀城縄張図

本丸南東部の高石垣

本丸南東部の高石垣

 天竜川より運ばれた丸い河原石を積み上げた石垣。

横須賀城碑            天守跡

2025/2/7訪城