高天神城は、高さ132mの高天神山にある二つの峰に、切岸や横堀を構えた堅固な山城である。室町時代に今川氏が遠江侵攻の拠点として築いた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、小笠原氏興は高天神城に逃れる。永禄3年(1560年)、今川氏から独立した徳川家康はに遠江へ侵攻し小笠原信興(氏興の子)を寝返らせ徳川氏に臣従させると高天神城は徳川氏の城となる。
元亀2年(1571年)、武田信玄の家臣の内藤昌豊が2万5000の兵で高天神城を包囲するが小笠原信興は武田軍を退ける。
天正2年(1574年)5月12日、第一次高天神城の戦いで武田勝頼は城を2万5000の兵で包囲。約1か月に及んだ戦いの末、6月17日、ついに小笠原信興を降伏に追い込んだ。武田信玄が成しえなかった攻略に成功する。城番として横田尹松を配置。天正3年(1575年)、長篠・設楽原の戦いで武田氏は完敗。武田勝頼は横田尹松に命じ天神城を拡張する。また、戦上手な岡部元信が派遣され城番を交代した。
徳川家康は、高天神城は要害堅固な山城なので、力攻めで短時間に落とすのは難しいと考え、天正4年(1576年)に、対の城として横須賀城を築かせ、大須賀康高を城番にした。また、高天神城の周り包囲する砦として小笠山砦(石川康通隊250人)が一番早く、そのあと、天正7(1579年)から翌年にかけて、獅子ケ鼻砦(大須賀康高隊250人)・中村砦(大須賀康高隊250人)・能ケ坂砦(本田康重500人)・火ケ嶺砦(大須賀康高隊250人)・三井山砦(酒井重忠隊250人)の5つが築かれ、合わせて『高天神六砦』と言われている。こうして、兵糧攻めで高天神城を落とそうと、城外から兵糧。弾薬の城内への運び込みを阻止する作戦に出た。
天正8年(1580年)7月19日からの第二次高天神城の戦いでは、さらに徳川家康本体が9000の兵で高天神城を包囲。何か月にも及ぶ兵糧攻めで城内も兵が餓死し岡部元信も討死。武田勝頼に報告に向かった元城番の横田尹松を除いて全員命を落としたとされる。天正9年(1581年)3月22日、落城を機に高天神城は廃城となった。昭和50年(1975年)、高天神城は国の史跡に指定される。
【所在地:静岡県掛川市上土方嶺向3136外】
<アクセス>JR掛川駅北口3番乗り場から静電ジャストライン・掛川大東浜岡線『浜岡営業 所行き』又は『大東支所行き』で『土方』下車、徒歩15分。
JR掛川駅南口タクシー乗り場よりタクシーで約20分。
▼高天神城縄張図
▼高天神城入口 ▼土塁跡
追手門の方から登城する。
▼三の丸 ▼三の丸
武田勢による攻撃の際、小笠原与左衛門が三の丸の大将で城兵250人を従え守備していたことから小笠原与左衛門曲輪とも呼ばれる。
▼土塁 ▼御前曲輪・本丸へ
▼御前曲輪 ▼高天神城碑
▼本丸 ▼本丸
東峯の最高所にあり、周囲を土塁を巡らし、御前曲輪・腰曲輪・的場曲輪などの曲輪で守りを固めている。
▼大河内政局石牢道入口 ▼大河内政局石牢(石牢)
天正2年(1574年)、武田勢の攻撃による落城の際、徳川方の大河内政局が武田の軍門に下らなかったため激怒した武田勝頼が大河内政局を幽閉した石牢。
▼西の丸 ▼西の丸からの眺め
▼甚五郎抜け道の説明 ▼甚五郎抜け道(犬戻り・猿戻り)
天正9年(1581年)、徳川勢の攻撃による落城の際、武田方の横田尹松が脱出した西峰の馬場平から東へ延びた尾根道。犬や猿も恐れを成して戻ってくるほど険しい尾根道。以後、『甚五郎抜け道』と呼ばれるようになった。
▼搦手門跡
城山の南にある入り口。
2025/2/8 訪城