nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

小諸城

2024年04月14日 | 長野県の城郭・環濠

 「小諸」は、もとは「小室」であった。平安時代末期、源平争乱の際に源義仲の挙兵に従った武将の一人に小室光兼という信濃の小豪族がいた。小室光兼はのちに源頼朝に仕え、この地に宇頭坂城を築く。これが小諸城の起源とされている。いっぽう、信濃源氏の小笠原氏の流れを汲む大井氏は承久3年(1221年)、鎌倉幕府と朝廷の戦である『承久の乱』の戦功で信濃佐久郡大井庄の地頭に任じられた。その後、南北朝時代になると小室氏は衰退し、大井氏が室町時代前半に関東甲信越地方で起こった数々の戦乱に生き残り、勢力を拡大していったが、最後は小県郡の村上氏に敗れて従属することとなる。

 長享元年(1487年)、大井光忠は勝手の宇頭坂城跡を整備して鍋蓋城を築いた。その後、大井光忠の子満為の代では出城として乙女坂城が築かれた。そして天文12年(1543年)、武田信玄がこれを攻略したのである。天文23年(1554年)、鍋蓋城や乙女坂城の跡を取り込んで整備し、信濃侵攻の拠点として小諸城を築き、武田氏の城代が入った。

 天正10年(1582年)に織田信長・徳川家康の連合軍が甲斐へ侵攻。小諸城は武田滅亡後は織田軍団の滝川一益、本能寺の変後は徳川家康の支配下に入るが、豊臣秀吉の天下統一後は仙石秀久が小諸城主となった。

 元禄15年(1702年)越後より牧野康重が入ると牧野氏の城主は10代続き、明治維新を迎えるまで牧野氏の居城となりましたが、維新後は廃城となり、明治13年(1880年)に小諸城跡は市民公園『懐古園』として整備された。

【所在地:長野県小諸市丁311】

アクセス>JR小諸駅から徒歩約5分

小諸城概略図

 小諸城は、三の丸及びその東側の城下町の標高が高く、西側の本丸に向かって低くなっている。                                                  

▼三の門(国の重要文化財

 三の門は、明和2年(1765年)に再建された寄棟造の櫓門。

二の丸                                                    ▼南の丸

黒門橋               ▼本丸

本丸                                                        懐古神社   

天守台の石垣    

石垣は、穏やかな傾斜で自然石を積み上げた野面積。          

天守台の石垣                                       天守台で咲く桜

 

水の手展望台            ▼水の手展望台

小諸城の『水の手展望台』から望む千曲川

 眼下は崖になっており、ここと南西端の富士見展望台が周辺が小諸城の最後部である。

藤村詩碑              ▼大ケヤキと藤村記念館(後方の建物)

 2024/4/9訪城


松本城

2024年04月12日 | 長野県の城郭・環濠

 信濃守護小笠原氏の本城を守る支城の一つとして築いた深志城は、天文19年(1550年)甲斐の武田信玄が信濃府中に進出し、守護小笠原氏を駆逐。武田信玄は信濃経営の拠点とすべく深志城を大改修した。天正10年(1582年)武田氏が滅亡。そのすぐ後の本能寺の変による動乱の虚に乗じて小笠原貞慶が再び入城して松本城に名を変えた。後、天正18年(1590年)、徳川家康の関東入国にともない、松本城の小笠原氏が徳川家康に従って下総へ移ると、豊臣配下の石川数正が信濃松本8万石を与えられ入国する。石川数正は、中山道と北信濃全域を押さえる役目を担うにふさわしい城にするため、天守を始めとする城の大修築を行った。石川数正・康長の2代にわたる築城工事により石垣・天守を持つ近世城郭が完成した。天守が現存する城のうち、唯一の平城で、天守の建つ本丸を二の丸・三の丸が囲み、水堀で分けられている。

【所在地:長野県松本市丸の内-1】

アクセス>JR松本駅から徒歩約20分

松本城案内図

復元された枡形門と櫓   太鼓門の高麗門

                   高麗門の間口は櫓門と比べて狭く、土橋と

                   あせて一度に多くの軍勢の侵入を防ぐ。

黒門(太鼓門の櫓門)    ▼鉄砲狭間・矢狭間

                   厚い塀壁には鉄砲狭間・矢狭間が張り巡ら

                   されている

天守東面

昭和27年(1952年)、天守国宝に指定される。

左から、五重六階の天守(高さ29.4m)辰巳附櫓(高さ14.7m)・月見櫓(高さ11.1m)が連なっている。

五重六階の天守への入口である大手口に渡櫓(高さ12.0m)。渡櫓の右に乾小天守(高さ16.8m)

石落と狭間          石落と狭間

厚い壁には石落と鉄砲狭間・矢狭間が張り巡らされています。

天守南東面

本丸の桜

天守南面

天守南西面

松本城保存の功労者

  明治4年(1871年)廃藩置県。明治政府の財政難のため、全国の城の取り壊しが始まる。

明治5年(1872年)松本城天守が競売にかけられる。この時、松本市出身の市川量造らは

天守の解体に反対して保存活動を行い資金(235両余)を集め、売却された天守を買い戻す

ことに成功した。しかし、その後天守の老朽化が進み、建物が傾くまでになってしまった。

 この時も市民が立ち上がった。明治34年(1901年)旧制松本中学校の校長小林有也らは

『松本天守保存会』を結成して、明治36年(1903年)から11年かけて天守の大修理工事を行い、

天守の倒壊の危機から救っている。

2024/4/8訪城


上田城

2015年04月20日 | 長野県の城郭・環濠

 小県郡の一土豪であった真田氏は、真田昌幸の代に勢力を拡大し、上田へ進出した。そして、東海道の保福寺峠道と北国街道が合流する交通の要衝で、街道を押さえる目的で千曲川の分流である尼ケ淵に面した要害の地に、天正11年(1583年)に上田城を完成させた。天正13年(1585年),上田城を攻略に来た徳川軍7000騎を撃退している(第1次上田城の戦)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の時、西軍についた真田昌幸は上田城に籠城して、徳川秀忠率いる38,000騎の大軍の西上を阻止(第2次上田城の戦)。徳川秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。しかし、関ヶ原で西軍が敗北したために、真田昌幸・幸村父子は、高野山に謹慎となり、城は、徳川方の手によって、徹底的に破壊された。東軍についた真田昌幸の長男・真田信之も、元和8年(1622年)松代藩へ転封。かわって入封した仙石忠政によって、城は、現在の姿に復興された。仙石氏3代の後は松平(藤井)忠周が入封し、幕末まで7代続いた。明治維新の廃城令で建物や土地は民間に払い下げられ、本丸に7基あった櫓は、一つを城内に残して売却された。しかし、復元をめざす市民によって昭和24年(1949年),現在の北櫓と南櫓として移築復元された。現在、本丸に3基の櫓が残る上田城址は、国史跡である。

[所在地:長野県上田市二の丸]

アクセス>JR上田駅から徒歩約12分

本丸南西隅にある、城内唯一創建当時から建ち続ける西櫓。

上田城略図

二の丸橋

堀跡

 

上田城三櫓の概要

復元された本丸東虎口櫓門(中央の建物)

 昭和24年(1949年)に移築復元された北櫓(左の建物)と南櫓(右の建物)。

 平成6年(1994年)に木造復元された櫓門(中央の建物)。櫓門と南櫓・北櫓を接続する土塀も復元整備されています。

南櫓

櫓門

北櫓

土塀           ▼石落とし

 

真田神社の概要

真田神社

 

西櫓

真田井戸

 

2015/04/16 訪城

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第1次上田城の戦   天正13年(1585年)8月~11月

 天正10年(1582年)9月から、真田昌幸は徳川家康に属し、上野で北条氏と戦っていた。ところが、徳川家康が天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦に際し、豊臣秀吉との対抗上,北条氏との連携を強化することになり、講和条件として、徳川 家康から「上州沼田領を北条氏へ引き渡せ」の命令があった。真田昌幸は「上州沼田領は、徳川家康からもらったものではない」と突っぱね、徳川家康を離れ徳川家康と敵対関係にある越後の上杉景勝についたのである。真田昌幸の離反で徳川家康は怒り、家臣に真田昌幸討伐を命じたのである。徳川軍約7000騎が、領民を含めて2000騎弱で籠城する上田城を攻めたが、真田軍の智略と領民の総力戦で徳川軍1300騎余りの死者を出し敗北。真田の死者は雑兵を含め41名であった。11月に入り、徳川家康の家臣の石川数正が豊臣秀吉に引き抜かれ,出奔してしまったので上田城にかまっていられないので、徳川家康から鳥居元忠に撤退命令が出て,全軍浜松城に引き揚げたのである。

第2次上田城の戦   慶長5年(1600年)9月5日~8日

 石田三成の挙兵をうけ徳川家康は、慶長5年(1600年)7月25日,下野小山で小山評定を開いた。その結果、会津の上杉攻めを中止し、徳川家康は東海道経由で畿内へ向かうことになり、徳川秀忠は中山道経由で畿内へ向かうことになった。この時徳川秀忠に従ったのは徳川本隊の38,000騎である。小山評定のあと、徳川秀忠は、上杉軍の出方をうかがっていたが、上杉軍が攻撃を仕掛けてくる気配がないと見届け、結城秀康の兵を上杉の押さえに残し、8月24日宇都宮の陣を引き払ったのである。そのころ、上田城の真田昌幸・幸村父子が西軍の石田三成方についたとの情報が入り、徳川秀忠は、寄り道を承知で、領民含め僅か1500騎で守る上田城を攻めたのである。しかし真田軍の智略と謀略で城を何回も攻めたが攻め落とすことはできず、最後は、遠くから城を包囲するだけであった。9月8日、仙石秀久等の兵を上田城の押さえとして残し、徳川秀忠軍は、畿内へ向かったのである。しかし関ヶ原での戦には間に合わなかったのである。


高遠城

2015年04月18日 | 長野県の城郭・環濠

   高遠城は、三峰(みぶ)川と藤沢川に削られた河岸段丘上の突端に位置する平山城です。天文16年(1547年),信濃に侵攻した武田信玄が伊那谷における拠点とすべく築城し、縄張は山本勘助によったとの伝承が残っています。天正10年(1582年),織田信長の甲州せめでは、織田信忠率いる軍勢が高遠城に殺到した。城主の仁科盛信(武田信玄の五男)は、譜代の重臣や一族までもが武田家を見限る中、兄・武田勝頼に尽くすため、降伏勧告を無視し、城を枕にして壮烈な討ち死にを遂げた。江戸時代には、保科氏・鳥居氏を経て元禄4年(1691年),内藤氏が、3.3万石で入封し、内藤氏が、明治維新まで続いた。明治の廃城令で城内の建物は、民間に払い下げられましたが、旧藩士らの手によって「桜の馬場」から桜が約1500本移植され、明治8年に公園となりました。現在、古城は、桜の時期を過ぎても初夏の新緑、秋の紅葉等四季折々楽しむことができます。

[所在地:長野県伊那市高遠町東高遠]

 <アクセス>JR飯田線・伊那市駅からバスで(約25分)高遠駅下車,徒歩で城跡まで約15分。

高遠城址案内図

 

二の丸の概要

二の丸跡

 

問屋門の概要

問屋門

   本丸御門は、枡形で、一の門が冠木門、二の門が櫓門でした。現在ある門は、城下町の本町にあった問屋役所の門を昭和23年(1948年)に移築したものです。

本丸の概要

本丸

太鼓櫓概要

太鼓櫓

   江戸時代には搦手門の傍らにあったが、明治10年(1877年)に本丸南隅櫓の跡に移されました。現在の太鼓櫓は、大正2年(1913年)に再建された建物です。

新城・藤原神社の概要

藤原・新城神社

   内藤家の祖神・藤原鎌足の社と高遠城の戦で壮烈な最後を遂げた仁科盛信を祀った社を明治12年(1879年)に合祀した神社。

法幢院曲輪の概要

法幢院曲輪

 

高遠閣の概要

高遠閣

空堀

 

進徳館の概要

   最後の高遠城主であった内藤頼直が万延元年(1860年)に三の丸に創設した藩校。撤去を免れた東西の2棟と玄関が現存しています。

進徳館

 

進徳館

 

2015/04/15 訪城

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高遠城の戦  天正10年(1582年)2月23日~3月2日

 武田信玄の娘を妻とし、武田一族の扱いをうけていた信濃の木曽義昌が離反し、織田信長方となった。織田信長は、武田勝頼討伐の好機到来とみて、嫡男・織田信忠に50,000騎で武田信玄の五男・仁科盛信が3,000騎で籠城する高遠城を攻めさせた。武田勝頼は、15,000騎を率いて新府城を出て、諏訪の上原まで出陣してきたが、そこから進まなかったのである。つまり、仁科盛信は、兄・武田勝頼に見捨てられた形で、展望のない籠城を続け、3月2日,城内にいた女も子も全員殺害された。そして、その日のうちに城は落ちた。武田勝頼は、3月3日、新府城に火を放って岩殿城をめざしたが、3月11日、天目山麓の田野で自刃し、武田氏は滅亡した。